●● 朝廷の官職について ●●
【朝廷】(ちょうてい)
 天皇が政務を執るところをいいます。または天皇が群臣や高級官僚に政務について意見を求め、聞きただすところをいいます。ただし、広く天皇中心の国務行政機構を意味することも多くあります。
 
国政の運営
 国政は、太政官公卿の合議により運営されました。つまり、太政大臣、左大臣、右大臣、大納言があたったのです。のちに、内大臣、中納言、参議が令外官として、新設されるとそれらも加わりました。

1.摂政・関白

【摂政】(せっしょう)
 幼帝・女帝に代わって、全ての政務を司る職です。この職は、推古2(593)年、皇太子厩戸皇子(聖徳太子)が推古女帝の摂政となったのが初例です。このように、皇太子が摂政となって政務にあたります
 平安時代になると臣下で初めて、幼帝清和天皇の外祖父藤原良房が摂政(858年)となりました。これにより藤原氏一門の職となりました。


【関白】(かんぱく)
 天皇を補佐して、百官をしたがえすべての政治を行う職です。摂政は幼帝の時の職ですが、天皇が成人すると関白としました。この職は、平安朝に光孝天皇が、太政大臣藤原基経に勅令を下した(884年)のがはじまりです。
 のちに天皇幼少期は摂政、元服後は関白叙任という道が藤原忠平の時に開かれました。
 関白をやめて、その子が関白になった場合は、前関白を太閤とよびました。また、摂政・関白の妻は北政所とよび、母を大政所とよびました。摂政・関白ともに、太政大臣・左大臣・右大臣のいずれかを兼ねるのがふつうでした。

【内覧】(ないらん)

 太政官より文書を奏聞する前に内見する職です。これは摂政・関白が病中の際におかれる臨時職でした。藤原道長が「内覧」についたことで、摂政・関白と並置する職とみなされ、「内覧と関白は万機すでに同事」(中右記)といわれるようになりました。
 関白には、必ずこの内覧の宣旨を下しました。関白以外の宣下もあって、この場合も同じく、すべての政治を代行しました。したがって、太政大臣であっても、内覧宣下がない場合は、政務を執行できませんでした。したがって、平清盛や足利義満などの武家が、太政大臣に任じられても、内覧宣下がないため、政務をとることはありませんでした。内覧宣下の初例は、藤原時平(左大臣)と菅原道真公(右大臣)です。

〈摂政と関白について〉
 摂政と関白いずれも大臣(もしくは大臣経験者)が任じられますが、摂政は、天皇に代わって政治をみるのに対し、関白は天皇を補佐して政治をみる職です。つまり、摂政の地位は関白を上回っています。
 たとえば、
藤原道長が内覧であった時、三条天皇が病篤く、「准摂政」の宣旨を下しています。すなわち摂政と関白(内覧)とは職務が異なることを意味しています。これが前例となり、摂政から関白に転じた際に、関白に特別の権限を与える意味で「准摂政」の宣旨が下されるようになっていきました。
 他には「摂政は宸儀に異ならず」(小右記)、「関白は摂政より劣る」(玉葉)とも言われていることからも、摂政の地位は関白を上回っているといえましょう。



2.太政官

【太政官】(だいじょうかん)
 律令官制における行政の最高機関です。八省(中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省。長官はいずれも卿)以下を統括し、政務を処理しました。のちに、令外官として中納言・参議が設置され、平安時代となると太政大臣から摂政・関白・内覧が分化し、平安末期には院政が開始されて、有名無実化しました。しかし、この太政官は、江戸時代末期まで存続しました。

【太政大臣】(だいじょうだいじん)(明治太政官制度ではだじょうだいじん)

 令制上最高の官で、太政官の長官です。適任者がなければ、太政大臣は設置しないというもので、常置のものではありません。これを「則闕の官」といいます。本来、皇太子もしくは皇太子に擬せられる皇族が任ぜられましたが、恵美押勝が大師(太政大臣の改称)、弓削道鏡が太政大臣禅師に任命されたのは例外です。平安朝に藤原良房が任ぜられてからは、藤原一門の職となりました。武家では平清盛や足利義満、豊臣秀吉、徳川家康、徳川家斉等があげられます(官位相当:一位)。

