●● 伊予松山藩三代(久松松平家4代)  松平隠岐守定長(16401674 ●●
従五位下 従四位下 石見守 隠岐守 帝鑑間

前室 小笠原右近将監忠真の女(梅鑑院殿)  後室 京極信濃守高勝の女(春光院殿)

寛永17年
(1640)
【江戸藩邸で誕生】
 父は松平定頼公、母は内室京極氏(養仙院殿)の女。
慶安二年
(1649)
【初拝謁】
 兄定盛公とともに、定行公の孫として、三代将軍家光公の拝謁を賜いました。時に十歳でした。
 この時、兄定盛公は嫡子とされました。
万治元年
(1658)
【叙爵】
 従五位下に叙され兵庫頭、のち石見守と称しました。
寛文2年
(1662)
【父定頼公が卒去、3代藩主就任】
 父定頼公が亡くなると、兄定盛公は病弱であるため嫡男の座を弟定長公へ譲り、松山へ閑居しました。
 定長公が3代藩主となりました。
寛文3年
(1663)
【昇進】】
 四品に昇進。
【三津魚市場を整備】
 三津魚市場を統率させるため天野作右衛門らに肴問屋として魚市場の事務を取り扱わせました。翌年には売買の紛争を未然に防ぐため「隠し言葉」を使うよう定めました。
寛文4年
(1664)
【転任】
 藩祖定勝公以来歴代にわたり称している隠岐守を称しました。

【道後湯月八幡宮(現在の伊佐爾波神社)、造営】
 道後湯月八幡宮の造営を開始。総奉行は竹村長左衛門、普請奉行は早水八左衛門・勝田金兵衛・田中与左衛門・砂川仁兵衛・滝助之丞ら。大工は六七九人、延人数は六万九、〇一七人を数え、寛文7年完成。
 遷宮式が行われました藩主の代理として家老竹内家が列席しました。
   
      伊佐爾波神社 神門
寛文5年
(1665)
【定真公の遺子、旗本となる】
 藩祖定勝公の第4男定真公の男子が定長公の願いより旗本に列しました。
 松平織部定之公に2,000石、松平内蔵之助定寛公に1,000石を賜いました。
               
【婚礼】
 小笠原忠真公の姫君が入輿しました。のちの梅鑑院殿です。
寛文7年
(1667)
【内室、卒去】
 小笠原氏が卒去しました。
 谷中天王寺に埋葬されました。法号は心徳院殿天裕日泰大姉。
 松山大林寺に位牌が納められ、梅鑑院殿香学映天大姉と贈られました。
 のちに母方につながる京極氏から室を迎えました(京極高広公の孫、春光院の姪)。のちの春光院殿です。
寛文10年
(1670)
【身延山久遠寺へ多宝塔を造営】
 生母で2代藩主定頼の内室であった、京極氏の女(養仙院殿)の逆修塔として、身延山久遠寺へ多宝塔を寄進しました。生母京極氏は、天和3(1683)年、江戸屋敷で亡くなっています。享年69歳。
延宝2年
(1674)

※肖像未見
【大病】
 大病になりました。定長公には子女がいなかったので、今治藩初代藩主松平美作守定房公の嫡孫鍋之助を養嗣にむかえました。
 鍋之助公は藩祖定勝公の曾孫です。その後、鍋之助は名を万之助と改めています。

【卒去】
 江戸藩邸で亡くなりました。享年35歳。済海寺で火葬。法号は天鏡院殿前四品寂翁月照大居士。
 大林寺へ遺骨を埋葬。
 室京極氏により身延山久遠寺へ分骨。法号は亨徳院殿陽山日静大居士。
 室京極氏は定長公の卒去により剃髪。長松院と称し、夫の菩提を弔いました。
 長松院京極氏は、宝永3年、春光院と改称しています。
享保2年
(1717)
【後室春光院殿京極氏、卒去】
 享年64歳。谷中瑞輪寺へ埋葬。法号は春光院殿瓊室妙樹日栄大姉。
 身延山久遠寺へ分骨。位牌が松山法華寺へ納められました。
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参考文献:『松山叢談』 平成28年8月2日更新