久松家四ケ寺のひとつ 常信寺
 祝谷山常信寺(比叡山延暦寺派)  ― 松平隠岐守家の祖廟 ―
    愛媛県松山市祝谷東町  松山城と松山城下の鬼門を守護する寺
 常信寺の概要











   天台宗比叡山延暦寺派


   阿弥陀如来


   松山西国観音霊場第11番札所 十一面観世音菩薩


   比叡山横川別当代戒光院第5世憲海法印大和尚


   松山藩十五万石 初代藩主松平隠岐守定行
   (真常院殿前侍従道賢勝山大居士)



  東叡山輪王寺宮御門跡直末
   院家(常院室):院家とは御門跡寺院に次ぐ寺格です。
   松山藩からは天台宗中本寺触頭を命ぜられ、
   伊予国で最高の寺格を有しています。
   ※領内天台宗寺院のうち最高の寺格を誇りました。
 
   医座寺、高福寺、円福寺、正観寺、
   吉祥寺、佛性寺、西法寺
 
   見明院、本覚院
   東照宮別当寺広厳院(東照宮とは現在の松山神社)
 
   常信寺:200石、住職隠居:10人扶持
     東照宮別当広厳院:10人扶持  
     東照宮御宮番:10俵  
     東照宮御供米:30俵
   見明院:3人扶持
   本覚院:3人扶持
 常信寺の歴史

慶安3年
(1650)
【中興開基】
 開山松山藩初代藩主松平定行公は、城下の鬼門鎮護のため、松山城がある勝山北麓より阿沼山弘真院勝山寺を移転し、当家の菩提寺としました。
寛文5年
(1665)
【中興開山】
 定行公は、天海大僧正の高弟で、比叡山横川別当代となった憲海を招請、当寺の中興開山とし、祝谷山常信寺と改称しました。
寛文8年
(1668)
【定行公逝去】
 出家して勝山と称していた定行公が東野御殿で亡くなりました。常信寺で葬儀が行われ、埋葬されました。
 以来、常信寺は松平家の祖廟とされました。
寛文11年
(1671)
【定行公の御霊廟、落慶】
 定行公の御霊廟が造営されました。
宝永元年
(1704)
【火災】
 本堂、松平家位牌堂、庫裏が焼失しました。
 松平家の位牌を大林寺へ遷しました。
宝永2年
(1705)
【再建】
 本堂、松平家位牌堂、庫裏が再建されました。
 松平家位牌が大林寺より戻されました。
享保3年
(1718)
【院家寺院となる】
 輪王寺宮御門跡より、「常院室」の称号を賜い、院家寺院となりました。
寛延3年
(1750)
【家光公百回忌】
 3代将軍徳川家光公の百回忌法要を行いました。
明和5年
(1768)
【家康公百五十回神忌】
 初代将軍徳川家康公の百五十回神忌を営むため、境内に東照宮を造営しました。
 春より家康公の法要が開かれ、8代藩主定静公の臨席を仰ぎました。
寛政4年
(1792)
【火災】
 本堂、松平家位牌堂、庫裏、書院が再び焼失しました。
 松平家の位牌を大林寺へ遷しました。
寛政9年
(1797)
【再建】
 本堂が再建されました。
 庫裏や書院などは定行公の年忌法要を待って追々再建されていきました。
文化12年
(1815)
【家康公二百回神忌】
 家康公の二百回神忌が東照宮で行われました。
慶応元年
(1865)
【家康公二百五十回神忌】
 家康公の二百五十回神忌のため、13代藩主勝成公は東照宮を大造営しました(現在の松山神社社殿です)。
 藩主勝成公の臨席を仰ぎ、法会が行われました。
慶応3年
(1867)
【定行公二百回忌】
 定行公の二百回忌法要が行われました。
 藩政期最後の法要となりました。
明治2年
(1869)
【勝成公、定昭公父子、謹慎】
 明治政府より朝敵とされた勝成公と定昭公の父子が、常信寺へ入り、謹慎しました。
明治4年
(1871)
【庫裏、書院破却】
 廃藩置県のあと、庫裏や書院が破却されました。
明治5年
(1872)
【定昭公の御遺髪を埋葬】
 東京で逝去された元藩主定昭公の遺髪を遺言にしたがい、常信寺境内に埋葬し、蔵髪墓を造営しました。
明治8年
(1875)
【庫裏、再建】
 定昭公の養嗣で17代当主久松定謨公が庫裏を再建しました。
明治31年
(1898)
【客殿、再建】
 定謨公が客殿を再建しました(現在の客殿です)。
 松平家の霊廟・墓
 松平隠岐守定行公の御霊屋

  
定行公は松山藩十五万石の初代藩主として、伊勢桑名藩より
 寛永12(1635)年、移ってきました。
  定行公は、徳川家康公の甥にあたります。藩の基礎を築きつつ、
 幕政確立期において、将軍家を助け、溜之間詰を任じられています。
  寛文8(1668)年10月19日、逝去しました。
  同月24日より常信寺で葬儀が行われました。
  法号は眞常院殿前侍従道賢勝山大居士。
  葬儀より3年後の寛文11年、霊廟が落慶しました。
  霊廟は本殿や拝殿、唐門からなり、その周囲に灯篭が置かれてい
 ます。
 松平能登守定政公の墓

  定政公は、定行公の末弟です。刈谷藩の藩主でしたが、家光公
 がなくなると、突然出家し江戸市中を托鉢したそうです。幕府はそれ
 を狂気の沙汰とし、長兄定行公のもとへ送り、蟄居を命じました。
  定政公は、余生を松山の東野別邸で過ごしました。
  寛文11(1671)年、東野別邸でなくなると、兄が眠る常信寺へ葬ら
 れました。
  明和8(1771)年の百回忌には、旗本某氏より覆屋が寄進され、現
 在の定政公御霊屋が造られました。

 久松伊予守定昭公の蔵髪墓

  定昭公は、幕末期の藩主で14代藩主です。
  老中に任じられています。
  太政官布告により、松平定昭から旧姓の久松氏に戻り、「久松定
 昭」と名乗りました。
  明治5(1872)年、持病の悪化により、東京でなくなりました。享年
 28歳。諡号は神道形式で贈られ、忠敏公と号しました。御遺体は東
 京済海寺へ埋葬されました。
  遺言により遺髪が常信寺へ埋葬されました。
 松平鍋之助公の墓
  
鍋之助公は、元禄9(1696)年、4代藩主定直公の次男として、江
 戸で誕生しました。すでに兄定仲公が亡くなっていたので、嫡男とな
 りました。
  やがて松山へ帰国しましたが、元禄11(1698)年、3歳で卒去しまし
 た。常信寺へ埋葬されています。
 妙住院塩穴氏の墓
  塩穴氏(1613−1679)についてはよく分かっていませんが、「久松
 家法名記」には、定行公の後々妾とあり、定行公晩年の側室だった
 と思われます。
  定行公が亡くなった後、落髪して妙住院と称し、城外の屋敷へと移
 りました。その屋敷は妙住院屋敷とよばれていました。
  延宝7(1679)年、妙住院屋敷で没しました。享年67歳でした。

伊予の葵