●● 伊予松山藩九代(久松松平家10代)  松平隠岐守定国(17571804 ●●
帝鑑間 溜間詰  従四位下  中務大輔  隠岐守  侍従 左近衛権少将
内室 松平隠岐守定静養女(実松平隠岐守定喬長女・鉄姫・柔軟院殿)
宝暦7年
(1757)
【江戸城田安御殿で誕生】
 父は従三位田安中納言宗武卿。実母は香詮院殿山村氏の女。
 辰丸と名づけられました。実弟に松平越中守定信(老中兼将軍補佐職)がいます。
 翌年、父宗武公より豊丸の名前を授けられ、松平豊丸と称しました。
           
 
宝暦10年には大御所家重公より備前長光の刀を賜い、以後たびたび大奥へ参り、懇命を受けました。
宝暦13年
(1763)
【近衛氏が養母となる】
 父宗武公の御簾中近衛氏通姫が養母となりました。
明和5年
(1768)
【松平隠岐守家へ入嗣】
 台命により松平隠岐守定静公の婿養子となりました。内室は定静の養女(実定喬女)銕姫です(婚礼は安永5年)。
     
 養父定静より実名定国と名づけられました。翌年、松山藩江戸藩邸に御殿が落成したので、田安御殿より藩邸へ移りました。
実弟に松平越中守定信公がいます。
明和8年
(1771)
【実父、薨去】
 田安御殿で実父の徳川宗武公が薨去しました。享年57歳。法号は悠然院殿、上野寛永寺凌雲院に葬られました。

【初登城】
 10代将軍家治公(従兄)と世嗣家基公に初めて拝謁を賜い、帝鑑間譜代席四品末を仰せつけられました。
 四品末というのは五位の上位です。定国公は破格の待遇を受けていたことが分かります。
安永元年
(1772)
【四品に叙位】
 従五位下に叙位されることなく四品に叙位。中務大輔に任じられ、松平中務大輔と称しました。 
 初官四品は国主大名の扱いで松平隠岐守の家格を超えています。
安永8年
(1779)
【父定静公、卒去、9代藩主就任】
 定国公は父定静が大病にかかったと幕府へ届出した後、父定静公が卒去。定国公は9代藩主となりました。
 隠岐守に転任、溜間詰に任命され、侍従に昇進しました。
安永9年
(1780)
【内室、卒去】
 内室鉄姫、卒去。享年20歳。子女はありませんでした。法号は柔軟院殿觸誉蒙光妙身大姉。済海寺に埋葬。
天明4年
(1784)
【天守、焼失】
 元旦真夜中に、松山城天守に落雷。天守をはじめとした本壇を焼失しました。
 定国は直ちに急使を江戸へ派遣し、遅参を請いました。当時、定国は三之丸藩邸で療養をしていましたので、法龍寺へ避難しました。
 さらに、松山城の再建を幕府に願い上げ、許可されました。これは定国の出自、そして家門という家格によるもので、このころ天守の再建は許可されないことが多かったようです。しかし、天守復興がかなうのは、70年後の養曾孫勝善公まで待たなければなりませんでした。
天明5年
(1785)
【葵紋、譲渡】
 田安家より葵紋を譲られ、葵紋入りの紋服を着用することを一代に限り許されました。松平家では紋服に星梅鉢紋をつけていました。
                     
 (田安家より譲られた葵御紋)      (これまで紋服に用いていた星梅鉢紋)
天明6年
(1786)
【先祖久松佐渡守俊勝公200回忌法要】
 俊勝公は藩祖定勝公の父君です。三河国清田村和合院安楽寺で法要が行われました。

【10代将軍家治公、薨御】
 従兄の家治公が江戸城で薨御しました。勅贈は浚明院殿。東叡山へ埋葬されました。
 11代将軍家斉公の使者より、家治公の遺品を拝領しました。これは定国公が家治公の従弟にあたるためです。
天明7年
(1787)
【次男、誕生】
 江戸で次男が誕生、元之丞と名づけられ、兄は死産でしたので、嫡男となりました。

【実妹種姫が紀伊中将治宝卿と婚礼】
 種姫は宗武公の女で、母は近衛関白家久の女通姫です。10代将軍家治公の養女として入輿しました。
 治宝卿は徳川治貞公の養嗣子でのちの紀伊大納言治宝卿です。
天明8年
(1788)
【次男元之丞公、卒去】
 嫡男となっていた元之丞が卒去しました。享年2歳。法号は清明院殿徴浄映照大童子。済海寺へ埋葬されました。

【松山藩京都屋敷、大火】
 松山藩京都屋敷が類焼しました。
寛政3年
(1791)
【高額藩札を発行】
 この頃、銀100匁の高額藩札を発行、同年には銀50匁札が発行され、小額藩札も含め、広く領内に流通しました。
 また、預かり地である川之江(幕領)や隣接地の大洲領でも流通しました。
寛政4年
(1792)
【常信寺、焼失】
 本堂、御霊牌所、庫裏、書院などを焼失。霊牌は僧侶が持ち出して無事。寛政7年より再建を開始し、同9年に落成しました。
寛政5年
(1793)
【3男辰丸公、誕生】
 江戸で3男が誕生、辰丸と名づけられ、のちに立丸と改称しました。
寛政6年
(1794)
【将軍家名代に任命】
 翌春、女一宮欣子内親王が光格天皇に入内するので、その慶賀のため将軍家名代を任じられました。
 翌年、光格天皇に拝謁。つづいて中宮、女院の拝謁を賜りました。
 光格天皇からは溜間詰少将に推挙され、将軍家の承認により少将に昇進しました。
 実に藩祖定勝以来170ぶりの少将叙任です。


【嫡子届】
 立丸定則公を嫡子とする旨が届出されました。定則公は家中で若殿様とよばれるようになりました。
寛政8年
(1796)
【嫡子定則公、婚姻】
 定則公と松平越中守定信公の3女福姫の縁組が許可されましたが、福姫は寛政12年、定則公に嫁ぐことなく天然痘で卒去しました。
享和2年
(1802)
【藩祖定勝公の法号、改称】
 定勝公の法号は崇源院殿ですが、2代将軍秀忠公の御台所・浅井氏の法号・崇源院殿と同じなので、それを憚り改称しました。

【星梅鉢紋、使用制限令】
 松平隠岐守の定紋である星梅鉢紋は当主と嫡子にのみ使用。家中では他の使用は禁止されました。
  
 (家中で松平家当主と嫡子以外の使用を制限された星梅鉢紋)
文化元年
(1804)

(定国公肖像)
【大病】
 脚気により体調すぐれずとの旨、嫡男立丸より幕府に届け出、直後、江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年48歳。
 法号は瑞龍院殿故左近衛権少将前隠岐守従四位下源朝臣定誉戒雲慧空大居士。
 慣例に従い済海寺に葬られ、遺髪が松山大林寺に送られました。号は皐禽(こうきん)。


【第5男、誕生】
 定国公の卒後、第5男が誕生しました。生母は定国公の側室・林氏(千佐のち祐光院殿)。叔父の定信公より保丸と名づけられました。
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参考文献
『松山叢談』『徳川諸家系譜』

更新日
平成29年11月21日