江戸時代の御門跡の格式

【寺院と門跡について】
 門主に天皇家の御連枝や皇子を迎えた、門跡寺院は天台宗、真言宗、法相宗の寺院に限り、平安時代から継承されてきました。これに加え、幕府は天台宗に輪王寺宮御門跡を創設したのみならず、徳川家の宗旨の浄土宗に知恩院宮御門跡(「華頂御殿」と呼ばれます)を創り出しました。江戸時代の門跡は次のとおりとなります。 
 〇江戸時代の親王門跡と摂家門跡  
宗旨 門跡寺院 御領
天台宗 輪王寺
(滋賀院兼帯)
13,000石
妙法院 1,633石
青蓮院 1,332石
梶井 1,064石
聖護院
(森御殿)
1,430石
照高院
(聖護院兼帯)
1,000石
円満院 420石
実相院 420石
曼珠院 727石
毘沙門堂
(輪王寺兼帯)
1,070石
真言宗 仁和寺 1,502石
大覚寺 1,010石
勧修寺 1,012石
随心院 612石
三宝院 3,998石
蓮華光院
(大覚寺兼帯)
300石
法相宗 一乗院
(橘御殿)
1,492石
大乗院
(飛鳥御殿)
914石
浄土宗 知恩院
(華頂御殿)
1,000石
 
 輪王寺宮御門跡は必ず、親王位階の最高位である一品へ昇り、天台宗の最高位である天台座主に就くのがならわしでした。いうまでもなく幕府の「御威光」です。他の山門派三門跡(青蓮院、妙法院、梶井)は二品が極位です。また、輪王寺宮御門跡領も他の寺院を圧倒するものでした。
 知恩院宮御門跡も輪王寺宮御門跡と同じく、初官二品より一品へと昇るのがならわしでした。しかし、輪王寺宮御門跡とは違い、江戸へ下向することなく、京都の知恩院にとどまっていました。つまり、知恩院方丈が浄土宗全体を統括していました。
 興福寺一乗院と大乗院の両院は中世以来、摂関家の子息が入寺していました。一乗院は近衛家、大乗院は九条家の子息が相承し、摂家門跡として、南都勢力を誇っていました。江戸時代に入り、一乗院には後陽成院の皇子である尊覚親王が入寺して以来(元和四年)、後水尾院、霊元院の皇子が入寺し、宮門跡となりました。一方、大乗院は鷹司家、二条家、九条家の子息が相承し、摂家門跡として、幕末に至りました。

 御門跡の格式は慶長20(1615)年7月、徳川家康と秀忠、二条昭実が二条城に於いて連署した、「禁中並公家諸法度」で規定されました。同法度の第十三条項目によると、以下のとおりとなります(座位の規定)。僧位僧官についても同法度第十四条・十五条項目に規定されました。
呼称 門主の出自 門跡内の室の位次 僧位・僧官
親王門跡
(宮門跡)
天皇の皇子および兄弟
すなわち法親王(入道親王)が門主
門跡個人の経歴=
修行年数(臈次)による。
僧正
僧都・法印
摂家門跡 摂関家の子弟が門主 同上 同上
准門跡 天皇家、摂関家出身の子が門主
※清華家門跡や公方門跡も含まれる。
同上 同上

 寺院そのものに「親王門跡」、「摂家門跡」の格式が与えられたものではなく、その門主の出自によって、「親王門跡」「摂家門跡」の格式が与えられました。つまり、天台宗青蓮院門跡と聖護院門跡を例にとってみると、その時の聖護院門跡が近衛家出身、青蓮院門跡が天皇家出身であれば、青蓮院門跡が「親王門跡」、聖護院門跡が「摂家門跡」とされ、青蓮院門跡が上位とされます。両門跡が「親王門跡」であった場合、門主個人の修行年数(臈次)によります。このように、寺院そのものの格式(座位)が、門主の出自や臈次によって変動します。
【僧位・僧官について】
 僧正は門跡のみならず院家へも許されましたが、先例を守らないといけないとされました。
 その院家ですが、僧都・律師・法印・法眼を先例に任せて任叙されることとし、平民や平人とは区別されています。 

【親王門跡の終焉】
 慶応4年、太政官達により、御門跡寺院は廃止されました。これまでの法親王や入道親王方は還俗しました。
 のちに、明治天皇のおぼしめしにより、宮家を創設した方もいらっしゃいます。

【参考文献】
 高埜利彦 「近世門跡の格式」 『近世の宗教と社会2 国家権力と宗教』 吉川弘文館 (二〇〇八)

 高埜利彦 「江戸幕府と朝廷」、水谷友紀「近世社会における南都寺院と門跡-興福寺と奈良町をいとぐちに−」、田中潤「明治維新と仏教」『将軍と天皇』(二〇一四)
 西本願寺光徳府 『雲上明覧大全』 文久元年刊 国立国会図書館デジタルコレクション

更新:平成29年9月17日