●● 伊予松山藩十三代(久松松平家14代)  松平隠岐守勝成 ●●
初代 松山知藩事 久松隠岐守勝成 (1832−1912

溜間詰 従四位下 刑部大輔 式部大輔 隠岐守 侍従 左近衛権少将 従四位上 正三位
前室 養父松平隠岐守勝善養女令姫(実養祖父松平隠岐守定通女・清亮院殿)  後室 酒井雅楽頭忠学女鋼姫(純光院殿)
天保3年
(1832)
【讃岐高松藩江戸藩邸で誕生】
 父松平讃岐守頼恕公(高松藩主)の六男として誕生。増之助と名づけられました。
 生母は浅田氏の女・八重野(のちに正林院)。叔父には水戸中納言斉昭卿、従兄には最後の関白・摂政となる二条斉敬、従弟には15代将軍徳川慶喜公がいます。
     
天保13年
(1842)
【実父、卒去】
 父松平讃岐守頼恕公が卒去しました。享年45歳。現在の香川県志度町にある日内山霊芝寺に儒式で埋葬されました。
 諡号は愨公(正四位下権中将南溟源愨公)。
        

    正四位下権中将松平讃岐守頼恕公の儒式墓(霊芝寺)
弘化4年
(1847)
【松平隠岐守家へ養子入り】
 幕府より増之助頼彭の婿養子が許可されました。養父定穀公より定成と名づけられ、三田中屋敷へ入りました。

【初登城】
 12代将軍徳川家慶に拝謁を賜い、従四位下に叙され、刑部大輔と名乗り、溜之間格に任じられました。
 のちに式部大輔と改めました。

【昇進】
 侍従に昇進しました。
嘉永元年
(1848)
【結婚】
 養父定穀公の養女令姫と結婚。令姫は若御前様と呼ばれるようになりました。
嘉永3年
(1850)
【第一子、誕生】
 令姫との間に第一子が誕生しましたが、死産でした。法号は浄顔院殿。
嘉永4年
(1851)
【昇格】
 溜之間に昇格。
嘉永6年
(1853)
【松山へ初めてお国入り】
 養父定穀公の名代として、初めて松山入りをしました。
安政元年
(1854)
【改名】
 徳川将軍家の家祥公が家定公と改名し、それにはばかり、定成公は勝成と改名しました。

【内室、卒去】
 若御前様と呼ばれていた内室が卒去しました。享年23歳。法号は清亮院殿婉誉蓮室貞響大姉。済海寺へ埋葬されました。

【安政の大地震】
 松山地方で大地震が発生。松山城本丸や二ノ丸で石垣、土塀、瓦が崩落。法龍寺ではほとんどの伽藍が倒壊しました。
安政3年
(1856)
【養父勝善公卒去、家督相続】
 かねてより病気がちであった養父が卒去、13代藩主に就任し、隠岐守と改名しました。
安政4年
(1857)
【神奈川警備】
 幕府より異国船到来の際、神奈川警備を命ぜられました。
 安政6年より万延元年にかけて、勝海舟の指導を受け、神奈川御砲台を築きました。
安政5年
(1858)
【大林寺火災】
 勝成公は出馬しましたが、御霊屋、位牌所への類焼もなく、別状ありませんでした。

【叔父・徳川斉昭公、謹慎処分】
 幕府より徳川斉昭公が謹慎処分を受けました。斉昭公は勝成公の実父方の叔父にあたるため、自ら差扣ました。
 翌日、差扣の旨、幕府へ伺いましたが、それに及ばずということで、これまでどおり登城しました。

【婚約】
 酒井雅楽頭忠学女鋼姫と婚約しました。
安政6年
(1859)
【邦姫を養女としました】
 養父勝善公の次女邦姫を養女としました。

【藤堂和泉守高猷公の第4男錬五郎公を婿養子としました】
 錬五郎公には定昭と名づけ、邦姫を内室としました。定昭公は翌年三田中屋敷へ移りました。

【結婚】
 酒井雅楽頭忠学公の女鋼姫と結婚しました。鋼姫は御前様とよばれました。

【叔父・徳川斉昭公永蟄居、従弟・徳川慶喜公隠居謹慎処分】
 幕府より徳川斉昭公が謹慎処分を受けました。斉昭公は勝成公の実父方の叔父にあたります。同じく慶喜公は実父方の従弟にあたります。このため、差扣の旨、幕府へ伺いましたが、それに及ばずということで、これまでどおり登城しました。
万延元年
(1860)
【定通公の内室・貞寿院殿徳川氏、卒去】
 法号は貞寿院殿鑑誉探徳妙皓大姉。享年53歳。済海寺へ埋葬されました。

