●● 松平能登守定政(16101672  ●●
従五位下  能登守

内室 永井信濃守尚政の女(仙寿院)
慶長15年
(1609)
【誕生】
 伏見城内で、藩祖定勝公の第6男として誕生。生母は正室奥平氏(一説には側室玉清院村治氏)。定勝公にとって、最後の男子でした。
元和6年
(1620)
【初登城】
 いとこの2代将軍徳川秀忠公、世嗣家光公の拝謁を賜う。
寛永10年
(1633)
【叙爵】
 定政公が家康公の甥であるため、前年薨去した秀忠公の遺命により、召し出され、従五位下に叙位、能登守に任じられました。
寛永11年
(1634)
【5,000石を賜う】
 三河国碧海郡(伊勢国三重郡とも)内5,000石を賜い、御扈従組一番組頭となり、家光公の上洛に供奉しました。
寛永12年
(1635)
【加増】
 2,000石を加増され、伊勢国長島城7,000石を賜りました。長島城は実兄定房公の領地でしたが、定房公が今治へ移ったので、そのあとを賜りました。
 しかし、この年の秋に洪水に見舞われ、長島城は大破、修復金として幕府より白銀20,000枚を賜り、再建しました。
寛永13年
(1636)
【御側御用人となる】
 3代将軍家光公の御側御用人に任じられ、家光公に仕えました。
慶安2年
(1649)
【加増】
 13,000石を加増され、三河国刈谷城を賜り、晴れて大名となりました。
慶安4年
(1651)
【家光公、薨去】
 家光公が薨去すると、幕府より諸国寺社諷経方取扱に任じられました。
【突然、出家】
 定政公は突然、東叡山で出家。「能登守入道不伯」と号し、領地屋敷武器など一切を返上する旨する書付1通を大目付、目付へ渡しました。
 さらに諷諫書1通を、大老井伊掃部頭へ使者をもって提出しました。
 幕府はこれを狂気の沙汰として、領地を没収した上で蟄居謹慎、実兄定行公の在所へ移すことを命じました。

【東野別殿へ寓居】
 4代将軍家綱公の命により、給米2,000俵を賜いました。
 松山へ移った定政公は、いったん松山興居島へ入った後、松山城東御門外の屋敷へ入りました。そして、隠居して東野別殿へ移りました。
 定政公はのちに吟松庵という庵に住みました。
       
       東野別殿跡(東野御茶屋跡)
寛文5年
(1665)
【内室、卒去】
 内室の永井氏が卒去しました。仙寿院殿月秀日松大姉と贈られ、浅草西福寺に埋葬されました。
寛文11年
(1671)
【卒去】
 東野別殿で卒去。享年63歳。法号は広禅院殿格岸不伯黒円大居士。兄定行公が眠る常信寺へ埋葬されました。
      
      広禅院殿定政公の御霊屋(祝谷山常信寺)

参考文献:『松山叢談』