久松家四ケ寺のひとつ 大林寺
月照山崇源院大林寺
― 松平隠岐守家歴代藩主とその一統の菩提寺 ―

愛媛県松山市味酒町
 大林寺の概要











  浄土宗


  阿弥陀如来


  宗蓮社伝誉上人三甫大和尚
  (伊勢桑名の東海山照源寺を開山)


  松山藩初代藩主松平隠岐守定行公
  (眞常院殿前侍従道賢勝山大居士)


  京都知恩院直末。
  松山藩からは浄土宗中本山触頭を命ぜられました。
    ※領内浄土宗寺院のうち最高の寺格を誇りました。
 
   西林寺、正安寺
 
   智徳院、智光院、法正院

 
   大林寺200石
     智徳院:8石3人扶持  
     智光院:3人扶持
     法正院:3人扶持
 法龍寺の歴史

寛永元年
(1624)
【大林寺の前身、桑名で開山】
 定行公(のちの松山藩松平家初代藩主)の父定勝公が、桑名城で卒去しました。
 定勝公は伊勢国桑名城の城主でした。2代将軍秀忠公は、ただちに定行公へ、定勝公の菩提寺を造営するよう命じました。
 定行公は桑名領内に菩提寺を造営し、定勝公の法号「崇源院」から、寺院の名前を崇源院と名づけました(のちの照源寺です)。
寛永12年
(1635)
【大林寺、開山】
 定行公が、松山城主となると、松山城下の味酒町にあった禅宗見樹院へ父定勝公を祀りました
 そして、寺号を崇源院と改めました。もともと見樹院は、前松山城主蒲生家の菩提寺でした。定行公は蒲生家の御霊を末広町の興聖寺へ移し、蒲生家墓地跡に供養塔を築きました。
 そして桑名照源寺より、大誉三恕和尚を招請しました。三恕和尚は師匠で桑名照源寺の開山三甫和尚を松山崇源院の開山とし、自らは二世を称しました。
延宝2年(1674) 【寺号を改める】
 崇源院は、2代将軍秀忠公の御台所浅井氏の院号と同じであったので、それに遠慮して、寺号を大林寺と改めました。
延宝4年
(1676)
【2代定頼公、3代定長公の御霊屋造営】
 寛文2年に逝去した2代定頼公、延宝2年に逝去した3代定長公の御霊屋が造営されました。
延宝8年
(1680)
【山号を賜う】
 4代藩主定直公より月照山の山号を賜いました。
享保5年頃
(1720)
【4代定直公の御霊屋造営】
 享保5年に逝去した4代定直公の御霊屋が造営されました。
 のちに大龍院殿霊廟(定直公廟)には、8代定静公も合祀されました。
宝暦元年
(1751)
【定勝公の御生母・水野氏百五十回忌法要】
 定勝公、家康公のご生母伝通院殿水野氏の百五十回忌法要が行われました。
明和5年
(1768)
【6代定喬公、7代定功公の御霊屋造営】
 宝暦13年に逝去した6代定喬公、明和2年に逝去した7代定功公の御霊屋が造営されました。
文化元年?
(1804)
【9代定国公の御霊屋造営】
 文化元年に逝去した9代定国公の御霊屋が造営されました。
文化9年
(1812)
【10代定則公の御霊屋造営】
 文化6年に逝去した10代定則公の御霊屋が造営されました。
文化13年
(1816)
【火災】
 本堂、庫裏、松平家位牌堂が焼失しました。
 松平家の位牌は焼け出され、真解院殿御霊屋へ遷されました。
文政2年
(1819)
【再建】
 本堂、庫裏などが再建されました。
天保2年
(1831)
【義農作兵衛百回忌法要】
 享保大飢饉で麦種を枕にして餓死した、伊予郡筒井村の百姓・作兵衛の百回忌法要を行いました。
     
   伊予郡松前町にある義農作兵衛の墓
天保12年
(1841)
【11代定通公の御霊屋造営】
 天保6年に逝去した11代定通公の御霊屋が造営されました。
安政3年?
(1856)
【12代勝善公の御霊屋造営】
 安政3年に逝去した12代勝善公の御霊屋が造営されました。
大正2年?
(1913)
【13代・15代勝成公の御霊屋造営】
 明治45年に薨去した勝成公の御霊屋が造営されました。
昭和20年
(1945)
【松山大空襲】
 大空襲により、伽藍や御霊屋がすべて焼失しました。
昭和40年
(1965)
【再建】
 本堂、久松家御霊屋が再建されました。



 松平家の霊廟・墓
〈旧伊予松山藩主松平隠岐守家の御霊廟〉
  戦前までは、歴代藩主の霊廟がありました。
  しかし、戦災で御霊屋が焼失しました。
  戦後、墓地が整理され、現在の霊廟が造られました。

伊予の葵