●● 伊予松山藩初代(久松松平家2代)  松平隠岐守定行(15841668 ●●
従五位下 河内守 隠岐守  従四位下 侍従 長崎探題職 溜間詰
前室 島津中納言家久の養女(長寿院殿) 後室 島津中納言家久の養女(浄蓮院殿)
天正12年
(1584)
【誕生】
 父は松平定勝公。母は内室奥平氏(たつ、二の丸殿)です。
 祖母は水野氏(伝通院殿)於大の方(徳川家康生母)です。
 幼名は千松。この幼名は家康公の父・松平広忠卿の幼名で、伯父家康公より拝領。
 以後、隠岐守家の代々の幼名となりました。
慶長7年
(1602)
【叙爵】
 従五位下に叙され河内守と称しました。

【加増】
 伏見城にて勤仕。そのため近江国蒲生郡の内2,000石を賜りました。
慶長8年
(1603)
【加増】
 1,000石を加増され近江国蒲生郡の内日野・音羽の二郷を馬飼料として賜りました。
慶長10年
(1605)
【結婚】
 伯父家康公の命により島津家久公の養女(千鶴姫)と婚姻。
 千鶴姫の実父は島津家の家臣・島津朝久公、生母は島津義弘公の長女・御屋地。
 時に千鶴姫は13歳でした。
慶長12年
(1607)
【父定勝公、伏見城代に就任】
 父の伏見城代就任のあとを受け、掛川城30,000石を賜いました。
 この年、嫡男定頼公が誕生しました。
慶長19年
(1614)
【大坂冬の陣】
 父定勝とともに従軍。伏見城、淀城を警護。その後、大坂住吉表に布陣。
元和元年
(1615)
【大坂夏の陣】
 命により伏見城を警衛。道明寺の戦いに参戦。一番手を挙げました。
元和3年
(1617)
【父定勝公、加増】
 父定勝公が60,000石を加増され桑名城へ移封。
 定行公も松平家世嗣として桑名へ移りました。
元和4年
(1618)
【内室、卒去】
 内室島津氏が桑名城で卒去。享年26歳。法号は長寿院殿月窓貞泉大姉。桑名長寿院へ埋葬されました。
 導師は長寿院の開山建庵順佐大和尚。
元和5年
(1619)
【再婚】
 定行公は、内室島津氏公の卒去を受け、島津家の願いにより、家久公の養女と再婚しました。
 家久公の養女は、長寿院のいとこにあたり、名前は千鶴姫といいます。
 千鶴姫の実父は伊集院忠真公、母は島津義弘公の次女お下です。
寛永元年
(1624)
【父定勝公、遺領継承】
 父の後をついで、桑名藩11万石を継承。
 定勝公の菩提を弔うため桑名城下に寺院を開基。崇源院と号しました。
寛永3年
(1626)
【昇進】
 淀城において四品に昇進しました。
 いとこ2代将軍秀忠公の上意により父定勝公の官名であった隠岐守に転任。
寛永11年
(1634)
【昇進】
 3代将軍家光公の上洛に際し供奉、侍従に昇進しました。
 この時、叙任されたのは、松平安芸守光晟、藤堂大学頭高次、加藤式部少輔明成、本多甲斐守政朝、保科肥後守正之、有馬玄蕃頭豊氏でした。実弟松平越中守定綱公は四品へ昇進しました(「大猷院殿御実紀」『徳川実紀』)。
【3代将軍家光公の参内に供奉】
 衣冠で乗馬、長刀、傘持一人ずつ、布衣侍二人、烏帽子着六人、白丁六人を具して、家光公の参内に供奉しました。
 井伊掃部頭直孝、酒井讃岐守忠勝、松平隠岐守定行、保科肥後守政之、本多甲斐守政朝の順で供奉したと、「大猷院殿御実紀」は伝えています。
寛永12年
(1635)
【移封】
 3代将軍家光公の命により、4万石の加増をもって伊予松山藩に転封。
 これは、当時中四国には、家門大名が配置されていないので、西国外様への牽制と警戒のためといわれています。
 
兄定行公の松山城入城と同時に、実弟美作守定房公が隣藩である今治城3万石へ入城しました。
 松山領は温泉郡35ヶ村、風早郡78ヶ村、久米郡31ヶ村、桑村郡26ヶ村、和気郡22ヶ村、野間郡29ヶ村、浮穴郡のうち43ヶ村、伊予郡のうち19ヶ村、周布郡のうち24ヶ村、越智郡のうち23ヶ村でした。

【松山長寿院開山(のちの法龍寺)】
 亡き妻・長寿院島津氏の菩提を弔うため、位牌を祀る寺院を松山城下に開きました。
 桑名長寿院より月舟賢順大和尚を招請、この寺院を長寿院と名づけました。
 長寿院はのちに仏国山法龍寺と改称しました。
  
  法龍寺本堂(戦後復興)
寛永14年
(1637)
【島原の乱】
 島原で乱が起きたので、定行公は者頭片岡新右衛門正信、使番黒田将監吉辰らを派遣して、板倉内膳正重昌公が率いる幕府軍へ加勢しました。しかし、翌年正月には板倉公が討死、松山藩士片岡正信も戦死、黒田将監吉辰は重傷を負いました。
 老中松平伊豆守信綱公が出陣すると、定行公は両名に代わり相田六左衛門正盛、荻原半兵衛重賢を派遣して、幕府軍に協力しました。
 つづいて、幕府は定行公へ島原出陣を命じました。ただちに定行公は江戸を立ち、松山城へ戻りました。定行公は宇和島より伊達遠江守より借用した御手船で出港、佐賀関に入港しました。佐賀関より熊本へ向かう途中、老中より出陣に及ばずとの仰せにより、出馬を取りやめました。

