●● 伊予松山藩の藩校 明教館

明教館 講堂
(松山市持田町 愛媛県立松山東高等学校敷地内)

 明教館の歴史
文化2年
 (1805) 
10代定則公 【松山藩初めての藩校を創設】
 松山城下二番町横町に興徳館を設立。
 杉山熊台を教授として、藩士の指導に当たらせました。
文化6年
 (1809)  
10代定則公 【江戸屋敷内に藩校を創設】
 江戸愛宕下屋敷内に、江戸詰の藩士たちの教育をするため、藩校を設けました。
 叔父の松平越中守定信公により三省館と名づけられました。
文政4年
 (1821) 
11代定通公 【藩校の移転】
 興徳館の生徒数が増加たので、東門屋敷跡に移転し、それを機に名を修来館と改めました。
文政11年
(1828)
11代定通公 【明教館の誕生】
 修来館の拡充、本格的な藩学の創設に乗り出しました。定通公の目的は、文武両道を振興して、弛緩した藩の気風を刷新して、綱紀を粛正することでした。
 2月3日、藩主定通公の臨席を仰ぎ、開講式が講堂におかれた聖像の前で挙行されました。教授の高橋復斎が祭文を朗読、日下伯巌が白鹿洞書院掲示の講釈をし、藩主定通公が神酒を頂いて式を終了しました。
  
  定通公御自筆の偏額
 明教館の様子
 総敷地面積は2,500坪。南半分と北半分に大きく分けられていました。
南半分 講堂
54坪 108畳
[内容]
 @表講釈(成人講座、毎月2日と7日に開講、藩主も出席)の開講
 A内講釈(毎月4日と9日に開講)の開講
 B学生会議
 C釈典の挙行
 D入門式の挙行
 E講義の科目は儒学、時期によっては皇学と算術が加えられました。
 3代定長公の時、その居室に掲示されていた「白鹿洞書院掲示」「論語課会説」が、講堂内の正面に掲示されていました。また、五か条の教諭(守るべき事)が掲示されていました。
藩主休憩室  詳細は不明です。
学問所
28坪
 通学生の研修場などとして使用されていました。
  内訳は教授詰所4畳、・助教詰所4畳、
  書架室6畳、諸用方詰所4畳、小使室3畳です。
寄宿寮
建坪15坪
 宮、商、角、微、羽の5部屋があり、一部屋に寮生2〜3名が入居していました。文久年間には3部屋増設されています。
北半分 験武場
各武場
 験武場では、藩主あるいは家老臨席のもと、武技の試験が実施されました。
 その他、弓術、剣術、槍術、銃術、兵学、柔術、馬術などの道場が設けられていました。