【神奈川砲台築造】
 幕府より神奈川へ砲台を築造するよう命ぜられました。設計は勝海舟、わずか1年で完成しました。築造費は藩財政費の1年分にあたる7万両、30万人の人員を動員させたといわれています。
【昇進】
 幕府は神奈川砲台築造の功を賞して、左近衛権少将に昇進し、家格を向上させました。
文久元年
(1861)
【定通公の生母・祐光院が卒去】
 祐光院は臨終を前に藩主生母として御上並とされ「祐光院様」と称されました。慣例に従い済海寺へ埋葬されました。
文久2年
(1862)
【文久の改革】
 幕府の文久の改革により、参勤交代の改正が成されました。松平隠岐守は溜之間大名であるため、三年に一年在府となりました。そして内室の帰国も許され、御前様とよばれた内室の酒井氏は松山へ帰国、松山城三之丸へ入りました。続いて勝善公の内室であった和光院殿酒井氏、世嗣定昭公の室で若御前様とよばれている邦姫も松山へ帰国、二之丸へ入りました。
文久3年
(1863)
【14代将軍徳川家茂公、上洛】
 文久2年、幕府より将軍家の上洛に際し、京都の警備を命ぜられていました。
 京都では都の警備、将軍家の警固、家茂公の石清水八幡宮参詣に供奉しました。また参内し孝明天皇の拝謁、天盃を賜いました。

【内室酒井氏、卒去】
 松山に帰国していた内室酒井氏が体調を崩し卒去しました。享年23歳。法号は純光院殿明誉専照麗身大姉。大林寺へ埋葬されました。

【松山城下町に関門設置】
 城下の治安を維持するため、木屋町、三津口、土橋、橘、新立、一万に関門(柵門)を置きました。
 これにより旅人の城下町への立ち入りは禁止されました。禁門の変以降は道後温泉の他所者の逗留も禁止されました。
元治元年
(1864)
【将軍家茂公、再上洛】
 将軍家の再上洛に際し、二条城の警固のため二条口の警固を命ぜられました。
 将軍家の参内に際し、供奉を命ぜられ、将軍家とともに参内し、孝明天皇の拝謁を賜いました。
 また将軍家の知恩院参詣に際し、先立を勤めました。この後、将軍家の参内には付き従い、天皇の拝謁、天盃を賜いました。

【昇進】
 将軍家の参内供奉の功により、従四位上に昇進しました。この位は歴代の隠岐守で最高位のものです。
 のちにはこれまでの功績を讃えられ金3,000両を賜っています。

【禁門の変】
 家老である奥平弾正は、御所を護るため松山より京都へ出陣しましたが、戦闘に間に合わず、長州勢との直接的な戦闘はありませんでした。この時、留守中の松山藩京都屋敷が長州藩の兵火により炎上しました。
 勝成公はその後、直ちに京都に入り、参内しています。

