●● 伊予松山藩十四代(久松松平家15代)  松平伊予守定昭 ●●
二代 松山知藩事 久松定昭 (1845−1872

溜間詰 従四位下 式部大輔 伊予守 侍従 左近衛権少将 従五位 老中
内室 養父松平隠岐守勝成養女邦姫(実養祖父松平隠岐守勝善女・貞恭院殿)

弘化2年
(1845)
【伊勢津で誕生】
 父藤堂和泉守高猷(津藩主)の四男として誕生。生母は橋本氏の女(のちに妙真院)。錬五郎と名づけられました。
安政6年
(1859)
【松平隠岐守家へ養子入り】
 勝成公の養女邦姫と婚約しました。養父勝成公より定昭と名前を進められ、翌年三田中屋敷へ移りました。
万延元年
(1860)
【初拝謁】
 登城し、14代将軍家茂公の拝謁を賜いました。
 従四位下に叙され、式部大輔に任じられ、溜間詰格を仰せ付けられました。
文久元年
(1861)
【結婚】
 邦姫と結婚し、邦姫は若御前様と称されました。

【昇進】
 溜間詰に昇格し、侍従に昇進しました。
文久2年
(1862)
【文久の改革】
 幕府の文久の改革により、参勤交代の改正が成されました。松平隠岐守は溜之間大名であるため、三年に一年在府となりました。そして内室の帰国も許され、御前様とよばれた内室の酒井氏は松山へ帰国、松山城三之丸へ入りました。続いて勝善公の内室であった和光院殿酒井氏、世嗣定昭公の室で若御前様とよばれている邦姫も松山へ帰国、二之丸へ入りました。
文久3年
(1863)
【養母酒井氏、不例、卒去】
 松山に帰国していた養母酒井氏が体調を崩しました。定昭公は直ちに帰国の許可を幕府に届出、それが許され帰国しました。ところが、その道中の室津で酒井氏卒去の報が届きました。
元治元年
(1864)
【長州征伐】
 養父勝成公が出陣、定昭公は松山城を守衛しました。
慶応元年
(1865)
【第2次長州征伐】
 養父勝成公に代わり、定昭公は旗本隊を率いて出陣、三津浜に本陣を置きました。
 家老菅良弼が率いる一ノ手軍は興居島に本陣を置いて、幕府軍艦大江丸や富士山丸の援護を受けながら、周防大島を占領しました。しかし、長州軍の反撃により、興居島まで帰還しました。

【嫡男の誕生】
 江戸において嫡男が誕生しました。生母は邦姫です。千松と名づけられました。
慶応2年
(1866)
【昇進】
 左近衛権少将に昇進しました。

【14代将軍徳川家茂公、薨去】
 このような中、大坂城に出陣していた家茂公が21歳の若さで薨去しました。幕府は家茂公の薨去を理由に長州征伐を停止。実際に長州軍と戦ったのは松山藩のみで、結果として幕府軍(松山藩)の敗北に終わりました。
慶応3年
(1867)
【嫡男、卒去】
 江戸において嫡男千松公が卒去しました。享年3歳。法号は賢明院殿荷月能仁大童子。済海寺に埋葬されました。

【養父勝成公の隠居と家督相続】
 勝成公は持病の悪化により隠居。定昭公へ家督相続が許されました。伊予守と改めました。
 定昭公の家督相続につき、勝成公は大殿様、定昭公は太守様、内室邦姫は御前様と称されました。

【老中職の就任】
 二条城において老中就任を命じられました。江戸幕府史上、もっとも若い老中の誕生となりました。
 重臣は多極な政局における定昭公の身を心配し、老中職就任には慎重な意見がありました。定昭公は家督を相続した直後であるため、老中職辞退を申し出ましたが許されず、老中に就任しています。
   
