●● 伊予松山藩十代(久松松平家11代)  松平立丸定則(17931809 ●●
帝鑑間 無官

縁女 松平越中守定信公第三女福姫(智徳院殿)
寛政5年
(1793)
【誕生】
 父は松平隠岐守定国。実母は靖操院藤田氏の女。兄元之丞の夭折により翌年嫡男となり、若殿様と称されました。
寛政9年
(1797)
【婚姻と婚約者の卒去】
 叔父松平越中守定信の三女福姫と婚姻しました。
 しかし、縁女となった福姫は嫁すことなく3年後に卒去しました。享年5歳。法号は智徳院殿貞操慧倫大童女。霊巌寺に埋葬。
文化元年
(1804)
【父定国、卒去】
 父の卒去を受け、10代藩主となりました。そして実名を定則と改めました。
 この年、伊予郡松前浜に港を造営しています。

【弟の誕生】
 亡父定国と側室との間に男子が誕生しました。保丸と名づけられました。のちの11代藩主定通です
文化2年
(1805)
【藩校創設】
 城下二番町横町に初めての藩校興徳館を開設しました。杉山熊台を教授として藩士の指導を当たらせました。
文化5年
(1808)
【初登城】
 分家で今治藩主の松平壱岐守が同伴して江戸城へ初めて登城しました。
 11代将軍家斉公、世嗣大納言家慶公の拝謁を賜いました。

【千秋寺住職妙庵和尚が宇治万福寺へ昇住】
 妙庵和尚は翌年、将軍家の拝謁を賜い、万福寺へ入りました。妙庵は寛政八僧の一人です。
文化6年
(1809)

(定則公肖像)
【法龍寺、伊予国僧録となる】
 先年より、定則公は曹洞宗伊予国僧録について、龍穏寺からの分録を希望していました。
 これを受け、法龍寺は分録志願を江戸、関三刹へ提出、この年、法龍寺が伊予国僧録に任じられました。
    
     佛國山法龍寺 山門

【弟保丸の丈夫届、提出】
 病弱であった弟保丸が回復したので、幕府に実弟保丸13歳(実は6歳)と届け出、名を勝丸を改めました。

【弟勝丸を急養子】
 その直後、卒去。享年20歳(実は17歳)。ついにお国入りを果たさないままの逝去でした(歴代藩主でお国入りをしていない唯一の藩主です)。法号は文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士。
 慣例に従い三田済海寺に埋葬、遺髪が松山大林寺へ納められました。
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参考文献
『松山叢談』

更新日
平成29年11月21日