●● 伊予松山藩五代(久松松平家6代)  松平隠岐守定英(16961733 ●●
従五位下 飛騨守 隠岐守 従四位下 
帝鑑間
元内室 松平(島津)薩摩守綱貴の女(信解院殿)

元禄9年
(1696)
【誕生】
 定直公の3男として松山で誕生。母は側室渡部氏(光樹院殿、悦)。松平百助と名づけられました。
 定直公は元禄12年より百助公が7歳になる元禄15年まで皆川久之丞に奥掛りに任じ、養育させました。
元禄11年
(1698)
【兄鍋之助公、松山で卒去】
 兄の卒去により百助公が嫡男となりました。この年、御髪置をしています。
元禄15年
(1702)
【江戸藩邸へ引越】。
 引越を前に老中阿部豊後守へ引越の件について問い合わせたところ、江戸への引越勝手次第と返答がありました。
【改称】
 松平刑部定英と名を改めました。
宝永3年
(1706)
【初登城】
 5代将軍綱吉公、世嗣家宣公へ初めて拝謁を賜いました。

【婚約】
 以前より約束していた松平薩摩守綱貴の女(免姫のち栄姫と改称)と婚約しました。
宝永7年
(1710)
【叙爵】
 従五位下に叙され飛騨守と称しました。
正徳2年
(1712年)
【御代替につき御判物拝領】。
 父定直公、松山在国中につき、名代登城を奉書で仰せ付けられ、江戸城へ登城。
正徳5年
(1715)
【婚礼】
 栄姫が薩摩藩邸より引越、婚礼。その後、内室島津氏が大病をわずらい、薩摩藩邸へ戻り、そのまま逗留しました。
享保元年
(1716)
【嫡男、誕生】
 嫡男が薩摩藩邸で誕生。生母は内室島津氏。誕生後、松山藩邸(三田中屋敷)へ引越。祖父定直公より松平百助と命名されました。
 内室島津氏は回復し松山藩邸へ戻るも、直後に離婚。薩摩国鹿児島へ戻りました。
享保3年
(1718)
【帰国】
 松山藩松平家世嗣として江戸より帰郷。松山城二ノ丸に入りました。二ノ丸は定直公により藩庁が三ノ丸へ移され、世嗣もしくは隠居が住まう御殿となっていました。
享保5年
(1720)
【父定直公、卒去。藩主就任】
 父の卒去を受け、5代藩主となりました。その3日後、隠岐守に転任。
 藩主就任に際し、父定直の遺言にしたがって内分1万石を弟松平主計頭定章に分知。これにより松山藩内に松山新田藩1万石が誕生しました。
享保6年
(1721)
【幕府領を預かる】
 幕府領の伊予国川之江2,000石余を預かることになりました。以後、廃藩置県まで管理を任されました。
享保7年
(1722)
【昇進】
 四品に昇進。
享保8年
(1723)
【藩祖定勝公、100回忌法要】
 定勝公百回忌の法要が桑名照源寺で行われ、代拝として家老竹内家、遠山家を派遣しました。
享保10年
(1725)
【松山城東門屋敷、取り壊し】
 光雲院殿(万姫・2代定頼3女、宝永元年卒去)が住まいとした東門屋敷が取り払われ、大坂屋敷へ転用されました(大坂屋敷は享保9年大火により延焼、焼失していました)。
     
  松山城堀之内 東門跡(東門屋敷付近)
享保11年
(1726)
【嫡男定喬公、婚約】
 老中水野和泉守へ松平肥後守正容公の女との縁組を申請、許可されました。
 この姫は定喬公へ入輿なく享保15年卒去。法号は雪窓院殿。谷中瑞輪寺へ埋葬されました。
享保15年
(1730)
【享保銀札の発行】
 幕府の札遣解禁令により、宝永以来25年ぶりに、藩札を発行しました。
 発行額面は最小額面である銀壱分でした。
      
   享保の銀札(銀壱分)
 しかし、藩札の濫発により、銀札相場が暴落しました。それでも延享元年の流通停止期限まで通用しました。
享保17年
(1732)
【長雨】
 この年は閏5月より長雨、稲に害虫が発生。
 道後湯月八幡宮で虫送り祈祷をするが功なし。水田ではウンカが大発生し、大飢饉に陥りました。
 とうとう領内の米の収穫高は皆無となってしまいました。松山藩領民は飢えに苦しみ死者は3,500人を数えました。
 9月、伊予郡筒井村で義農作兵衛が餓死。作兵衛は麦種を食べては来年の作付けができぬとして食べることなく、それを枕にして餓死。
           
  義農作兵衛の墓(写真は8代藩主定静公の命によって作られた墓)
            
             義農作兵衛の銅像

 これらの大飢饉、多くの餓死者が出たことにより、定英公は幕府より差控を命ぜられました。翌年、差控を免除されました。
享保18年
(1733)
※肖像未見
【卒去】
 三田中屋敷の寝所にて気絶、翌日の夕刻卒去。享年38歳。法号は天楽院殿前隠州従四位下奏誉尊勝咸然大居士。遺骸は済海寺で火葬、埋葬されました。
 遺髪は松山大林寺へ送られ埋葬され、法要が営まれています。これ以後、藩主の墓は三田済海寺に設けられるようになりました。
 定英公の急病、そして急逝は同席の諸侯、領内の町人、農民の悲歎が大きかったといいます。定英公は両親への孝行が厚く、同じように領民を愛しました。また幼年を過ごした藩士や町人には、よく藩邸や城に招き、ご懇意にしたと伝えられています。

【次男、誕生】
 定英公の卒後、次男が誕生しました。定喬公により高島弁之丞と名づけられ、五本骨扇に日の丸と御紋とされました。佐竹庄兵衛に養われました。のち、家老奥平家の養子となりましたが、実兄定喬公の養子となり、7代藩主定功公となりました。
明和8年
(1771)
【元内室島津氏、鹿児島で卒去】
 法号は信解院殿方広浄玄大禅尼。薩摩寿国寺へ埋葬されました。
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参考文献:『松山叢談』 平成28年5月8日更新