●● 伊予松山藩七代(久松松平家8代)  松平隠岐守定功(17331765 ●●
従五位下 隠岐守 帝鑑間

内室 松平安芸守宗恒の女(光姫・桃夭院殿)
享保18年
(1733)
【誕生】
 父定英公の死から2ヶ月後に誕生しました。実母は定英公の側室・赤松氏の女(名は多世です)。のち貞香院と称しました。
 兄定喬公により高島弁之丞と名づけられました。御紋は扇に日の丸。佐竹庄兵衛に養子に出されました。
 翌年、松山へ帰郷し、二ノ丸黒門見通しの屋敷を住まいとしました。
元文4年
(1739)
【家老奥平家へ養子入り】
 家老職の奥平三郎兵衛貞敦が江戸で死去しました。
 兄の定喬公の命により奥平貞敦の養嗣となり、遺録3,000石を賜り、久兵衛貞国の養孫となりました。
 名を奥平弁之丞貞儀と改めました。
寛保元年
(1741)
【松山騒動】
 奥平久兵衛貞国の屋敷(東屋敷)より三ノ丸へ移り、その夜に養祖父貞国が遠島となりました。
 直後、久松氏に復し名を直次郎定功と改め、御紋を陰星梅鉢紋としました。
 実兄の定喬公より御賄料1,500俵を賜い、奥平家の屋敷であった東屋敷を住まいとしました。
 東屋敷はのちに家老水野氏の屋敷となっています。現在、松山東雲学園がある場所です。
寛保3年
(1743)
【丈夫届、届出】
 兄定喬公より老中土岐丹後守頼稔へ、丈夫届が出されました。
 丈夫届の提出により「松平氏」となりました。
宝暦13年
(1763)
【兄定喬公の養子となり7代藩主に就任】
 兄定喬公が江戸藩邸で危篤に陥いると、幕府へ定喬公の急養子となることが願い出されました。
 定喬公の卒去後、養子と遺領15万石の相続が認められ、7代藩主となりました。
 この時、譜代帝鑑間席とされました。
 定喬公の長女鉄姫を養女としました。

【今治藩主の名代として家督御礼の為、登城】
 今治藩(分家)松平家では、新藩主松平吉十郎に家督継承が許されましたが、藩主は未だ幼く、登城の任に堪えないとして、定功公が今治藩主の名代として登城しました。

【藩主就任後、初めて松山入り】
 家臣は家督継承後1年は江戸表にいれば、必ず官位昇進があるので、今しばらく帰国は延期した方がよいと申し上げましたが、定功公は官位昇進よりもまずは松山の領民を安心させるのが先決として帰国しました。
 また末家である松平因幡守は、江戸で1年を過ごせば、官位昇進・溜間詰への転席は必ずある。隠岐守家は眞常院様(初代定行公)以来、溜間詰を仰せ付けられ、井伊掃部頭殿、松平肥後守殿、松平讃岐守殿にも劣らない家格です。ですから、まずは江戸に滞府あるべきと伝えましたが、定功公は先祖の遺領を相続したのだから、さきに領民に対面すべきとして、帰国しました。

【藩札を発行】
 10匁から2分の新銀札(藩札)を発行しました。
 この藩札は預かり地であり幕府領の川之江や近接の大洲領、小松領でも流通しました。
 この時の銀札1匁=銭60文という相場が明治まで継続しました。
      
 この時発行された宝暦の銀札です。
明和元年
(1764)
【叙爵】
 従五位下に叙され、隠岐守を称しました。

【婚礼】
 松平(浅野)安芸守宗恒公の女(岩姫のち光姫)が入輿しました。

【大病】
 この年の閏12月頃より大病にかかりました。
明和2年
(1765)

※肖像未見
【従弟松平備中守定静公を養子としました】
 昨年末以来の大病が回復せず、従弟の定静公(松山新田藩2代藩主)を急養子とする旨を、松平長門守定蔵公によって、幕府へ届出されました。定蔵公は旗本2,000石で、藩祖定勝公第4男定実公の家です。
         
【卒去】
 定蔵公が養子届を提出した翌日、江戸藩邸で卒去しました。
 享年33歳。治封わずか3年。法号は光輝院殿前隠州最誉慈尊一円大居士。
 済海寺に埋葬、遺髪が大林寺へ埋葬されました。 


【内室の大帰】
 定功公の遺言には、内室がまだ若いので大帰再嫁せよというのがありました。
 光姫は広島藩邸へ大帰し、のちに丹後宮津藩主松平(本庄)伊予守資承公へ再嫁しました。
 光姫は安永4年に卒去し、桃夭院殿蓁誉誓憶貞廉大姉と号し、浅草誓願寺へ埋葬されました。
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参考文献:『松山叢談』 平成28年5月8日 更新