【長州征伐】
 朝廷より長州討伐が命ぜられました。征長総督には尾張前大納言慶勝公が任じられました。
 松山藩は、宇和島藩伊達家と今治藩松平家とともに出兵命令が出されました。
 勝成公は出陣しましたが、長州側の降伏により、陣を引き上げました。
 同時に勝成公は土佐藩と長州藩が表面上は対立しているが、裏工作があるのではないかと考え、奉行松下小源太と藤野正啓を土佐藩主松平(山内)土佐守豊信公へ遣わしました。両名は、豊信公の屋敷へ招かれ、「長州征伐の間、留守中の事を御頼む申す」との旨を口上、豊信公はこの使者の意味を目的を十分に知った上で、酒席を設けました。この中で、豊信公は「御所に発砲し、都を動乱に陥れ、帝の御心を悩ました長州は征伐に値する」と述べ、さらに、長州征伐に乗じて人の虚を襲う事、まして貴藩を攻める卑劣な心は持っていないと話しました。
慶応元年
(1865)
【第2次長州征伐】
 長州ではクーデターが起こり、幕府との約束を履行しなかったので、幕府は長州への再出兵を命じました。
 征長先鋒総督には紀伊中納言茂承公が任ぜられ、将軍自らが大坂城へ入りました。
 しかし、徳川慶勝公や薩摩藩などが出兵には反対しています。
 松山藩は先の出兵に続いて一番手を命ぜられました。
 勝成公は松山を守るため、世嗣・定昭公を代わりとして旗本隊を率いさせて出陣を命じ、定昭公は三津浜に本陣を置きました。
 家老菅良弼が率いる一ノ手軍は興居島に本陣を置いて、幕府軍艦大江丸や富士山丸の援護を受けながら、周防大島を占領しました。しかし、長州軍の反撃により、興居島まで帰還しました。
慶応2年
(1866)
【14代将軍徳川家茂公、薨去】
 このような中、大坂城に出陣していた家茂公が21歳の若さで薨去しました。幕府は家茂公の薨去を理由に長州征伐を停止。実際に長州軍と戦ったのは松山藩のみで、結果として幕府軍(松山藩)の敗北に終わりました。
軍艦を拝領。
 幕府より軍艦を拝領しました。しかしその型式は古く実用に耐えないので、イギリス商人所有の蒸気船を買い取り、長崎奉行所よりその代価が支払われました。
慶応3年
(1867)
【隠居】
 かねてより持病の風疾があり、また昨年以来、足痛により歩行が困難となり、また胸痛、めまい等により、療養していましたが、全快する見込みがないので、隠居したい旨が、老中板倉勝静公へ届け出されました。
 幕府はこの願い出を許可し、世嗣・定昭公へ家督継承を認めました。その後、勝成公は三之丸藩邸より二之丸へと移りました。
慶応4年
明治元年
(1868)
【再家督】
 鳥羽伏見の戦いにて、養子定昭公が前将軍徳川慶喜に従っていたとして、朝敵となりました。
 土佐藩が勅命を奉じ、松山へ入りました。隠居であった勝成公は当主定昭公とともに、松山城を開き常信寺へ入り、朝廷へ弓引く意思がないことを示しました。
    
   謹慎のため入った常信寺

 その後、朝廷より当主定昭公には蟄居謹慎、隠居勝成公へは再家督を命ぜられました。そして、本領安堵、軍費15万両の献金が言い渡されました。

【復姓】
 太政官より復姓が言い渡され、源姓松平氏より菅原姓久松氏へ復しました。
 実に藩祖隠岐守定勝公が永禄3(1560)年、松平氏を下賜されて以来、約300年ぶりに久松氏を称しました。これよりのち勝成公は久松勝成と名乗りました。

【明治天皇、即位式】
 参内し明治天皇の即位を賀し、酒饌を賜いました。これ以降、剥奪されていた京都屋敷、大坂屋敷を再下賜されました。

【明治天皇の東幸に供奉】
 勝成公は明治天皇の東幸に供奉し、再家督後初めて天皇の拝謁を賜いました。
明治2年
(1869)
【版籍奉還】
 版籍奉還を建白し許され、初代松山知藩事に任命されました。
明治4年
(1871)
【再隠居】
 家督を養子定昭公に譲り、東京三田の久松邸に入りました。
明治6年
(1873)
【定靖公、誕生】
 側室某氏との間に、定靖公(さだしずこう)が誕生しました。
明治19年
(1886)
【避暑に】
 大殿様とよばれていた勝成公は、定靖公と正岡子規らとともに、伊香保を訪れました。
明治20年
(1887)
【叙任】
 松平定敬公とともに、正四位に叙任されました。
明治25年
(1891)
【叙任】
 従三位に叙任されました。
明治30年
(1898)
【定靖公、逝去】
 かねてより病弱であった定靖公が逝去しました。享年25歳でした。
明治31年
(1899)
【叙任】
 従三位から正三位へ叙任されました。
 この時、同じく正三位に叙任されたのは、実弟の伯爵松平頼聰公がいます。
明治45年
(1912)
(勝成公肖像)
【薨去】
 享年81歳。法号は寛裕院殿徳誉静得勝成大居士。
 歴代藩主が眠る済海寺大林寺へ埋葬されました。
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参考文献
『松山叢談』『官報』

更新日
平成29年11月24日