●● 伊予松山新田藩初代  松平主計頭定章(17001747  ●●
従五位下  備前守 主計頭

内室 なし
元禄13年
(1700)
【江戸松山藩邸で誕生】
 父は松山藩4代藩主松平隠岐守定直、母は側室村上氏(のちの円寿院)。第4男して誕生。
 定直公、厄年にあたるため、姓を改め長島辰之丞と名づけられ、扇を家紋とし、上代吉左衛門が育てました。
元禄15年
(1702)
【復姓】
 髪置を果たし松平姓に復し、松平源之助と称しました。
宝永3年
(1706)
【定章と称する】
 父定直公より定章の実名を進められました。
正徳3年
(1713)
【初登城】
 江戸城に初めて登城し、6代将軍家宣公の拝謁を賜いました。
享保5年
(1720)
【大名となる】
 父定直公が亡くなると、遺言により本家より新田10,000石が分知され、定章公は松山新田藩の初代藩主となりました。
 (実際は特定された領知が分知されたものではなく、本家より蔵米10,000石が支給されました。)
享保6年
(1721)
【叙爵】
 従五位下に叙され、備前守に任ぜられました。
享保8年
(1722)
【幕府役職を歴任】
 日光山祭礼奉行に任ぜられました。
 これ以降、一橋御門番、駿府城加番、大坂城御加番、竹橋御門番、大番頭を歴任しました。
享保14年
(1729)
【嫡男、誕生】
 嫡男が江戸二本榎屋敷で誕生しました。 母は側室放光院松本氏。長島氏を称し、源之助と名づけられました。
享保15年
(1730)
【嫡男源之助公、復姓】
 嫡男源之助公は長島姓を称していましたが、本家定英公より松平姓を進められ、松平源之助と称しました。
延享3年
(1746)
【改称】
 備前守を改め主計頭と称しました。
延享4年
(1747)
【二条城御番に任ぜられる】
 二条城御番に任じられ、京都へ赴きました。
【卒去】
 京都で大病を患い、二条城にて卒去。嫡男定静公は江戸より京都へと出立しましたが、伊豆国三島で父定章公卒去の報を聞きました。享年48歳。
 黒谷で火葬され、江戸済海寺に埋葬されました。法号は龍泉院殿前従五位天誉晴雲光厳大居士。
 京都黒谷光明寺塔頭光守院では、岑徳院殿乾誉孤耀超岸大居士と贈られています。
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