【知太政官事】(ちだいじょうかんじ)
 8世紀はじめに設けられた令外官です。当時、太政大臣に叙任されると同時に皇太子に擬せられるものとされ、皇族間で混乱が生じました。また、太政大臣は則闕の官とよばれるように職務も抽象的です。ですから、知太政官事には、皇族が任じられ、太政大臣に准じ、左大臣・右大臣の上に位置する官職となりました。また、准大臣と同格の時もありました。この官職名は『延喜式』にもみられますが、実際は大宝3704)年から天平17745)年、すなわち、奈良朝に忍壁親王や穂積親王(天武天皇皇子)、鈴鹿王(左大臣長屋王弟)等がこの職に任ぜられたのみです。当時の皇親政治の中核となりました。

【左大臣】(さだいじん)
 大化改新にはじまり、律令によって明確に定められました。大化元(645)年に阿倍内麻呂が任ぜられたのが最初です。太政大臣は職務がなく、則闕の官であるため太政官の政務は専ら左大臣が担当しました。唐名を左丞相・左僕射・左府・左相府といいます(官位相当:二位)。

【右大臣】(うだいじん)

 職掌は左大臣と同じです。左大臣が欠官している時や差し支えて出仕できない場合に、太政官の政事・宮中の儀式等を総裁する職です。また、左大臣が関白であったときには右大臣が政務をとりました。前述の太政大臣・左大臣・右大臣を三公(さんこう)また三槐(さんかい)といいました。唐名を右丞相・右僕射・右府・右相府といいます(官位相当:二位)。

【内大臣】(ないだいじん)
 天智天皇8(669)年、中臣鎌足が危篤に際して任ぜられたのが最初です。永祚元(989)年に藤原道隆が任ぜられてから以後常置となりました。職掌は左大臣・右大臣と同じですが、左大臣・右大臣の下に位置し、両大臣が出仕しない場合に、内大臣が政務をとりました。数の外の大臣(員外大臣)とも称されます。唐名を内府といいます(官位相当:二位)。

【大納言】(だいなごん)

 定員は4名からのち6名です。職掌は大臣と共に天下の政事を議し、大臣が出仕しない場合は太政官の政務・宮中儀式を専行する重役です。亜相ともいいます(官位相当:正三位)。

【中納言】(ちゅうなごん)

 令外官。慶雲2(705)年設置。大納言の定員2名を減らして、中納言3名を設置したのにはじまります。後に8名。職掌は大納言とほぼ同様で、天皇に近侍して奏上・宣下の事をつかさどり、政務にあずかりましたが、大納言のように、大臣不在の際に職務を代行することはできませんでした。また、中納言のことを黄門といいます(官位相当:従三位)。

【参議】(さんぎ)

 朝政を参議する職で、令外官です。定員は8名。参議は、大臣・納言に次いで重職です。別称、宰相(官位相当:正四位下)といいます。

【蔵人所】(くろうどどころ)
 太政官には属しませんが、便宜上この項目でお話しします。蔵人の事務をつかさどる役所です。810年、薬子の変に際し嵯峨天皇が、藤原冬嗣らを蔵人に任じたのがはじまりです。常に天皇の近くに仕えて、詔勅の伝達や宮中の行事、天皇の日常生活一切を取りしまりました。長官は蔵人頭(くろうどのとう)といいます。蔵人は、ふつう他の官職を兼ねていました。


3.地方官

【国司】(こくし)
 長官は守(かみ)、次官は介(すけ)とよばれます。中央政府の出先機関です。守・介ともに中央からの任命官僚です。民政一般や警察・裁判・徴税・軍事・交通・宗教なども統括しました。平城京のち平安京とを、たびたび往還し中央との連携を密にして、朝廷の全国統一を実現しました。任期は6年のち4年です。8世紀ころより、「守」は在京し、目代を派遣して任国を支配する例もみられ(これを遙任といいます)、9世紀には一般化しました。また、その一方で守が任国に赴任する例もありますが、これを「受領」といいます。親王(無品が多い)も守に任命されましたが、この場合は尊んで「大守」とよびました。

【郡司】(ぐんじ)

 郡の政務を担当する役所のことです。国造などの伝統的豪族や、評(のちの郡に該当)を創設する際に貢献した豪族が任命されました。長官は「大領」、次官は「少領」といいます。

[参考文献]
 朝尾直弘他 『角川 日本史辞典』 角川書店 (1996
    
 國史大辭典編集委員会 『國史大辭典』 吉川弘文館 (19791997) 
 國史大系編集會 『新訂増補 国史大系 令義解』 吉川弘文館 (1990
  
 和田英松 『新訂官職要解』 講談社 講談社学術文庫621 (1991
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