  定昭公が老中職を拝命した二条城

【大政奉還】
 15代将軍徳川慶喜公は大政奉還を奏上、勅許されました。

【眞常院殿定行公二百回忌法要】
 常信寺において初代定行公の二百回忌法要が営まれました。

【老中職、辞職】
 定昭公は大政奉還を受け、老中職を辞職しました。しかし、この辞職は、政局多難な時期にあって、家門松平家が責任を回避したとして、幕府や諸藩からの信用を失墜させてしまいました。
 その後、定昭公は慶喜公が大坂へ移るとそのお供をし、大坂に入りました。朝廷より上京の命がありましたが、持病の悪化を理由に上京せず、名代を派遣し、翌年一月に上京する旨を伝えました。

【王政復古の大号令
 
薩長のクーデターにより、前将軍徳川慶喜は朝敵となりました。
慶応4年
明治元年
(1868)
【松山藩追討令】
 朝廷より松山藩へ追討令が出されました。
 その理由は、朝廷の上京要請にもかかわらず慶喜に与し、大坂梅田辺の後援したことがあげられ、官軍に敵対したというものでした。

【松山藩、朝敵となる】
 朝廷はただちに松山藩兵卒の宮門の出入りを禁じ、さらに江戸藩邸、大坂屋敷を接収。そして定昭公の官位を剥奪してしまいました。その後、定昭公は主戦論を展開しましたが、恭順を説いた三上是庵や養父勝成公の意見を取り入れ、恭順へ藩論を統一、藩庁を明教館へ移し、勝成公とともに常信寺へ入り、謹慎の意を示しました。
     
 勝成公・定昭公が謹慎を示すために入った常信寺

【内室の帰国】
 内室邦姫が江戸より帰国、松山城へ入らず、そのまま千秋寺へ入りました。
      
  内室邦姫が入った千秋寺(写真は山門)

【赦免、蟄居・謹慎処分】
 松山藩を占領した土佐藩により、勝成公・定昭公父子の謹慎の意や領民からの赦免嘆願の様子が朝廷に伝えられました。
 朝廷は松山藩を赦免し、定昭公へ蟄居謹慎、勝成公へ再家督、軍資金15万両の上納を命じました。
 定昭公は常信寺より東野吟松庵へ入り蟄居、勝成公は松山城へ入りました。この後、邦姫も定昭公に従い東野竹の茶屋へ移りました。
明治2年
(1869)
【蟄居を解かれる】
 朝廷より蟄居を解かれ、改めて定昭公は若殿様、邦姫は若御前様と称されました。

【参内、叙爵】
 参内し従五位に叙されました。

【実父との対面】
 帰国の途中、津へ立ち寄り実父藤堂和泉守高猷公と対面を果たしました。
明治3年
(1870)
【今治藩主久松壱岐守定法公との会談】
 定昭公は勝成公とともに北条で分家の久松定法公と会談しました。のちに今治城へ出向いています。
   
   今治城(写真は模擬天守)

【上京】
 御政体の見習いのため上京、三田邸へ入りました。
明治4年
(1871)
【再家督】
 御政体の見習いのため上京、三田邸へ入りました。参内し、家督相続を仰せ付けられ、二代松山藩知事に就任しました。

【東京移住を命ぜられる】
 華族と称された元大名家は東京府貫族とされ、東京移住を命ぜられました。勝成公、和光院様、御前様とよばれた邦姫は上京、三田の久松邸に入りました。

【廃藩置県】
 廃藩置県により藩知事を免ぜられました。
明治5年
(1872)

(定昭公肖像)
【引越】
 三田久松邸を売り払い、浜町の旧水野忠啓邸を求め、移りました。

【大病】
 大病に陥り、分家で旧旗本の松平豊後守勝実の3男・e三郎を養子としたい旨を、東京府へ届出しました。

【卒去】
 浜町の邸宅で卒去しました。享年28歳。諡号は忠敏公。神式により葬送、済海寺に埋葬されました。
 遺言により遺髪が常信寺に埋葬されました。
 内室邦姫は明治37(1904)年、卒去。享年62歳。法号は貞恭院殿。仏式により葬送、済海寺に埋葬されました。
先代 目次 次代

参考文献:『松山叢談』平成28年5月8日更新