●● 伊予松山藩十二代(久松松平家13代)  松平隠岐守勝善(18171856 ●●
溜間詰 従四位下 刑部大輔 侍従 隠岐守 左近衛権少将
縁女 養父松平隠岐守定通女鏈姫(実酒井左衛門尉忠器女・瑶岸院殿)  内室 酒井左衛門尉忠器女猶姫(和光院殿)

文化14年
(1817)
【薩摩藩白金中屋敷で誕生】
 松平(島津)薩摩守斉宣公(薩摩藩藩主)の十一男として誕生(すでに父斉宣は隠居し、渓山と号していました)。生母は島津樵風の養女・百十(のちの真如院)。
 祖父は松平薩摩守重豪、伯母は11代将軍家斉公の御台所広大院近衛氏、
姪は13代将軍家定公の御台所天璋院近衛氏です。
天保3年
(1832)
【松平隠岐守定通公の養嗣子となる】
 松平隠岐守家と松平薩摩守家とは初代定行公以来、縁戚家となっています。
 このことから、薩摩守家には藩祖定勝公の女系の血統が受け継がれていました。そこで、家中では藩祖定勝公の血統を受け継いでいる、斉宣公の男子が養子として迎えられ、定通公の養女(実酒井左衛門尉忠器女)と婚約しました。
       

【改名】
 養父定通公より実名を定穀と進められ、薩摩藩邸より松山藩愛宕下屋敷邸へと移り、のちに三田屋敷を住まいとしました。

【初登城】
 江戸城へ定通公の嫡男として初めて登城。
 11代将軍徳川家斉公、世嗣内大臣家慶公、大納言家祥公の拝謁を賜いました。
 この時、大目付より登城の際には御譜代席帝鑑間四品を伝えられました。これは9代定国公と同じ家格です。

【松平隠岐守家の家格昇格】
 幕府より養父定通公へ家格の昇格が言い渡されました。
 藩祖定勝公が家康公の異父弟にあたるので、今後父が溜間詰の場合、その嫡男は溜間詰格とされました。

【月次登城】
 登城後、幕府より溜間詰格四品に命ぜられ、同時に刑部大輔に叙されました。
 その中で、定穀公は当時溜間詰末席であった侍従の酒井河内守忠学公の次席とされ、将軍家への独礼お目見が許されています。
 この時の溜間詰の大名は以下のとおりです。
  正四位上権中将 井伊掃部頭直亮公
  正四位下権中将 松平肥後守容敬公
  従四位下権少将 松平讃岐守頼恕公  松平越中守定永公  酒井越中守忠実公
  従四位下侍従   松平右京大夫頼胤公  松平隠岐守定通公  井伊玄蕃頭直元公
              酒井河内守忠学公   
  溜間詰格四品   松平刑部大輔定穀公。
天保4年
(1833)
【昇進】
 侍従に昇進しました。

【縁女、卒去】
 昨年、婚約していた鏈姫が、未だ嫁すことなく、酒井家の藩邸で卒去しました。享年5歳。
 法号は瑶岸院殿諦理明眞大童女。済海寺へ埋葬されました。
天保6年
(1835)
【養父定通公、大病】
 養父定通公がが脚気をわずらい、病の床に伏しました。
 定穀公は脚気により回復の見込みなしと幕府に届け出、まもなく養父が卒去しました。
 養母徳川氏は、夫定通公の卒去を受け剃髪し、貞寿院殿と称しました。

【12代藩主に就任】 
 養父定通公の家督を継承し、12代藩主となりました。その後、隠岐守に転任、溜之間へ昇格しました。
天保7年
(1836)
【先祖久松佐渡守俊勝公250回忌法要】
 俊勝公は藩祖定勝公の父君です。三河国清田村和合院安楽寺で法要が行われました。
天保8年
(1837)
【大塩平八郎の乱】
 大坂城代土井大炊頭利位公より出兵の要請があり、大坂城へ出兵し城を警固しました。のちに天満橋を警固しました。

