●● 松平織部家七代 松平伊勢守定朝(17741856  ●●
従五位下  伊勢守

内室 伊沢内記方守の女(瑞光院)
安永3年
(1774)
【誕生】
 伊予松山藩松平隠岐守家の分家・松平織部家6代松平織部定寅公の長男として誕生。
 母は岡氏(定寅の側室、のちの照光院)。
寛政3年
(1791)
【初登城】
 11代将軍徳川家斉の拝謁を賜う。
寛政8年
(1796)
【遺跡を継承】
 父定寅公の卒去を受け、安房國朝夷郡・長狭郡内2,000石を継承、小普請となりました。
享和2年
(1802)
【転任】
 書院番より中奥番に転じました。
文化14年
(1817)
【西の丸目付に】
 西の丸目付に昇進しました。
文政5年
(1822)
【京都へ】
 禁裏附となり、江戸を離れ京都へ赴きました。
 趣味の花菖蒲栽培を京都でも続けました。優秀で美しい花を仁孝天皇へ献上。勾当内侍を通して御礼のお言葉を賜りました。
文政10年
(1827)
【京都町奉行に】
 奉書をもって、京都町奉行に任じられました。
天保6年
(1835)
【江戸へ戻る】
 小普請組支配となり、翌年辞職しました。
【花菖蒲の品種改良に没頭】

 定朝公は、父定寅公の影響を受け、ご幼少の頃より、草花を好み、公務のかたわらさまざまな草花を栽培したといいます。中でも花菖蒲をこよなく愛し、晩年にはみずからを菖翁と号していました。江戸麻布桜田町(現在の港区元麻布3丁目、中華人民共和国大使館付近)に、約2,500坪の旗本屋敷がありましたが、定朝公はこの屋敷で60年以上にわたり花菖蒲の改良を重ねました。禁裏附となって江戸を離れた後も、京都でも花菖蒲の改良を重ねています。隠居後も花菖蒲の品種改良を続け、名花「宇宙」を作り出した事は有名です。また、定朝公が生涯で作り出した花菖蒲は約300種、これらのうち約20種が今日に残されています。定朝公は花菖蒲の改良をすすめる中で、栽培法を著しました。弘化四年(1845)に『花鏡』を、嘉永年間には『花菖培養録』を著しています。
安政3年
(1856)
【卒去】
 江戸で卒去。享年84歳。法号は泰岳院殿勢州刺史松翁定朝大居士。江戸の臨済宗東海寺内定恵院に埋葬されました。

参考文献:『松山叢談』