●● 伊予松山藩十一代(久松松平家12代)  松平隠岐守定通(18041835 ●●
従五位下 隠岐守 従四位下 侍従 溜間詰

内室 田安従一位大納言斉匡の女□姫(□は金へんに栄)

文化元年
(1804)
【誕生】
 父は松平隠岐守定国。実母は祐光院林氏の女。父定国が卒去した半年後に誕生しました。叔父松平越中守定信より保丸と名づけられました。

      
文化6年
(1809)
【兄、定則公により丈夫届、提出】
 この時、定則実弟保丸13歳と届出されましたが、実際は6歳でした。同時に勝丸と改称しました。

【定則公の急養子】
 分家で今治藩主の松平若狭守定芝公より定則公急養子の願書が提出されました。

【兄の卒去】
 名代の松平若狭守定芝公に急養子願い、遺領相続が許され、11代藩主となりました。
 叔父の定信公より定通の名が進められ、松平三郎四郎定通と名乗りました。

【家督相続の御礼登城】
 定通公はいまだ6歳であるため、名代として定芝公が江戸城へ登城。将軍家へ家督相続の御礼を言上しました。

【藩祖定勝公の曽祖父・久松肥前守定益公の300回遠忌法要】
 定益公の300回忌法要が尾張国洞雲院で執り行われました。定通公は香典を献じました。


【家中に倹約令】
 以後、数回にわたり倹約令を通達。
 定通公は家中の借上も実施する一方で、知行高に応じて銭札が支給されました。
 また、自らは太織物の衣服や木綿を着用、食膳は一汁一菜を守りました。
文化9年
(1812)
【定則公の御霊屋完成】
 大林寺に定則公の御霊屋が完成、遺髪が納められました。
文化10年
(1813)
【婚約】
 台命により徳川(田安)斉匡の女(のちの貞寿院)と婚約しました


【初登城】
 17歳になったのを機に江戸城へ初めて登城。実際は10歳です。将軍家の拝謁を賜いました。
 葵御紋御鞍覆並御茶弁当を持つことが許されました。
文化11年
(1814)
【叙爵】
 従五位下に叙され、隠岐守を名乗りました。文化元年の父定国公の卒去以来10年ぶりの松平隠岐守の誕生です。
文化12年
(1815)
【東照宮家康公200回神忌】
 常信寺には家康公の御神体を勧請、家康公200回忌の法会を執り行ないました。
 代拝として御用掛長沼吉兵衛伯政を派遣しました。

【昇進】
 四品に昇進。
文化13年
(1816)
【11代将軍家斉公、右大臣昇進】
 家斉公右大臣昇進につき名代として日光東照宮、家康公の御霊屋へ参拝。

【玄猪として初登城】
 御箱提灯に初めて葵御紋と星梅鉢紋が交えて付けられ、登城しました。

【大林寺焼失】
 本堂、庫裏、書院、御位牌所が焼失しました。位牌は持ち出され、真解院殿御霊屋へ仮に安置されました。眞解院殿とは2代定頼公の嫡男で松平定盛公のことです。
文化14年
(1817)
【初めて松山入り】
 初めてのお国入りに際し、今治藩松平家よりお祝いの品が送られました。

【眞常院殿定行公150回忌】
 常信寺で定行公の150回忌の法要が執り行われました。
文政元年
(1818)
【父定国公の実家、徳川右衛門督斉匡卿より葵紋を譲られる】
 葵御紋を衣服に着けること許されました。これは父・定国公以来の栄誉です。
  (父定国公につづき使用が許された葵御紋)
文政2年
(1819)
【結婚】
 徳川右衛門督斉匡卿の姫君が松山藩邸へ引越、婚礼式を挙げました。

【松山へ帰国】
 帰国の途中、宇治万福寺へ立ち寄りました。

【大林寺再建】
 先年、焼失していた大林寺の再建が完成、、入仏供養が行われました。
文政3年
(1820)
【天守再建】
 父定国公の代に焼失した天守の再興に取り掛かりました。
文政4年
(1821)
【内室徳川氏が初登城】
 内室は江戸城大奥で11代将軍家斉公、世嗣家慶公、御台所島津氏、御簾中楽宮喬子の拝謁を賜いました。御品を拝領しました。

【藩校興徳館を移築】
 生徒数増加のため興徳館を松山城東門付近に移築。修来館と改めました。
 また定通公自身も出府の際に、幕府の儒官古賀精里や林大学頭述斎の門に入りました。
文政6年
(1823)
【藩祖定勝公200回忌法要】
 当時、松平下総守の領地であった桑名照源寺で定勝公の200回忌法要が行われました。
 定通公は家臣奥平藤左衛門昌蔭、中村宮内を代拝として派遣しました。
 江戸済海寺、松山大林寺でも同じく法要が執り行われました。

