●● 伊予松山藩六代(久松松平家7代)  松平隠岐守定喬(17161763 ●●
従五位下 山城守 隠岐守 従四位下 侍従 溜間詰

縁女 溜之間松平肥後守正容の女(雪窓院殿)  内室 佐竹右京大夫義峯の女(蓮寿院殿)

享保元年
(1716)
【誕生】
 母島津氏の実家、江戸薩摩藩邸で定英公の嫡男として誕生しました。母の栄姫は島津藩主松平薩摩守綱貴の女で、2代定頼公の曾孫にあたります。
 誕生後、松山藩邸へ移り、祖父定直公により松平百助と命名され、享保5年には父定英公より定喬と実名を進められました。
享保11年
(1726)
【初登城】
 8代将軍吉宗、世嗣家重公に初めて拝謁しました。

【婚約】
 溜間詰の松平正容公の女と縁組しました。正容公は保科肥後守正之公の第6男です。
享保13年
(1728)
【生母島津氏へ書簡を初めて出す】
 生母島津氏は定喬公を産んだ後、父定英公と離婚、鹿児島へ戻っていました。
 定喬公は生母への思いがつのり、島津家の家老島津杢へ伺い、許されたので初めて書簡を出しました。
 これ以来、生母へはことある事に書簡や贈り物を贈ったそうです。
享保15年
(1730)
【縁女、卒去】
 享保11年に婚約した姫が入輿する前に卒去しました。法号は雪窓院殿梅里妙香日空大姉。
 会津侯の菩提寺である谷中瑞輪寺へ埋葬されました。

【叙爵】
 従五位下に叙され、山城守と名乗りました。
享保18年
(1733)
【父定英公、急逝、6代藩主就任】
 隠岐守を名乗りました。藩主となって初めて松山へ入りました。

【松山札の辻へ目安箱、設置】
 儒者松田東門に文を作らせ、水谷平蔵が書を認めました。
  
   現在の松山札の辻
享保20年
(1735)
【日光宮より東照宮鎮座についてお尋ね】
 定喬公は常信寺山内に以前より東照宮が鎮座していると返答しました。
 当時の日光宮は輪王寺宮4世准三后公寛法親王です。天台座主も兼任していました。
 この常信寺山内の東照宮がのちに松山神社へと発展します。
元文元年
(1736)
【先祖久松佐渡守俊勝公150回忌法要】
 俊勝公は藩祖定勝公の父君です。三河国清田村和合院安楽寺で150回忌の法要が行われました。
 定喬公は香典白銀5枚を中老奥平長兵衛、竹村権之助へ御代香として派遣しました。
 伯父定章公、俊勝公を祖とする家中の面々も同じく香典を納めました。

【昇進】
 四品に昇進しました。
元文2年
(1737)
【9代将軍家重公に嫡男竹千代、誕生】
 竹千代君誕生につき日光東照宮へ御代参を命ぜられました。
元文4年
(1739)
【実弟高島弁之丞公を家老奥平三郎兵衛貞敦の養子とする】
 貞敦は3,000石の家臣で家老職を勤めましたが、現職のまま死去していました。その後を弁之丞が継承しました。
 弁之丞は奥平弁之丞貞儀と名を改めました。
元文5年
(1740)
【婚礼】
 佐竹右京大夫義峯の女・照姫と婚礼。
寛保元年
(1741)
【松山騒動】
 久万山26ヶ村の農民が年貢の負担軽減を求め大洲領へ逃散。藩政の座にあった家老奥平貞国は二名島へ流罪。
 この一連の騒動により、実弟・奥平貞儀を引戻し久松姓に復姓。久松直次郎と改められ、陰星梅鉢紋を御紋としました。
寛保3年
(1743)
【実弟久松直次郎公を幕府へ実弟として届出(丈夫届を提出)】
 直次郎はこれまで病身であったので、松山に居住していたが、このたび回復したので、定英公の庶子で定喬公の実弟であると老中土岐丹後守へ届出しました。これにより久松直次郎は、松平直次郎と名乗りました。
延享2年
(1745)
【西尾隠岐守忠尚、老中就任】
 西尾忠尚が隠岐守を名乗っていたので、定喬公へ改名が命ぜられました。
 定喬公は、松平隠岐守の名乗りは藩祖定勝公が東照宮家康公より賜り、歴代称してきたものであると、老中酒井雅楽頭忠知へ伺書を提出したところ、改名しなくてよいと返答をもらいました。
延享4年
(1747)
【将軍家名代、任命】
 幕府より遐仁親王の立太子(のちの桃園天皇)賀詞のため、将軍家名代(御使)に任ぜられました。侍従に昇進しました。
 御使副使は高家前田信濃守長泰です。

【上洛】
 京都では松平土佐守豊敷公の京屋敷を寓居としました。
 松平土佐守家は藩祖定勝公の次女阿姫(くまひめ)が家康公の養女として2代土佐守忠義公に嫁ぎ、同じく2代定頼公の5女が4代土佐守豊昌公に嫁いだ家です。
 定喬公は宮中に参内し、桜町天皇の拝謁、天盃を賜い、つづいて皇太子遐仁親王の拝謁を賜いました。
 松平隠岐守が将軍家名代として御所に参内したのは4代定直公以来、約40年ぶりのことでした。
寛延元年
(1748)
【3代将軍家光公、100回忌法要】
 常信寺で贈正一位大猷院殿家光公の百回忌法要が執り行われました。
   

 家光公百回忌法要が行われた常信寺
宝暦元年
(1751)
【伝通院殿水野氏、150回忌法要】
 将軍家では小石川伝通院で百五十回忌の法要が行われ、定喬公は香典白銀2枚を納めました。
 この日、大林寺でも百五十回忌の法要が執り行われています。
宝暦6年
(1756)
【溜之間任命】
 初代定行公以来100年間途絶えていた、溜間詰に任ぜられました。家中では盛大な祝賀行事が開かれました。
 同席は、松平讃岐守頼恭、井伊掃部頭直幸、酒井雅楽頭忠恭、松平亀五郎容清です。
宝暦10年
(1760)
【生母島津氏と約40年ぶりに対面】
 定喬公の生母島津氏は伊勢神宮参詣に先立ち大坂に逗留していました。
 定喬公は大坂中ノ島で、生母との対面を約40年ぶりに果たしました。
宝暦11年
(1761)
【長女、誕生】
 側室園部氏との間に第一子にして長女が誕生、鉄姫と名づけられました。
宝暦13年
(1763)


※肖像未見
【卒去】
 江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年48歳。法号は顕徳院殿従四位拾遺補闕前隠州順誉和光慈観大居士。
 これまで火葬されていましたが、養嗣定功公によって停止され、三田済海寺に土葬されました。遺髪が松山大林寺へ送られ埋葬されました。
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参考文献:『松山叢談』 平成28年5月8日更新