●● 久松松平家初代  松平隠岐守定勝(15601624  ●●
従五位下  隠岐守  従四位下  左近衛権少将
内室 奥平美作守貞能の養女(たつ、二之丸殿・松源院殿)
永禄3年
(1560)
【尾張国阿久居城で誕生】
 父は久松佐渡守俊勝。母は内室水野氏の女伝通院殿於大の方(徳川家康生母)。
 生後まもなく、同母兄松平元康(のちの徳川家康)より、家門に准じて、松平氏の称号ならびに葵紋を賜いました。

   (松平隠岐守家の定紋となった尾州三ツ葵紋)
天正10年
(1582)
【羽柴家へ養子入り】
 羽柴秀吉は徳川家康に対し、定勝を羽柴家へ養子入りさせようとしました。
 しかし、母於大の方の切なる願いにより、松平家にとどめられました。
 それは、於大の方の子たちで、長兄家康が常に本国を留守にし、また次兄勝俊なども、そば近くに居られないため、定勝を松平家から他家へ出すことを嫌ったためであったといいます。
天正12年
(1584)
【父、卒去】
 父久松佐渡守俊勝が尾張国岡崎城で卒去しました。享年54歳。三河国安楽寺に埋葬。法号は陽光院殿。

【兄徳川家康の尾張国蟹江城高下に際し、二番乗りを挙げる】

【次男、誕生】
 この年、次男定行(のちの初代松山藩主)が誕生。
天正18年
(1590)
【拝領】
 下総国小南3,000石を賜い、江戸城田安御殿を拝領。
慶長4年
(1599)
【加増】
 4,000石を加増され、伊勢国長島城主となりました。のちに20,000石を加増され、計27,000石の大名となりました。
慶長5年
(1600)
【関ヶ原の戦い】
 兄家康とともに上杉景勝の会津攻めに従軍。関ヶ原の戦いでは遠江国掛川城を守備して、戦功をあげました。
慶長6年
(1601)
【加増】
 3,000石を加増され、山内対馬守一豊公に代わり、遠江国掛川城30,000石の城主となりました。

【叙爵】
 従五位下隠岐守に叙任。「隠岐守」の官名は、歴代にわたり松山藩松平家の拝領官名となっています。
慶長7年
(1602)
【兄家康公、第10男誕生】
 伏見城で徳川家康の第10男(のちの紀伊大納言頼宣卿)が誕生。家康公は、この男子に定勝の幼名長福丸の名を譲るよう命じています。これにより、長福丸の名は紀伊家嫡男の名となっています。


【母、卒去】
 母於大の方が伏見城で逝去。享年77歳。法号は伝通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼。
 伝通院の棺が伏見城を出立し江戸へ下る際、その護衛にあたりました。

 嘉永3年、朝廷は「従一位」を追贈しました。
慶長8年
(1603)
【兄家康、征夷大将軍宣下】
 定勝は将軍の弟となりました。
慶長10年
(1605)
阿姫、婚礼
 定勝公の次女阿姫(くまひめ)が兄家康公の養女となり、山内対馬守忠義公と婚約。
 化粧料として、豊後国山田郷において1,000石を阿姫に賜いました。
 これにより松平隠岐守家と山内対馬守家は縁家きとなり、さらに山内家は将軍家の縁家ともなりました。
 のちに山内忠義には、松平氏を賜い「松平対馬守(土佐守)」を名乗ることを許されています。
慶長12年
(1607)
【伏見城代、就任】
 将軍家康公の弟として、伏見城代に就任。50,000石を領しました。
慶長19年
(1614)
【大坂冬の陣】
 世嗣定行公とともに従軍。伏見城、淀城を警護。その後、大坂住吉表に布陣。
元和元年
(1615)
【大坂夏の陣】
 命により京二条城を警衛。
【昇進】
 四品に昇任。この時、同時に藤堂和泉守高虎も四品に昇進しています。
元和2年
(1616)
【兄家康公、薨去】
 家康公が駿府城で薨去しました。享年75歳。法号は安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士。
 のちに朝廷より東照大権現と贈られました。
元和3年
(1617)
【加増】
 60,000石を加増され、桑名城へ移封、110,000石の太守となりました。
元和9年
(1623)
【昇進】
 左近衛権少将に昇進。
 2代将軍徳川秀忠公や尾張家の徳川義直公は、家康公の薨去後、定勝を叔父上として篤く敬いました。
 これにより桑名少将殿と奉称されています。
 この頃、家門で少将以上の官位を帯びていたのは御三家、越前家
のみでした。    
寛永元年
(1624)
【卒去】
 桑名城で卒去。享年65歳。 法号は宗源院殿前四品羽林次将雲巌円徹大居士。
 卒去を前に将軍秀忠公の使いが桑名城に到着。35万石のお墨付きを賜いました。
 しかし、定勝公は「今まで徳川家からはたくさんのものを頂戴した。これまで戦場で戦ってきた…死を前に畳一枚を頂戴するだけで他には何もいらない」と固辞しました。
 墓所は伊勢国桑名照源寺、霊牌所は松山大林寺、今治松源院です(廃寺)。
 文政6年、息長福玉命(おきなかさきたまのみこと)のちに東雲大明神(しののめだいみょうじん)と送られています。
 社号は東雲神社

 兄家康公が東照宮として尊崇され、東照宮信仰の高まりとともに、「徳川家康公二十神将」のひとりとされました。
正保3年
(1646)
【内室、卒去】
 定勝公の夫人・奥平氏(二之丸様)が桑名城で卒去。享年77歳。法号は松源院殿霊誉西棲法珠大姉。
 伊勢国桑名照源寺において、知恩院三十三世本蓮社圓誉廓源大和尚によって葬儀が執り行われ、同寺に埋葬されました。
 また御位牌が松山大林寺、今治松源院(廃寺)へ奉祀されています。
目次 次代

参考文献:『松山叢談』『予松御代鑑』『徳川実記』など 令和元年5月30日 更新