●● 陸奥白河藩(松平越中守家)九代  松平越中守定信(1758〜1829) ●●
溜間詰  従五位下 上総介 越中守 従四位下 侍従 左近衛権少将 贈正三位
前室 松平越中守定邦女 後室 加藤遠江守泰武女
宝暦8年
(1758)
【江戸城田安御殿で誕生】
 父は従三位田安中納言宗武卿。実母は香詮院殿山村氏の女。賢丸(まさまる)と名づけられました。
 同母兄にのちに伊予松山藩9代藩主となる定国公がいます。
    
 
以後たびたび大奥へ参り、懇命を受けました。
明和8年
(1771)
【父、薨去】
 田安御殿で父の徳川宗武公が薨去しました。享年57歳。法号は悠然院殿、上野寛永寺凌雲院に葬られました。
安永3年
(1774)
【松平越中守へ養子入り】
 長兄治察公は病弱、次兄定国公は松平隠岐守家へ入嗣(明和5年)、そのような環境で、田安家の血統が断絶する恐れがありましたが、幕府の命により、白河藩主で松平越中守定邦の聟養子となりました。室は定邦の女です。
 越中守家は、初代定綱公を祖とする家で、松平隠岐守家(久松家)の分家にあたります。
 翌年、越中守家の屋敷へ移りました。
安永4年
(1775)
【実兄治察、薨去】
 実兄の治察が田安邸で薨去。享年二十一歳。高尚院と贈られました。この時、定信は田安邸に住んでおり、養母寶蓮院近衛氏より、田安家への復帰を願い出ましたが、却下。その後、越中守家屋敷へと移りました。田安家はその後、十四年間「御明屋形」となりました。
【将軍家へ初拝謁】
 初めて10代将軍家治公の拝謁を賜いました。家治公とは従弟の間柄になります。
 そして、従五位下に叙され、上総介に任じられました。
安永5年
(1776)
【初めてお国入り】
 養父定邦公の日光山代拝のため、養父に代わって白河領へ入りました。
天明3年
(1783)
【家督を継承】
 養父定邦公が隠居したので、家督を継承しました。
 越中守と改め、四品に昇進しました。
 越中守家では、家督継承後、直ちに四品に昇った前例はありませんが、定信公の出自を勘案し、特旨を以て昇進しました。
 藩主になった定信公は、天明の大飢饉に際し、藩士の減禄、倹約、租税免除などで、それを切り抜けました。
天明4年
(1784)
【通称官名を改名するようお達し】
 この年、牧野越中守貞長公が老中となりました。ふつう、諸大名は役職者(老中ら)と同じ官名であれば、それを改めます。しかし、松平家では、「越中守」の官名は、初代定綱公が台徳院殿様(2代将軍秀忠公)より、賜ったものであるから、改めることはできない旨を伝え、認められました。
天明5年
(1785)
【溜間詰へ昇進】
 実家の養母である宝蓮院近衛氏の願いにより、定信公一代に限り、「黒書院溜間詰」に昇進しました。
天明6年
(1786)
【10代将軍家治公、薨御】
 従兄の家治公が江戸城で薨御しました。勅贈は浚明院殿。東叡山へ埋葬されました。
 11代将軍家斉公の使者より、家治公の遺品を拝領しました。これは定信公が家治公の従弟にあたるためです。
天明7年
(1787)
【老中職に任命】
 御三家、一橋家、家門らの支持を受けて、老中に任じられ、その首座となり、侍従に昇進、翌年には将軍補佐職を兼ねました。
 ただちに田沼政権の重商主義を訂正、政治路線を改め、いわゆる寛政の改革を断行しました。。
天明8年
(1788)
【京都、大火】
 大火で禁裏御所が焼失すると、御所の再建を任され上洛。参内し、光格天皇の拝謁、天盃を賜いました。
 続いて後桜町上皇、大女院青綺門院二条舎子、女院恭礼門院一条富子の拝謁、宴を賜いました
寛政2年
(1790)
【老中職、辞職を願い出る】
 老中職の辞職を願い出ましたが、許されませんでした。
【養父、卒去】
 養父定邦公が卒去しました。享年63歳。法号は寛光院殿刺史紹誉憐道大居士。江戸霊巌寺へ埋葬されました。
【禁裏御所、落成】
 禁裏御所が落成し、将軍家、朝廷より数々のお品を賜いました。
寛政4年
(1791)
【老中職、辞職を願い出る】
 老中職の辞職を願い出ましたが、許されませんでした。
【尊号事件】
 宮中席次で、光格天皇は実父閑院宮典仁親王が、三公の下座に位置するのはしのびないとして、実父に「太上天皇」の尊号を贈ろうとしました。しかし、定信公は、即位していない親王様が、上皇になった前例はないとして、それに反対し、武家伝奏を処罰しました。光格天皇はあえなく断念しました。
 同時に将軍家でも11代家斉公の実父治済公を大御所として、西の丸へ迎えようとしましたが、それにも反対の立場を示しました。
寛政5年
(1793)
【老中職、辞職】
 定信公のたびたびの老中職辞職願が許され、老中兼将軍補佐職を解かれました。
 左近衛権少将に叙任されました。溜間詰に留まり、幕政に諮問しました。
文化元年
(1804)
【実兄定国公、逝去】
 実兄で伊予松山藩松平家9代藩主の定国公が逝去しました。幼い遺児定則公の後見をしました。
文化7年
(1810)
【房総沿岸警備にあたる】
 外国船の出没が多くなってきたので、幕府の命により房総沿岸の警備にあたりました。
文化9年
(1812)
【隠居】
 藩政に専念していましたが、55歳で隠居。江戸築地の別邸に閑居し、楽翁と号しました。
 嫡男定永公が10代藩主を継承しました。楽翁公は隠居後も藩主定永公への後見をつとめました。
文政6年
(1823)
【お国替え】
 定信公は、越中守家の旧領地である伊勢桑名へのお国替えを画策していましたが、それが実りお国替えとなりました。実に110年ぶりの旧知復封でした。
文政12年
(1829)
【卒去】
 江戸で卒去しました。享年72歳。法号は守国院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士。江戸霊巌寺に埋葬されました。
 装束と歯骨が領地桑名に運ばれ、桑名照源寺へ埋葬されました。
   
   桑名照源寺の定信公墓
天保5年
(1834)
【御神号を御追号】
 楽翁公へ「守國大明神」の御神号が御追号され、桑名城朝陽丸に鎮國大明神(初代定綱公)と合祀されました。
 現在、桑名城本丸跡に「鎮國守國神社」が創建され、祀られています。
明治41年
(1908)
【贈正三位、追贈】
 朝廷より定信公へ正三位の位が追贈されました。
目次

更新日:平成29年1月27日
参考文献:松平定信(1793)宇下人信