【松山大旱魃】
 春より夏にかけて少雨。領内で雨乞い祈祷。定通公は道後湯月八幡宮、道後湯神社での雨乞い祈祷に臨席。
 116,258石の大損毛を幕府へ届出しました。

【藩祖定勝公の神号授与を吉田家を依頼】
 定勝公の御霊へ神号授与を吉田家へ内々に依頼し、仮勧請。神号は息長福玉命、社号は東雲神社。祭日は3月18日としました。味酒社神主へ東雲神社神主職兼帯を任命。味酒社神主田内肥後守が遷宮式を行い、松山城内揚木戸口へ仮宮を造営しました。
文政8年
(1825)
【溜間詰任命】
 父定国公に引き続き溜間詰に任命されました。
 同席は次のとおりです。
  従四位上中将 井伊掃部頭直亮公(彦根藩)
  従四位下少将 松平讃岐守頼恕公(高松藩)
  従四位下侍従 松平越中守定永公(桑名藩・定通公従弟)、
            酒井雅楽頭忠実公(姫路藩)、
            松平肥後守容敬公(会津藩)
  四品       松平宮内大輔頼胤公(頼恕公嫡男)です。

【昇進】
 侍従に昇進。
 家斉公、家慶公の紅葉山、東叡山、増上寺へ参詣の際、向後先立を勤めるようるよう伝えられました。
 その後、初めて紅葉山へ将軍家の参詣に際し先立を勤め、紅葉山と将軍御霊屋を参拝しました。
文政11年
(1828)
【文武稽古所を明教館と命名】
 講堂の完成式、開講式に出席。明教館の偏額を自筆にて認め講堂へ掛けました。
      
     明教館 講堂       定通公御自筆の偏額

【東雲神社境内に豊阪神社を造営】
 藩祖定勝公の嫡男定吉公の御霊を東雲神社境内の祠へ勧請。神号は稚国命、社号は豊阪神社、東雲神社神主田内肥後守により遷宮式が行われました。
文政12年
(1829)
【叔父松平越中守定信公、卒去】
 規定により半減忌10日服45日。
天保元年
(1830)
【生母の改称】
 林氏の女・お千左を祐光院殿と称するよう言い渡しました。
天保2年
(1831)
【5代定英公100回忌法要】
 大林寺で定英公の100回忌法要が行われました。同時に筒井村の義農作兵衛の100回忌法要も行われました。

【久松肥前守定義公300回忌法要】
 定義公は藩祖定勝公の祖父です。尾張国洞雲院で300回忌の法要が執り行われ、京都留守居杉山平之丞が代参、香典白銀5枚を献じました。
天保3年
(1832)
【松平阿波守斉昌公、道後温泉来湯】
 斉昌公は阿波藩主で帰国の際、道後温泉で湯治しました。明王院を本陣としました。

【島津勝之進公との養子取組、内約】
 定通公は松平勝之進公に定穀と名を進めました。同時に酒井左衛門尉忠器の女を養女とし、定穀公の縁女としました。
 定穀公の縁女となった姫は、嫁すことなく翌年、卒去しています。

【第三女、誕生】
 側室北川氏との間に第三女が誕生しました。令姫と名づけられました。内室徳川氏が養母となりました。

【家格の昇格】
 幕府より家格の昇格が言い渡されました。
 藩祖定勝公が家康公の異父弟にあたるので、今後父が溜間詰の場合、その嫡男は溜間詰格とされました。
天保5年
(1834)
【幕府より葵紋、六ツ葵紋の全面的使用許可】
 葵紋の使用は先年以来の田安家の願いによるものでした。これ以降、星梅鉢紋の使用は停止しました。
  (幕府より使用を許された葵御紋)   (幕府より使用を許された六ツ葵紋)
天保6年
(1835)

(定通公肖像)
【脚気を発症そして卒去】
 世嗣・定穀公より脚気により回復の見込みなしと幕府に届出がありました。まもなく卒去。
 享年39歳(実は32歳)。
 法号は爽粛院殿従四位下侍従松平隠岐守源朝臣高誉博容克倹大居士。
 済海寺に埋葬、遺髪が大林寺へ納められました。
 定通公は藩政改革を断行しましたので、後世松山藩中興の祖とされ、この治世を爽粛院様時代と呼ばれています。
 定通公の卒去を受け、内室徳川氏が剃髪、貞寿院殿と称しました。貞寿院殿徳川氏はその後も徳川将軍家や田安徳川家との架け橋を務め、万延元(1860)年に卒去しました。法号は貞寿院殿鑑誉探徳妙皓大姉。済海寺へ埋葬されました。
大正5年
(1916)
【贈位】
 大正天皇の即位大礼により、朝廷より定通公へ正四位の位が贈られました。
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参考文献
『松山叢談』

更新日
平成29年11月21日