●● 伊予松山藩二代(久松松平家3代)  松平隠岐守定頼(16071662 ●●
従五位下 河内守 従四位下 隠岐守 長崎探題職 帝鑑間

内室 京極丹後守高広の女(養仙院殿)

慶長12年
(1607)
【誕生】
 掛川城で誕生。父は松平定行公、母は内室島津氏(千鶴姫、長寿院殿)。
元和4年
(1621)
【生母、卒去】
 生母、島津氏が桑名で卒去しました。
寛永3年
(1626)
【叙爵】
 3代将軍家光より従五位下に叙位され河内守と称しました。
寛永8年
(1631)
【婚礼】
 京極丹後守高広の女と婚礼。
寛永15年
(1638)
【嫡男、誕生】
 嫡男定盛公が誕生しました。
 定盛公はのちに将軍家の拝謁を賜い、従五位下に叙され主計頭と称しましたが、病弱により嫡男の座を弟定長に譲りました。
 寛文2年、松山東野へ隠居、父定頼公の卒後、久米村の屋敷へ退去し、藩より合力米2,000俵を賜いました。
 延宝2年に37歳で卒去。法号は真解院殿。大林寺へ埋葬されました。
寛永17年
(1640)
【次男、誕生】
 定長公、誕生しました。兄の後をうけ、嫡男となり3代藩主となりました。
正保元年
(1644)
【3男、誕生】
 定重と名づけられました。
 祖父定行公により、分家の越中守家2代桑名藩主の松平越中守定良公に嗣がないため、養子願が出されました。
 明暦3年に桑名藩主となりました。
 定重公は、享保2年江戸藩邸で卒去。享年74歳。法号は円鏡院殿。霊巌寺へ埋葬されました。
正保4年
(1647)
【長崎へ】
 父定行公が長崎探題職に任じられ、父とともに長崎へ赴きました。
【長女の婚礼】
 長女が薩摩藩2代藩主松平(島津)光久の嫡男綱久公へ嫁しました(一説に家光公の養女として)。
万治元年
(1658)
【2代藩主就任】
 父定行公が隠居。52歳で家督および長崎探題職を継承しました。
【継母、卒去】
 継母の島津氏が卒去。法号は浄蓮院殿、法龍寺に埋葬されました。
万治2年
(1659)
【初めて松山入り】
 藩主就任後、初めて松山入りをしました。この年、四品に昇進しました。
寛文元年
(1661)
【転任】
 台命により藩祖定勝公以来称している隠岐守に改称。
寛文2年
(1662)

※肖像未見
【卒去】
 江戸松山藩邸三田中屋敷にて乗馬の練習中、馬が驚奔し落馬、そのまま危篤に陥り父に先立ち卒去。享年56歳。
 この時、侍臣の吉田則親、戸田政勝、村越俊直、松野清正は責任を感じ殉死しています。
 定頼の法号は乾光院殿前四品最巌阿尊道英大居士。
 遺骸は江戸三田済海寺で荼毘に付され、遺骨が大林寺に埋葬されました。済海寺では礼拝所が設けられました。
 なお、内室京極氏により法華寺へも位牌が納められています。法号は乾徳院殿
天和3年
(1683)
【内室、卒去】
 内室、京極氏が江戸藩邸で卒去。享年69歳。法号は養仙院殿了栄妙護日立大姉。
 谷中瑞輪寺へ埋葬。霊牌所は法華寺
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参考文献:『松山叢談』 平成28年5月8日更新