【道後温泉の改築】
 道後温泉の施設を、武士僧侶用の一之湯、婦人用の二之湯、庶民男子用の三之湯に分け、温泉施設の原型を作りました。
寛永15年
(1638)
【上屋敷拝領】
 御成橋内の江戸屋敷に替わり、芝愛宕下にあった京極若狭守忠高公の屋敷の跡地10,587坪を拝領しました。
 旧江戸屋敷は京極刑部少輔高和公(のちの讃岐丸亀城主)の屋敷となりました。
 芝愛宕下の江戸屋敷は江戸時代を通じて隠岐守家の上屋敷とされました。
寛永19年
(1642)
【松山城、改修】
 松山城の天守、門塀、石垣を改築。この時、天守を5層から3層に修築。
正保元年
(1644)
【肥前国長崎探題、就任】
 幕府より、長崎港での異国船取扱を担当する「肥前国長崎探題」に任じられ、同時に長崎屋敷を賜りました。
 この時、御槍二本を拝領、東海道へ七里飛脚を置き公私ともに使用する事を許されました。
 七里飛脚は御三家にのみ許されていました。
正保3年
(1644)
【生母、卒去】
 生母奥平氏(二之丸様)が桑名城で卒去しました。享年77歳。法号は松源院殿霊誉西棲法珠大姉。
 伊勢国桑名照源寺において、知恩院三十三世本蓮社圓誉廓源大和尚によって葬儀が執り行われ、同寺に埋葬されました。
 また御位牌が松山大林寺、今治松源院(廃寺)へ奉祀されています。
正保4年
(1646)
【ポルトガル船、長崎来航】 
 ポルトガル船が長崎に来航したとの報を受け、定行公は嫡子定頼公、実弟定房公をしたがえ長崎へ向かいました。
 当時、すでに幕府は清国とオランダ船以外の長崎入港を禁じていましたので、定行公は軍船にとどまり、ポルトガル船や長崎港の警固をしました。
 ポルトガル船来航の目的は、ポルトガルがスペインから独立したことの報告、通商再開を求めるものでした。
 しかし、幕府はそれらを受けることありませんでした。
 まもなく、ポルトガル船は長崎港から退去しました。 
慶安3年
(1650)
【常信寺、造営】
 松山城鬼門の地に祝谷常信寺を開き、大僧正天海の弟子憲海を招請しました。
 憲海は、寛文5年、横川別当代となり、常信寺中興開山となりました。
  

    祝谷山常信寺境内
慶安4年
(1651)
【3代将軍家光公、薨去】
 幼将軍家綱を補佐するため溜間詰に任命されました。
 同席は保科肥後守正之(家綱叔父)、井伊掃部頭直澄、松平右京大夫頼重(家光従弟)。
 「徳川実紀 厳有院殿御実紀」では井伊掃部頭直澄の嫡子靭負佐直滋(のちに廃嫡)のみ同席。

【実弟松平能登守定政、出家】
 実弟で刈谷城2万石城主の定政公が上野寛永寺で出家、幕府は狂気の沙汰として蟄居を命じ、定行公へお預けとなりました。
明暦4年
(1658)
【隠居】
 再三願い出ていた隠居が認められ、これ以降松山へ在住することも同時に認められました。この時、定行公は72歳でした。嫡子定頼公が2代藩主となりました。

【内室、卒去】
 後室島津氏千鶴姫が江戸で卒去。享年59歳。江戸曹渓寺で火葬。法号は蓮香院殿湖月貞鑑大姉。
 遺骨が松山法龍寺へ運ばれ、浄蓮院殿湖月貞鑑大姉と改められ、埋葬されています。
万治2年
(1659)
【出家】
 松山東野御殿へ移り、出家。松山(しょうざん)と称しました(のちに勝山)。これにより勝山公と奉称されました。
                
       東野御殿跡(東野御茶屋跡)      東野御殿内清水観音堂(復元)
寛文2年
(1662)
【2代藩主定頼公、急死】
 定頼公が江戸藩邸で落馬、卒去しました。享年56歳。法号は乾光院殿。大林寺へ埋葬。
 定頼公の嫡子定長公が3代藩主となりました。
寛文3年
(1663)
【土佐藩で野中兼山失脚】
 甥にあたる松平(山内)土佐守忠豊公より、野中兼山を失脚させたい旨の諮問があり、定行公はこれを了解しました。
寛文8年
(1668)
※肖像未見
【卒去】
 東野御殿で卒去。享年82歳。法号は眞常院殿前侍従道賢勝山大居士
 今治城より実弟の定房公が常信寺へお越しになり、香典を勝山公の御霊前へ献上しています。
 遺骸は松山祝谷常信寺に葬られ、壮大な廟が造営されました。
 位牌が江戸寛永寺の塔頭である東円院へも納められました。東円院は、定行公の実弟定綱公が、寛永寺内に開いた塔頭寺院です。

       
     眞常院殿定行公の御霊屋(祝谷山常信寺)
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参考文献
『松山叢談』
「大猷院殿御実紀」「厳有院殿御実紀」『徳川実紀』
平成31年2月2日更新