●● 伊予松山藩四代(久松松平家5代) 松平隠岐守定直(1660−1720) ●● 従五位下 淡路守 隠岐守 従四位下 侍従 帝鑑間 内室 老中稲葉正通の女(正心院殿) |
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万治3年 (1660) |
【誕生】 父は今治藩初代藩主松平定房公の嫡子松平定時公。実母は側室平岡氏(嶺頂院殿)の女。 松平鍋之助と名づけられ、定時公の嫡男となりました。 すなわち、松平定房公の嫡孫です。父定時公はのちに二代今治藩主となりました。 |
延宝2年 (1674) |
【宗家・松平隠岐守定長公の大病により、松平家へ入嗣】 養父は松平定長公。養母は内室京極氏(春光院殿)。養父より松平萬之助定直と名づけられました。 同年、養父卒去。4代藩主に就任しました。 【叙爵】 従五位下に叙され、淡路守と名乗りました。翌年、実父定時公が松山城へお越しになりました。 |
延宝4年 (1676) |
【実父定時公、卒去】 定時公が江戸で卒去しました。享年43歳。法号は嶺香院殿前作州刺史実誉体安恵相大居士。 江戸霊巌寺に埋葬されました。今治城には定時公の肖像画が所蔵展示されています。 |
延宝5年 (1677) |
【転任と昇進】 台命により隠岐守に転任し松平隠岐守と称しました。そして、四品に昇進しました。 |
延宝6年 (1678) |
【東野御殿、廃止】 養曽祖父定行公の隠居所・東野御殿が取り除かれました。 |
延宝7年 (1679) |
【定免制・地坪制の開始】 延宝に入ると、度重なる自然災害により藩財政は早くも逼迫し始めました。 そこで、定直公は高内親昌を奉行に任じて、藩財政の回復を図らせました。 親昌は財政の安定化をはかるため検見制を廃止、定免性を復活させました。この年、領内に定免制を実施する法令を頒布しました。 これにより藩の財政は安定化の方向へ転じています。 |
延宝8年 (1680) |
【道後温泉の入浴規定を定める】 定行公によって整備された道後温泉の入浴規定を定めました。 @喧嘩口論の禁止、 A他地域からの来湯者は確実な手形を所持している事、 B入浴料は一人銀三分などが定められました 【婚礼】 稲葉丹後守正通の女が入輿。のちの正心院殿です。 |
天和元年 (1681) |
【5代将軍綱吉、越後騒動を再審】 松平光通公(越後少将光通公)の改易により領内で身柄を預かりました。 光通公は松山城三之丸へ入った後、北屋敷へ移りました。 |
天和2年 (1682) |
【葵紋、使用許可】 大老堀田加賀守正俊公より、旧例のように葵御紋を武具・船具に使用することが許されました。 藩祖定勝公が家康公より葵紋を賜り、歴代にわたり使用しています。 ![]() 藩祖定勝公が家康公より賜った葵御紋 |
天和3年 (1683) |
【波止浜塩田の開発を始める】 波止浜で塩田の開発工事を始めました。のちに大規模な塩田となりました。 |
貞享2年 (1685) |
【大高坂芝山を招く】 南学正統の継承者である大高坂芝山を招き、松山に儒教の普及を図りました。 |
貞享4年 (1687) |
