東海山照源寺(浄土宗) ― 藩祖松平隠岐守定勝公の墓所 ― 
三重県桑名市東方

〈照源寺山門〉                       〈照源寺本堂〉
山門は寛永元年、松平定行公により造営され、桑名市指定の史跡となっています。
※写真は照源寺様のHPより転載しています。
 
  浄土宗


  阿弥陀如来


  遠江掛川天然寺六世 宗蓮社伝誉上人三甫大和尚


  松平家桑名藩2代藩主 松平隠岐守定行公 (眞常院殿前侍従道賢勝山大居士)



  華頂山知恩教院大谷寺(知恩院)直末
   檀林格、院家寺(花頂宮院家職)。院家寺とは御門跡寺院に次ぐ寺格です。
   紫衣着用を許されています。

  
   智徳院、智光院、授法院


  松平越中守家より寺領200石。
   本家・松平隠岐守家より米200俵(明和5年より)。

寛永元年
(1624)
 松平家桑名藩初代藩主の松平隠岐守定勝公が桑名城で卒去。
 法号は崇源院殿前四品羽林次将雲巌円徹大居士。享年65歳でした。
 2代将軍秀忠公は、嫡子定行公に定勝公の菩提寺の造営を命じました。定行公は菩提寺を造営し(山門が現存)、定勝公の法号である崇源院から、寺院号を崇源院と名づけました。
寛永3年
(1626)
 2代将軍秀忠公の御台所浅井氏が薨去。
 江戸の芝増上寺にて崇源院殿昌誉和興仁清大禅定尼の法号が贈られました。朝廷より従一位が贈られています。
 のちに松平家桑名藩3代藩主の松平越中守定綱公は秀忠公の夫人崇源院殿に遠慮し、寺号を「東海山照源寺」と改めました。
 これは伯父にあたる家康公の神号・東照大権現にちなんだものです。
寛永12年
(1635)
 照源寺を開いた定行公が、松山へ移封しました。
 定行公は松山城下に定勝公の菩提寺を開き(のちの大林寺です)、故三甫大和尚の弟子で照源寺二世の大誉三恕和尚を招きました。この時、塔頭2院も大林寺へ移りました。
 新しい桑名藩主には、定行公の実弟である定綱公が任じられました。定綱公は、兄の定行公へ父定勝公の廟を照源寺へ残すよう願い出、それが許されると、京都知恩院より深誉長意大和尚を迎えて、照源寺の住職としました。
正保3年
(1644
 定勝公の正室で、定行公、定綱公ら6兄弟の生母奥平氏(二之丸様)が桑名城で卒去しました。法号は松源院殿霊誉西棲法珠大姉。享年77歳。
 松平家は、知恩院三十三世にあたる本蓮社圓誉廓源大和尚を照源寺へ招いて、葬儀を執り行わせました。
慶安4年
(1651)
 松平越中守家の初代桑名藩主・定綱公が江戸で卒去しました。
法号は大鏡院殿前四品玄蓮社定誉一法大居士、享年60歳。江戸深川霊巌寺で火葬され、遺骨は桑名照源寺へ贈られ、埋葬されました。
 これ以降、照源寺には越中守家一統の墓が造られるようになりました。
 主なものとして、5代定儀公、6代定輝公、9代定信公、10代定永公、11代定和公です。
元禄16年
(1703)
 松山藩4代藩主の松平定直公は、この年より、藩祖定勝公の忌日には、墓前へ藩主名代として家老を派遣するようになりました。
宝暦4年
(1754)
 寛永元年に定行公が造営した庫裏が老朽化したので、庫裏を改築しました。
安永2年
(1773)
 定勝公の150回忌法要。
 伊予松山藩主松平家より代参として、奏者番岩瀬与兵衛が参列しました。
文政6年
(1823)
 定勝公の200回忌法要。
 当時、桑名領は松平下総守(奥平系)の領地でしたが、下総守の取り計らいで、とどこおりなく法要が行われました。
 伊予松山藩主の松平隠岐守定通公からは、家臣奥平藤左衛門昌蔭、中村宮内を代拝として派遣され、法要に参列しています。隠岐守家の菩提寺・江戸済海寺、松山大林寺でも同じく法要が執り行われました。
明治6年
(1873)
 旧伊予松山藩主の17代当主・久松定謨公より、定勝公と夫人奥平氏の墓が整備されました。
明治23年
(1890)
 寛永元年に定行公が造営した本堂が老朽化したので、本堂を改築しました(現存)。
大正12年
(1923)
 定勝公の三百回忌大法要が行われました。久松松平家の宗家である久松定謨伯爵と貞子夫人が参拝しました。


〈藩祖松平隠岐守定勝公の墓〉
久松家17代当主・久松伯爵定謨公により整備・造営されました。


〈藩祖松平隠岐守定勝公の内室奥平氏の墓〉
久松家17代当主・久松伯爵定謨公により整備・造営されました。


〈越中守家初代松平越中守定綱公の墓〉


〈越中守家9代松平越中守定信公の墓〉

伊予の葵