●● 松平隠岐守の御在城・伊予松山城

松山城 本壇遠景

歴代城主
初代城主
蛇の目
 加藤家
  従四位下侍従 
   加藤左馬頭嘉明(築城者)

   
  【松山城の前身・松前城跡】
 嘉明公は松前城に代わる新城を道後平野の中央にある勝山に城を築きました。すなわち、松山城です。
 慶長7年(1602)年 築城
  慶長8年(1603)〜寛永4年(1627) 
  普請奉行は贈正五位足立半右衛門重信。
            
     足立重信公五輪塔墓(松山市御幸 来迎寺)
  嘉明公は寛永4年会津若松城へ移封
二代城主
三つ巴
 松平家(蒲生家)
  従四位下侍従
   松平(蒲生)中務大輔忠知
 寛永4年(1627)〜寛永11年(1634)
  参勤交代の途中、京都で急逝、無嗣断絶。
           
    松平(蒲生)中務大輔忠知公供養塔
       (松山市末広町 興聖寺)
在番時代  大洲藩主加藤家  寛永11年(1634)〜寛永12年(1635)
  大洲藩加藤家ら3家預りとなる。
三代城主
尾張葵
 松平家(久松家)
  従四位下侍従 
   松平(久松)隠岐守定行
 寛永12年(1635)〜明治4年(1871)
  松平隠岐守家の御在城として、明治を迎える。
         
      源朝臣松平隠岐守定行公御霊屋
        (松山市祝谷東町 常信寺)

天守の沿革
慶長7年
(1602)
加藤嘉明  加藤左馬頭嘉明公により五層五階地下一階の天守が築かれました(前年に築城許可)。
 翌年、加藤家が松前城より移りました。
第一次天守
(五層五階地下一階)
寛永19年
(1642)
松平家初代藩主
松平定行
 松平隠岐守定行公、実弟松平美作守定房公のすすめにより、三層三階地下一階の天守に改築しました。
 定房公は山を切り崩して平坦にした山頂に五層の天守は不安定で、石垣などが崩れる恐れがあるのではと、兄定行公へ進言したといいます。
第二次天守
(三層三階地下一階)
天明4年
(1784)
松平家9代藩主
松平定国
 落雷により天守を含む本壇すべての建物が焼失しました。定国公はこの時、城下法龍寺へ避難しています。この事から、大火災であったことが伺えます。 焼失
嘉永5年
(1852)
松平家12代藩主
松平勝善
 定国公以来の悲願であった天守が再建されました。この時の天守が現存する天守です。
 定行公が改築した、当時の天守が復元されました。
第三次天守
(三層三階地下一階)
後期層塔型天守
復古式天守
天守の棟高:15.94m。

城郭の構造
連立式平山城。
連郭式部分環郭式平山城とも分類されます。
城郭全体の面積は約26ha。
本丸
加藤家により
寛永4(1627)年
完成。
○ 勝山(標高132m)山頂に位置します。
 山頂北側に一段高く郭を設け、天守、小天守、隅櫓、天神櫓などを置いています。この部分を本檀といいます。天守や隅櫓のの配置から連立式天守とよばれます。
 本丸には天守を含む21棟の建物が残され、国指定重要文化財となっています。
城山山頂本丸広場
(現在)
二之丸
蒲生家により
寛永4(1627)年
以降、完成。
○ 勝山南西麓に位置します。
 勝山南西麓を海抜39mに切り均して構築されました。
 初めは藩庁が置かれました。松平家4代定直公によって、藩庁は新しく造営された三之丸へ移されました。その後、隠居藩主もしくは世嗣の屋敷とされました。
 明治5年、火災により藩政時代の建物はすべて焼失しました。
 二之丸史跡庭園
(現在)
三之丸
(三之丸邸)
松平家により
貞享4(1687)年
完成。
○ 勝山西麓につながる平地に位置します。
 松平家4代定直公により、堀之内北東部にあった元蒲生家家臣屋敷に造営され、二之丸より藩庁が移されました。
 明治3年、火災により藩政時代の建物はすべて焼失しました。
旧国立がんセンター
(現在、建物撤去)
西之丸
(西之丸邸)
松平家により
元禄7(1694)年
完成。
○ 三之丸の東側につながる平地に位置します。
 定直公により造営され、藩主屋敷とされました。
 明治3年、火災により藩政時代の建物はすべて焼失しました。
旧ラグビー練習場
(現在は空き地)
堀之内
加藤家により
慶長10(1605)年
完成。
○ 勝山西側に位置し、周囲に堀をめぐらしています。
 諸重臣の屋敷がありました。
堀之内公園(現在)
東之郭 加藤家により
慶長期に完成。
○ 勝山東山麓に位置します。
  初代城主加藤家は重臣河村権七を住まわせ、2代城主蒲生家は、老臣本山豊前を住まわせました。
 3代城主松平家は、家老奥平家を住まわせました。松山騒動の後、奥平家に代わり、家老水野家の屋敷となりました。
松山東雲学園(現在)
北之郭 加藤家により
慶長期に完成。
○ 勝山北側に位置します。
 初代城主加藤家の重臣佃十成の屋敷があったので、佃郭とよばれたことがあります。2代城主蒲生家は、重臣蒲生源左衛門の屋敷がおかれ、源左郭と呼ばれました。
 松平家が城主となると、3代城主松平定行公の甥である松平定之公の屋敷がおかれました。
 天和元(1681)年、越後少将松平光長公が配流されると、この屋敷へ幽居しました。
 その後、獄舎となりました。
戦後、取り壊し、
現存せず。

国指定重要文化財の本丸建物群
天守 一ノ門 三ノ門 野原櫓 紫竹門


唯一現存している
望楼型二重櫓
ニノ門、一ノ門南櫓、ニノ門南櫓、三ノ門南櫓(以上本壇)、仕切門、隠門、隠門続櫓、戸無門など21棟。

平成24年11月30日 改製
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