【養弟松平左内定安公、卒去】 定直公の養弟であった定安公が卒去しました。享年26歳。法号は廓了院殿眞誉観無大円居士。 済海寺に埋葬されました。 定安公は、2代定頼公の元嫡子主計頭定盛公の養子です。 定安公の実父は酒井備後守忠朝公、生母は初代定行公の長女龍光院殿です。したがって、定行公の外孫にあたり、定盛公の従弟にあたります。 定安公は定盛公が嫡子の座を定長公に譲った後、定盛公の養子となり、養父定盛公とともに松山に移りました。延宝2年、養父が卒去すると、同5年将軍家より定直公同伴の上、出府せよとの命により、江戸に下りました。翌年、命により定直公の養弟となりました。天和3年、定直公の領知より1,300石を分知し、旗本として奉仕することを願い出ましたが、許可されませんでした。定直公は定安公を家老として遇していました。 【藩庁、移転】 藩庁を二ノ丸より三ノ丸に移し、二ノ丸を藩庁別棟(隠居所)としました。 三ノ丸藩邸というのは、現在の堀の内国立がんセンターがあった場所です。 ![]() ![]() 松山城二ノ丸(現・二ノ丸史跡公園) 松山城三ノ丸藩邸跡(旧国立がんセンター) 【嫡男、誕生】 嫡男が生まれ、松平万之助と名づけられました。生母は内室稲葉氏です。 【千秋寺、造営】 宝林寺に隣接する場所に黄檗宗千秋寺を開きました。開山は則非和尚(隠元禅師の高弟、清国福清県の人)。新田50石を寄進しました。 ![]() 戦後、再建された千秋寺本堂 【大山為起を招く】 山崎学を修めた大山為起を京都から招き、味酒神社(現在の阿沼美神社)に勤務させました。 為起は在勤25年におよび、垂加流神道を鼓吹しました。 |
元禄2年 (1689) |
【内室、卒去】 内室・稲葉氏が卒去しました。享年23歳。法号は正心院殿光誉節巌操貞大姉。 江戸済海寺に埋葬されました。 |
元禄3年 (1690) |
【法華寺へ初めて参拝】 2代隠岐守定頼公以来、祖母京極氏などが祀られている法華寺へ参拝し、50石を寄進しました。 |
元禄4年 (1691) |
【嫡男万之助定仲公、卒去】 享年5歳。法号は松岳院殿高山智光円清大童子。江戸済海寺へ埋葬されました。 【三島宮(大山祇神社)へ甲冑を奉納】 定直公はその書付の中で、「従四位下隠岐守源朝臣定直」と署名しています。 |
元禄6年 (1693) |
【天満宮道真公の御神像を松山城天守へ安置】 江戸亀井天神の別当に太宰府天満宮の御神像の模造を作らせ、それを天守へ安置しました。 道真公は松平隠岐守の家祖です。 【京都屋敷を求める】 京都誓願寺通りに京都屋敷を買い求めました。 |
元禄9年 (1696) |
【次男、三男、誕生】 江戸で次男が誕生、鍋之助と名づけられました。 つづいて松山では3男が誕生、百助と名づけられました。鍋之助が嫡男となりました。 |
元禄10年 (1697) |
【幕府、国絵図改正】 定直公は伊予国絵図の提出を求められ、西条藩主松平左京大夫頼純公、宇和島藩主伊達遠江守宗利公、大洲藩主加藤遠江守泰実公、今治藩主松平駿河守定陳公より、領内の絵図を取り寄せ、編集。元禄13年、幕府へ提出しました。 |
元禄11年 (1698) |
【嫡男、卒去】 鍋之助公が卒去しました。享年3歳。瑞雲院殿映智峯大童子。常信寺へ埋葬されました。 鍋之助の生母・星野氏は翌年病気養生のため、京都へ向かいました。 しかし、薬石効なく、まもなく亡くなりました。 星野氏には京都に母がいましたが、松平家より十人扶持を受けました。 鍋之助公の卒去により、百助が嫡男となりました。のちの5代定英公です。 |
元禄12年 (1699) |
【龍穏寺、伊予国僧録に任命】 定直公は龍穏寺を曹洞宗伊予国僧録に任命するよう、江戸愛宕下青松寺へ依頼しました。 青松寺は寺社奉行へ申請、龍穏寺を松山藩、西条藩、小松藩、今治藩各領内の曹洞宗僧録に任命。定直公は龍穏寺の僧録任命を受け、寺領50石を寄進しました。 ![]() 天臨山龍穏寺 山門 龍穏寺は伊予国守護河野家の菩提寺で隆盛を極めましたが、戦災で全山焼失。 現在、復興中です。 |
