●● 松平隠岐守って? ●●
 伊予松山藩15万石のお殿様です。
【領地】
 現在の愛媛県中予地方、すなわち松山市、東温市、上浮穴郡、伊予郡松前町、今治市の一部などを領地としました。
 そして、現在の伊予国東部地域にあった幕府領2,043石(現在の四国中央市川之江)を、幕府より預かっていました。
【本国】
 松平隠岐守家の本国は三河国ですが、天保11年より尾張国とされています。
【姓氏】
 元姓は菅原道真を祖とする菅原姓久松氏です。
 江戸時代は源姓松平氏を称していました。ですから正式な文書では、源朝臣と書いていました。
 ●● 松平隠岐守歴代藩主 ●● 久松松平家の本家にあたります。
 【歴代藩主(当主)】 −は実子相続、=は養子相続を示します。
  藩祖定勝−@定行(定勝公次男)−A定頼−B定長=C定直−D定英−E定喬=F定功=G定静=H定国
        −I定則=J定通=K勝善=L勝成=M定昭=N勝成(再封)=O定昭(再封)=P定謨(伯爵)
        −Q定武(伯爵)−R定成−S定智(現当主)
     ※N勝成公は慶応4年、久松氏に復姓。
 ●● 松平隠岐守分家歴代藩主 ●● 
 【主な分家】 分家はそれぞれ大名家、旗本家に列し、明治維新を迎えています。
 [越中守家(桑名系) 11万石 帝鑑間(溜之間) 桑名藩→高田藩→白河藩→桑名藩]
  藩祖定勝−@越中守定綱(定勝公3男)−A定良=B定重−C定逵−D定輝=E定儀=F定賢
        −G定邦=H定信−I定永−J定和−K猷=L定敬=M定教(子爵)=N定晴(子爵)
        −O定光−P定純(現当主)
    ※H定信公は白河楽翁公として知られた松平定信公のことです。
      L定敬公は幕末の京都所司代として、実兄の京都守護職であった容保公とともに京都の治安を守りました。

 [旗本定実系 2,000石 左金吾殿 織部 知行地安房国 本国三河国]
  藩祖定勝−@信濃守定実(定勝公4男)−A定之−B定由−C定相=D定蔵−E定寅−F定朝
        −G定央−H勝安(慶応期)
    ※F定朝公は菖翁公として知られた松平定朝公のことです。
    ※織部家の江戸屋敷(2,000坪)は現在の中華人民共和国大使館と麻布消防署のあたりにありました。

 [今治系 3.5万石 帝鑑間 今治藩]
  藩祖定勝−@美作守定房(定勝公5男)−A定時−B定陳−C定基−D定郷−●定温−E定休
        −F定剛−G定芝−H勝道−I定法=J定弘(子爵)−K喬(子爵)=L定秋(子爵)−M定隆(現当主)
   ※I定法公は慶応4年、久松氏に復姓。

 [旗本定政・定澄系 2,000石] 
  藩祖定勝−@能登守定政(定勝公6男)−A定澄=B定員−C定卓−D定胤=E定謐−F定寧(寛政期)

    ※@定政公は不伯公として知られた松平定政公のことです。
 ●● 松平隠岐守の家格 ●● 

 【家格】
 松平隠岐守家は初代将軍徳川家康公の異父弟・松平隠岐守定勝を祖とする家筋です。
 そのため家格は他の大名家より高く、官位は初官五位から侍従に昇ることができる限られた家のひとつでした。
 家格を構成するものに、武家官位、江戸城殿席、親疎の別などがあげられます。それらを順に見ていきます。

@ 武家官位
    隠岐守家は時期により家格が変動しましたが、大きく見ると下のようになります。
    

家格の種類 藩主(時期) 官位・席の昇進基準
 帝鑑間御譜代席から
 溜間詰へ昇格する家
 初代定行公から
 8代定静公まで
 初官五位→家督後四品→30年後侍従→溜間詰
 御三家庶流の家  9代定国公一代限り  初官四品格→家督後侍従・溜間詰→権少将
 溜間詰三家に准ずる家  12代勝善公から
 14代定昭公まで
 初官四品溜間詰格→家督後侍従・溜間詰
 →従四位下権少将→従四位上

