●● 伊予松山藩八代(久松松平家9代)  松平隠岐守定静(17291779 ●●
帝鑑間 従五位下 備中守  隠岐守  従四位下  侍従 溜間詰
内室 織田下野守信方の女(旭仙院殿)
享保14年
(1729)
【誕生】
 江戸二本榎屋敷で誕生。父は松山新田藩の初代藩主で松平定章公。母は側室松本氏(放光院)。
 出生後、長島氏を称し、源之助と名づけられました。
享保15年
(1730)
【新田藩主松平家世嗣となる】
 父定章公の願いにより嫡子となり、松山藩5代定英公より松平氏の称号を賜い、松平源之助と称しました。
 3年後、定静と名を改めました。
寛保3年
(1743)
【初登城】
 8代将軍吉宗公、世嗣家重公に初めて拝謁を賜う。
延享4年
(1747)
【父定章公、二条城で危篤】
 江戸にいた定静公にもとへ父定章公が危篤に陥ったと知らせが入りました。定静公はただちに本家の定喬公へ上洛の願いを出しました。定喬公はすぐさま幕府へ届出、その日のうちに許可。定静公は上洛しましたが、その道中で父の卒去を知らされました。
          
     定章公終焉の地となった二条城(写真は二之丸御殿)

【新田藩2代藩主、就任】
 定喬公の願いにより定静公へ新田藩10,000石が相続されました。

【叙爵】
 従五位下に叙され、備中守と称しました。
寛延2年
(1749)
【日光祭礼奉行、任命】
 これ以降、寛延3年と宝暦4年、宝暦8年には大坂加番、宝暦10年、宝暦11年、宝暦13年には日光祭礼奉行に任じられています。
宝暦元年
(1751)
【婚礼】
 織田氏下野守信方の女と婚礼。
宝暦3年
(1753)
【内室、卒去】
 内室織田氏が卒去しました。法号は旭仙院殿賢誉牧月詠亮大姉。済海寺へ埋葬されました。子女はありません。
明和2年
(1765)
【7代定功公の急養子となる】
 本家定功公が危篤となり、分家松平長門守定蔵公より幕府へ定静公が養子となる旨が届出されました。

【8代藩主、就任】
 定功公の卒去後、幕府より定蔵公と同伴の上、登城せよと奉書が届きました。
 定静公は定蔵公とともに登城。定功公の願いのとおり松山藩15万石の相続が、老中松平右近将監武元より申し渡されました。同時に新田藩10,000石は幕府へ収められました。本来、この新田藩は特定の領地を分知したものではなく、蔵米を支給していましたが、幕府はそれを認めず、領地の上納を命じました。この後、隠岐守に転任。

【嫡子届】
 次男熊太郎を嫡男とする旨を老中阿部伊予守正右に届出し、認められました。長男源之助定保は夭折しています。
明和3年
(1766)
【嫡子、卒去】
 昨年、嫡子となった熊太郎公がわすが5歳で夭折しました。法号は暁証院覚了智幻大童子。済海寺へ埋葬されました。
【昇進】
 四品に昇進。
明和4年
(1767)
【新銀札(藩札)を発行】
 銀10匁札と銀5匁札の藩札を発行しました。
 明和6年からは家中への扶持米支給として、銀札が支給されました。

【長女、婚約】
 長女の常姫が分家の松平河内守定休公(今治藩主)と縁組をしました。明和8年、入輿しています。

【三島宮(大山祇神社)へ歌、奉納】
 「国さかえ 民やすかれと祈るぞよ あふぐも高き神のめぐみに」 その中で従四位下源定静と記しています。
明和5年
(1768)
【常信寺山内東照宮仮殿へ家康公の御神霊を遷宮】
 常信寺で家康公150回忌法要を執行しました。本来は家康公150回忌は明和4年ですが、東照宮造営につき明和5年に執り行われました。
 常信寺の塔頭広厳院が東照宮別当となりました。

【桑名照源寺へ米100俵、寄進】
 照源寺は藩祖定勝公の菩提寺で、これ以降毎年100俵が寄進されるようになりました。

【顕徳院殿、光輝院殿の霊廟完成】
 大林寺、6代顕徳院殿定喬公、7代光輝院殿定功公の御霊屋が完成しました。

【定国公、養子入り】
 6代定喬公の女鉄姫を養女とし、田安中納言宗武公の第6男・松平豊丸を婿養子とする旨、老中阿部伊予守正右より申し渡されました。
 定静公は豊丸公へ定国と実名を進め、藩邸に定国公御殿の造営に取り掛かりました。御殿の完成まで定国公は田安御殿に逗留し、翌年愛宕下の藩邸へ移りました。
明和7年
(1770)
【御償新田の朱印状を受ける】
 先年、上知した新田藩分の10,000石の穴埋めのため、領内から新田10,000を表高に組み込むことが許されました。
 定静公は在国中でしたので、名代として松平近江守定邦公(分家)が登城しました。

【侍従に昇進】
 翌年、後桃園天皇即位のため、御使に任じられ、侍従に昇進しました。
明和8年
(1771)
【上洛】
 即位式に列席。後桃園天皇の拝謁、天盃を賜いました。仙洞御所、女院御所、准后御所へも参院しました。

【溜之間に任命】
 6代定喬公以来の溜間詰に任命されました。

【定政公、100回忌】
 常信寺の定政公墓所に旗本某氏より覆屋が寄進されました。
       

   この時寄進された定政公の覆屋(常信寺境内)
安永元年
(1772)
【道後温泉、来浴】
 吉田藩主伊達和泉守村賢公が道後温泉へ来湯。
安永2年
(1773)
【藩祖定勝公150回忌】
 桑名照源寺で定勝公の百五十回忌の法要が行われ、代参として奏者番岩瀬与兵衛を派遣しました。
安永4年
(1775)
【10代将軍家治公、日光東照宮へ参拝】
 定静公は10代将軍家治公を供奉しました。
安永6年
(1777)
【伊予郡筒井村の義農作兵衛の墓碑、建立】
 享保の大飢饉で麦種を枕にして餓死した作兵衛の墓碑を建立しました。
           
 8代藩主定静公の命により造営された義農作兵衛の墓
安永8年
(1779)

※肖像未見
【危篤、卒去】。
 江戸藩邸で急病に陥り、危篤。嫡子定国公より幕府へ届出され、愛宕下の藩邸で卒去。享年51歳。
 幕府より香典白銀30枚が供えられました。
 法号は岱嶽院殿従四位拾遺補闕故隠州徇誉観月光円大居士。済海寺に埋葬、大林寺へ遺髪が送られました。
 江戸からの付き添いの僧侶は大林寺先住妙誉の弟子で霊巌寺の寮主起端。
 大林寺での葬儀の導師は正蓮社行誉敬阿学信和尚でした。学信和尚はまれにみる有徳の僧侶でしたので、御引導はどのようなもでのあるかと、参列していた諸寺院、諸士は耳を傾けていました。
 和尚は「おもひきや ながかれとこそ祈りしが この黒髪のかかるべしとは」という一首を手向け奉り、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱え、定静公を深く悼み、そのさまは参列者の涙を誘いました。
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参考文献:『松山叢談』 平成28年5月8日 更新