●● 東照宮様御養女 阿姫 光照院殿徳川氏 ●●
藩祖松平隠岐守定勝公 第2女 (1595−1632
) 
松平(山内)土佐守忠義公 内室
文禄4年
(1595)
【誕生】
 松平隠岐守定勝の次女として誕生。生母は内室奥平氏(二の丸殿)。阿姫(くまひめ)と名づけられました。
慶長10年
(1605)
【伯父徳川家康公の養女となる】
 伯父大御所家康公の養女となりました。
【土佐国の大守・山内家へ入輿】
 4月17日、家康公の命により、伏見城より土佐国の大守山内家へ入輿。時に11歳でした。
 阿姫は将軍家の息女として、京都伏見城を出発、伏見の山内家屋敷へと入りました。
 夫となるのは、山内一豊公の養嗣である忠義公でした。一豊公はそれに先立ち、見性院とともに、忠義公を山内家の世嗣として、伏見城において、大御所家康公、将軍秀忠公の拝謁を賜いました。
 阿姫には、将軍家より化粧料として豊後国玖珠郡内において1,000石が付けられました。
 阿姫は婚儀後、見性院とともに土佐国へ移りました。
    
    
慶長14年
(1609)
【第1子、誕生】
 10月29日、高知城三之丸にて、夫忠義公との間に嫡男が誕生しました。国松と名づけられました。
 のちの3代藩主松平土佐守忠豊公です。
   
   
松平土佐守家の御在城・高知城
慶長16年
(1611)
【第2子、誕生】
 11月、高知城二之丸にて、夫忠義公との間に長女が誕生しました。喜代姫と名づけられました。
 のちに松平石見守長綱の室となりました。
慶長18年
(1613)
【第3子、誕生】
 9月11日、高知城本丸にて、夫忠義公との間に次男が誕生しました。虎之助と名づけられました。
 のちの後期中村藩初代藩主山内修理大夫忠直公です。
元和9年
(1623)
【江戸へ】
 18歳の時、娘喜代姫、男子忠直公とともに江戸へ移りました。
 阿姫は結婚に際し松平家より付属された家臣、山内家の家臣ら約160人を従えて、江戸へ下向しています。
 途中、実家松平家の領地・桑名に立ち寄り、実父松平隠岐守定勝公との対面を果たしました。
 ところが、桑名出立後、喜代姫、忠直が痘瘡に罹り、3ヶ月を要する長旅となりました。
寛永元年
(1624)
【将軍家へ初拝謁】
 江戸城へ登城し、従兄で養兄にあたる2代将軍秀忠公、義姉御台所浅井氏の拝謁を賜いました。
寛永9年
(1632)
【大御所秀忠公、薨去】
 大御所秀忠公が薨去しました。将軍家より遺物として黄金100枚を賜りました。
【逝去】
 2月13日、江戸土佐藩上屋敷において、この世を去りました。享年38歳という若さでした。
 法号は光照院殿泰誉皓月大姉。
 山内家の宗旨は曹洞宗ですが、阿姫の養家である徳川将軍家、実家松平隠岐守家ともに浄土宗でしたので、浄土宗の湯島常本山霊岸寺で火葬、埋葬されました(卵塔の完成は5月下旬)。御分骨が高野山へも納められました。
【法要】
 4月、忠義公は領国土佐へ帰国。亡き妻の葬礼を浄土宗称名寺で執行しました。
 ※称名寺は廃仏毀釈により廃寺、明治13年、現在地に中興開山されました。
明暦3年
(1657)
【御改葬】
 光照院殿徳川氏が眠る湯島常本山霊岸寺が、明暦の大火により焼失しました。これにより深川霊巌寺へ改葬されました。
寛文4年
(1664)
【夫、忠義公卒去】
 土佐藩第2代藩主源朝臣松平土佐守忠義公が卒去しました。享年74歳でした。
 阿姫が世を去った約30年が経っていました。
 忠義公は家康公の養女である阿姫を夫人に迎え、将軍家や幕府との関係を安定させ、自らの出自は藤原朝臣にも関わらず、阿姫との関係から源朝臣の口宣案を賜るなど、将軍家や松平家との関係を重視しました。
 忠義公は養父一豊が眠る筆山に葬られました。法号は竹巌院殿龍山雲公です。
  
     
  忠義公の葬儀を取り仕切った曹洞宗真如寺(高知市天満町)
       
  忠義公が眠る筆山の土佐藩主松平土佐守家墓所入り口(高知市天満町)
      
 
    忠義公が祀られている山内神社(高知市)
目次 藩祖定勝
参考文献:『松山叢談』

● 阿姫の山内家入輿について ●
1.徳川家からみると…。
 阿姫は伯父家康公の養女となって山内家へ入輿しました。山内家は豊臣系の大名ですから、徳川家にとって厄介な存在です。家康公は姪である阿姫を自らの養女として、山内家へ入輿させ、縁戚関係を結んで、両家を安定させようとしたのです。同時に外様を徳川家の一員とすることで、未だ初期段階にある幕府を発展安定化しようとしました。

2.山内家からみると…。
 豊臣系大名である山内家は、将軍家からみると、嫌疑的な存在です。その一方でいかにして、徳川政権下で山内家を存続させ、徳川将軍家に忠義を尽くせるか。これらの問題を抱えていました。このような時に、将軍家の息女(養女)が入輿しました。将軍家と縁戚関係を結ぶことで、徳川家の一員となり、山内家の安定を図かられるのでは、という期待感があったものと思います。
 さらに山内家は、徳川家の縁戚となることで、有力外様に盛んに行われていた『松平賜姓』が許されました(慶長15年)。
 阿姫を妻とした忠義公は、徳川家の一員であるという事を強く意識しています。
 たとえば、たびたび藩政について阿姫の兄である松平隠岐定行公へ助言を求めています。
 また、朝廷より賜る官位の任命書(口宣案)には、源姓を使っています。この源姓を使っている口宣案は、忠義公一代のみです

 
参考文献:財団法人土佐山内家宝物資料館 編集・発行 『将軍と大名 ―徳川幕府と山内家―』 (2000)