A 江戸城殿席
    もともと帝鑑間御譜代席でしたが、溜間詰へ転ずることができる家格でした。
     帝鑑間から溜間詰へ転じた藩主に、初代定行公、6代定喬公、8代定静公がいます。
    9代定国公が徳川御三卿のひとつ田安徳川家より養子入りしたことによって、家格が向上しました。
    幕末には、溜間詰が確定し、国持大名をしのぐほどの高位高官に昇りました。

B 親疎の別
    藩祖定勝公は初代将軍徳川家康公の異父同母弟にあたります。このことから家門といえるでしょう。
    また、文献によっては、家門に准ずるという意味合いから准家門とも称されていたり、
    元久松氏という観点から譜代と記されていたりします。
    ただし、『松山叢談』には、隠岐守家は御家門と記されています。


     ※ 参考文献:藤本数夫「武家官位と殿席からみた松平隠岐守の家格」『伊予史談』伊予史談会(2005)第337号


【家紋】
 家紋には定紋と替紋と呼ばれるものがあります。定紋は公式の場面で用いられる紋です。
 替紋は非公式な場面(プライベートな場面)で使われます。

隠岐守家の定紋

松山梅鉢紋

尾州徳川三ツ葵紋

松平六ツ葵紋
隠岐守家の替紋

細輪
 ●● 松平隠岐守の御在城・江戸屋敷など ●●
【御在城】(松山市丸ノ内)
 伊予松山城 
  慶長2年、加藤嘉明公により築城、蒲生(松平)忠知公の城主期間を経て、松平隠岐守家の在城となりました。
  天守は12代隠岐守勝善公により再建され(嘉永6年)、現在に至っています。
  国指定重要文化財で十二古天守のひとつです。
            
           松山城天守閣 本丸広場より撮影 
【藩屋敷】
 
隠岐守家の屋敷は以下の通りです。
  ※京屋敷は慶長10年、長宗我部土佐守元親の旧屋敷を拝領したのが、端緒になりました。
藩邸の種類 場所 坪数 現在地 備考
江戸屋敷 上屋敷 芝愛宕下 10,587坪 東京慈恵医科大学
中屋敷 三田 20,997坪 イタリア共和国
駐日大使館
赤穂義士切腹地・旧松方正義邸
下屋敷 二本榎→巣鴨→
品川領戸越村2か所
303坪
3,470坪
大坂屋敷 屋敷 上中之島 1,218坪
蔵屋敷 堂島難波小橋西詰  1,082坪
京屋敷 屋敷 高倉誓願寺下る町屋敷
(高倉蛸薬師上る町屋敷)
1,663坪 京都市立
高倉小学校(旧日彰小学校)
4代定直公により元禄6年買い求める。宝永5年京都大火により類焼。
● 松平隠岐守の参勤交代の順路 ●
 松平隠岐守家では初代定行公はほとんど江戸在府でした。
 定期的な参勤交代が行われたのは、2代定頼公からでした。
 松平隠岐守の参勤交代の順路は例外をのぞいて次のようになっていました。
  松山城三之丸藩邸 → 松山城堀の内北門 → 城下本町筋 → 三津口 → 衣山 → 山西 
               → 三本柳 → 三津浜(港) → 三津お茶屋で休息 → 御座船で出港 
               → 旧北条市沖を東進 → 松山領岩城島で一泊 → 鞆 → 下津井 → 日比 → 牛窓
               → 播磨室津へ到着し一泊 → 陸路(西国街道)を大坂へ → 大坂藩邸で一泊 
               → 淀川を船で進み京屋敷へ  → 東海道を進む江戸へ → 江戸藩邸到着 
               → 江戸城へ登城、将軍家の拝謁を賜う
  行程は約20日から30日程度で、行列の人数は約300名ぐらいと推定されています。