【将軍家斉公隠居、世嗣家慶公将軍宣下】
 定穀公は、将軍家の世嗣家祥公が右大将を兼任する御礼言上の御使に任命されました。
 家慶公の将軍宣下の御使は松平讃岐守頼恕公、
 将軍家左大臣転任の御使は酒井左衛門尉忠器公がそれぞれ務めました。
 定穀公は上洛すると禁裏御所へ参内し、つづいて仙洞御所へ参院、大宮御所・親王御所・准后御所へ参上しました。その後、黒書院溜間詰左近衛権少将昇進の勅定を賜りました。江戸へ帰府後、将軍家より権少将に任命されました。

【吉田家へ定勝公の霊に対し神号授与を依頼】
 定穀公は新延六郎左衛門を使者として、吉田家へ定勝公の神号授与を依頼しました
 その後、定勝公に対し東雲大明神の神号が授与され、松山城内の御社へ勧請されました。

【初めてお国入り】
 定穀公はこの年初めてお国入りを果たしました。
 これまで、本陣・脇本陣に掲げる関札には「松平隠岐守宿」と書いてありましたが、定穀公は「松山少将」と掲げました(9代定国公は「少将」でしたが「松平隠岐守宿」としていました)。
天保9年
(1838)
【江戸城西の丸焼失】
 江戸城西の丸のお手伝い普請を命ぜられ、30,000両を献上しました。

【家中より東雲神社へ奉納願い】
 藩祖定勝公をお祀りする東雲神社へ、家中より石手水鉢、城下町方より惣石壇切石、三津町方より神門、十郡郷方より玉垣をそれぞれ奉納したい旨があり、許可されました。
       
   東雲神社にある松平家家中より奉納された手水鉢
天保10年
(1839)
【葵御紋を定紋に】
 葵御紋が定紋とされ、翌年には江戸屋敷の門へ松平六ツ葵(花葵)をつけました。
     

   松平六ツ葵御紋(花葵紋)
天保11年
(1840)
【武鑑改訂】
 これまで、出雲寺と須原屋が出版している武鑑の松平隠岐守家の項目は、本国三河となっていましたが本国尾張と改められ、同時に、居城の文言が御在城とされました。

【東雲神社、造営、遷宮式】
 上棟式、遷宮式は神主田内肥後守逸寛が勤めました。定穀公は家老菅五郎左衛門良史を代拝として派遣しました。
 遷宮式の後、家中や郷町の参詣が許されました。ただし僧尼の参詣は許されませんでした。
 田内肥後守には、大宮司職を仰せ付けられました。

【定吉公の御霊屋、造営開始】
 定吉公の菩提寺である城下中の川蓮福寺へ50俵が寄進され、定吉公(自照院殿)の御霊屋の造営を開始しました(天保14年完成しましたが、戦災で焼失しました)。

【千宗室へ新知200石】
 京都住居御茶師側医師格の千宗室はこれまで35人扶持でしたが、新知200石に直されました。
千宗室というのは、今日庵裏千家のお家元です。この時の当主は十一世玄々斎精中宗室です。
天保12年
(1841)
【大御所家斉公、大病】
 老中より大御所家斉公、重病につき西の丸へ登城を命ぜられました。
 この時、同じく登城を命ぜられたのは次のとおりです。
 まず、将軍家縁家として、
     松平越前守慶永公(越前家)、松平肥後守容敬公(会津藩)、
     松平三河守斉民公(津山藩)、松平大蔵大輔斉矩公(明石藩)、
     松平兵部大輔斉宜公、松平因幡守斉訓公(因州家)、松平淡路守斉裕公(阿波藩)。
 溜間詰大名として、
     酒井雅楽頭忠学公、松平右京大夫頼胤公、井伊玄蕃頭直元公、松平下総守忠彦公です。

【大御所家斉公、薨御】
 まもなく大御所家斉公が薨御しました。朝廷より文恭院殿と勅贈されました。養母貞寿院へは文恭院殿家斉公の遺品が届けられました。

【養父定通公の御霊屋造営】
 大林寺に爽粛院殿定通公の御霊屋が完成しました。

【玄々斎(千宗室)が来松】
 玄々斎が東野吟松庵で藩主勝善公へ御茶を献上しました。

【渓山公卒去】
 定穀公の実父・松平渓山(斉宣公)が江戸薩摩藩邸で卒去しました。享年69歳。法号は大慈院殿舜翁渓山大居士。薩摩福昌寺へ埋葬されました。奏者番村治次兵衛を代香・御悔使として派遣しました。
 松山法龍寺では大慈院殿斉宣公の初七日法要が行われています。