元禄13年 (1700) |
【第4男、誕生】 定直公厄年の誕生により改姓。長島辰之丞と名づけられました。紋は檜扇とされました。生母は円寿院村上氏。上代吉右衛門へ預けられました。 辰之丞公は元禄15年、松平姓に復姓。源之助と改められ、宝永3年、実名を定章公とされました。 |
元禄15年 (1702) |
【赤穂浪士の吉良邸討ち入り】 岳父であり老中の稲葉丹後守正通公より浅野内匠の旧家臣を預かるよう仰せ付けられました。 大石主税、堀部安兵衛などを江戸藩邸(現イタリア大使館)で預かりました。 翌年、浅野家の旧家臣が江戸藩邸で切腹しました。定直公は泉岳寺へ香典白銀50枚、泉岳寺徒弟へは金200疋を納めました。 |
元禄16年 (1703) |
【藩祖定勝公の廟所へ代参始まる】 この年より、藩祖定勝公の命日に、公の廟所(伊勢桑名照源寺)へ、家老が藩主名代として派遣されるようになりました。 |
宝永元年 (1704) |
【昇進】 来春、将軍家世嗣・家宣公が権大納言に昇進するのに伴い、家宣公の名代として御使に任命されました。 参内するにあたり、侍従に昇進しました。 【総柄青貝槍を拝領】 この時、総柄青貝槍を拝領しました。この槍は将軍家の認許が必要で、栄誉ある槍でした。長さ2mの槍の柄に青貝を微塵にして塗った装飾性の高い槍です。 2本槍を許されたのは、松平隠岐守家の他に紀州家、戸田松平家(松本藩)、眞田家(信濃松代藩)、喜連川家、松平家(川越藩)のみです。 隠岐守家では、藩祖定勝公が東照宮家康公より拝領したものです。それが定行公へ継承されましたが、定頼公へは譲られていなかったので、老中稲葉正通公より再び「下賜」のお達しがあったのです。 |
宝永2年 (1705) |
【将軍家世嗣・家宣公の名代として上洛】 綱吉公の名代は酒井雅楽頭忠学、副使は高家織田能登守。家宣公名代副使は高家戸田中務大輔。 上洛後、参内し東山天皇の拝謁、天盃を賜い、続いて仙洞御所へ参院、霊元院の拝謁を賜いました。 【藩札の発行、税制改正】 領内では財政難を打開するため、初めて藩札を発行(宝永5年、幕命により通用停止)。 この時、10匁、5匁、5分、3分の藩札が発行されたといいます。 その一方で、地坪制度を導入することによって農民負担の均質化をはかり、課税法を検見法から定免法に改めることによって、安定した年貢収入に成功しました。 |
宝永4年 (1707) |
【宝永の大地震】 松山では道後温泉の湧出が一時停止。 |
宝永5年 (1708) |
【松山藩京都屋敷大火】 松山藩京都屋敷が大火で焼失しました。 |
正徳5年 (1715) |
【嫡男、婚礼】 嫡男の定英公、薩摩藩主松平薩摩守綱貴の女・栄姫と婚礼。 |
享保5年 (1720) ※肖像未見 |
【おこり(マラリア)を発病】 おこりを発病し、死期を悟った定直公は、嫡男定英公へ家督相続、4男定章公へ新田10,000石を分知の旨、幕府へ願い出ました。 【卒去】 享年61歳。藩主在任は45年を超え、松平家歴代で一番長い在任期間です。 定直公は壮年の頃から俳諧をたしなみ、榎本其角を藩邸に招き、句作にふけりました。これにより江戸座の俳風が松山へと伝わりました。 法号は大龍院殿前四位拾遺兼隠州刺史観誉喜広聞証大居士。江戸済海寺で火葬され、遺骨が大林寺へ埋葬されました。号は三嘯(さんしょう)。 |
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