        
  松平隠岐守家の関札(郡山宿本陣) ※当ホームページをご覧になった方から提供されました。
●● 松平隠岐守 改姓の歴史 ●● 

● 久松氏の由来 ●
 延喜元(901)年 昌泰の変により道真公が太宰府へ左遷、孫・久松麿(雅規公)も連座、尾張国安古居(のちの阿久比)へ流されました。
 雅規公の十四世孫道定公は尾張国阿久比7,000貫を足利将軍家より賜った際、雅規公の幼名にちなみ菅原朝臣久松氏を名乗りました。

● 久松氏から松平氏へ ● 
 それから11代を経た俊勝公は、水野忠政の女(於大)を継室としました。於大は松平広忠公(贈正三位大納言)の室でしたが、しかし、織田家との折り合いから離婚、久松家へ嫁しました。その時、松平家にはわずか2歳の家康公(のちの征夷大将軍)を残していました。のちに家康公は織田家そして今川家の人質になりました。
 家康公が、桶狭間の戦いに出陣する際に、久松家を訪ね、母於大と対面しました。
 家康公は俊勝公と於大の間に生まれた3人の男の子を前に、「私に兄弟がありません。今後、この3人を弟とし、松平氏を名乗り、葵紋を使うように。そしてこれからもいろいろと助けて欲しい」と言いました。これにより、3人の男の子は松平氏を名乗ったのです。3人の男の子とは、康元、勝俊、
定勝公です。
 この定勝公こそが松平隠岐守の祖となるのです。定勝公は男子に恵まれました。
 次男定行公が隠岐守家を継承しました。三男定綱公は分家・越中守家を興し、四代定実公は旗本松平氏の祖、五男定房公は今治藩松平家を興し、六男定政公は旗本松平氏の祖となりました。

● 松平氏から再び久松氏へ ● 
 慶応4(1868)年7月6日、太政官は勝成公に対し、復姓を命じました。
 藩祖隠岐守定勝公以来称してきた「源姓松平氏」を改め、「菅原姓久松氏」に復しました。勝成公のあと、定昭公が再継承しましたが、定昭公もまた「久松氏」を称しています。
                           

 定昭公の嗣・定謨公は明治17年、伯爵の爵位を賜いました。
 定謨公は松山城を松山市へ寄贈しています。
 また、定謨公は城山下にフランス風の別荘・萬翠荘を造営し、のちに摂政宮裕仁親王殿下(昭和天皇)の行啓を仰いでいます。
        
     萬翠荘(現愛媛県美術館別館)

 定謨公のあとを継いだ定武公は伯爵議員の互選により貴族院議員となり、国政に参加、戦後、愛媛県知事を勤めています。定武公は香淳皇后(昭和天皇の皇后、今上天皇の母)のいとこにあたります。

【参考文献】 「久松定武は語る」刊行会 『久松定武は語る』 (1985)


 松平隠岐守の隠岐守って?  
 松平定勝公は掛川城の城主となった後、家康公より従五位下の位と、隠岐守の官名を授けられました。この後、松平家では代々「権現様御拝領官名」として、藩主になると「松平隠岐守」を名乗りました。
 例外として、14代定昭公は伊予守を称しています。これは式部大輔からの改称でしたが、隠岐守と改めようとも、父勝成公が隠岐守を称していたため名乗ることができませんでした。さらに、藩主となってまもなく幕府が崩壊したので、制度そのものがなくなってしまいました。 
 決して、松平家が隠岐国を治めていたという意味ではありません。
 武家特有の制度です。大名自身の領地がある国の国司名を名乗ることはほとんどありません(例外もあります)。
 (詳しくは武家官位の項目を参照して下さい)

 更新日:平成30年11月17日