【江戸藩邸(三田屋敷)へ天神社を勧請】
 松山で造営した御社を江戸藩邸へ移し、ご神体として定行公が刻まれた天神像を桑名長寿院より移し、勧請しました。
天保13年
(1842)
【酒井氏と結婚】
 酒井左衛門尉忠器公女・鶴姫を内室に迎えました(弘化元年、猶姫と改名)。
 鶴姫はさきに逝去した
鏈姫の実妹です。
天保14年
(1843)
【養母貞寿院殿徳川氏、江戸城へ登城】
 貞寿院殿は12代将軍家慶公の従妹になります。
 江戸城大奥で12代将軍家慶公、世嗣右大将家定公、従一位広大院殿近衛氏、御簾中鷹司氏の拝謁を賜いました。御品を拝領しました。

【第2女、誕生】
 側室中田氏との間に第2女が誕生しました。邦姫と名づけられました。のちに勝成公の養女となり、定昭公の内室となっています。
弘化元年
(1844)
【江戸城本丸、焼失】
 本丸の復興のため、30,000両を献上しました。

【一位様(広大院殿近衛氏)、薨去】
 11代将軍家斉公の御台所・広大院殿近衛氏が薨去しました。享年72歳。増上寺へ埋葬されました。
 広大院殿は定穀公の実の伯母にあたります。定穀公は香典白銀2枚、貞寿院殿徳川氏は香典白銀1枚を献じました。
弘化3年
(1846)
【松平讃岐守頼恕の男子・増之助公との養子取組、内定】
 同時に定通公の第三女令姫を養女とする事が内定しました。
弘化4年
(1847)
【松平増之助公との養子取組、正式決定】
 その前に定通公の第三女を養女とする事が正式に決定し、増之助公が婿養子として迎えられました。
 定穀公より定成と実名を進められ、三田中屋敷へ移りました。

【松山城本壇の復興開始】
 養曽祖父定国公の時、焼失した松山城の復興を開始しました。
 作事奉行は小普請奉行小川九十郎、棟梁は世襲城郭大工坂本又左衛門、田内九左衛門。
嘉永元年
(1848)
【松山城本壇の鍬入れ式】
 松山城復興の設計が完了、鍬入れ式が挙行されました。
 常信寺、阿沼美神社、東雲神社で復興成就の祈祷が行われました。
嘉永5年
(1852)
【松山城本壇の復興完成】
 松山城本壇の復興が完成しました。勝善公は工事関係者の労苦をねぎらい酒肴の供応をしました。
   

     完成した松山城天守(現存)
嘉永6年
(1853)
【松山城ペリー来航】
 江戸湾警固を命ぜられました。

【12代将軍家慶公、薨御】
 世嗣家祥公、将軍職就任。家祥公、家定公と改名。家定公にはばかり、定穀公は勝善、定成公は勝成と改名しました。
安政元年
(1854)
【松山城天守、落成式】
 松山城天守の落成式が挙行され、家中や70歳以上の面々に料理が下されました。

【養女令姫、卒去】
 嫡男勝成公の室で、養女の令姫が卒去しました。享年23歳。法号は清亮院殿婉誉蓮室貞響大姉。済海寺へ埋葬。
安政2年
(1855)
【生母、眞如院島津氏卒去】
 勝善公の生母がなくなりました。
安政3年
(1856)
(勝善公肖像)
【勝善公、卒去】
 天然痘に罹患しました。いったん回復に向かいましたが、急変し、卒去。
 享年40歳。
 法号は隆聖院殿故左近衛権少将前隠岐守従四位下仁誉忠穆良温大居士。済海寺へ埋葬。
 遺髪が大林寺へ運ばれました。
 内室酒井氏は剃髪し、和光院殿と称しました。
 和光院殿は幕末の動乱を勝成公、定昭公とともに生き抜き、明治14年卒去しました。享年40歳。
 諱は雅子、済海寺に埋葬されました。
【勝善公の実姪篤姫が御台所に】
 勝善公の実家である島津家では、松平(島津)斉彬の養女(実島津忠剛女)が、13代将軍徳川家定の御台所になりました。篤姫は勝善公の実の姪にあたります。
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参考文献
『松山叢談』

更新日
平成30年6月7日