松平隠岐守家の菩提寺について


● 久松家四ヶ寺について ●

 久松家四ヶ寺というのは、松平隠岐守家が領内(国許)すなわち伊予松山のお城下に設けた菩提寺です。
 松平家の本宗は浄土宗ですが、国許の菩提寺は、浄土宗はもちろん、天台宗や曹洞宗、日蓮宗の寺院が菩提寺とされました。
 このように宗派を超えた寺院を菩提寺としたのは、次のようないきさつがありました。

 伊予松山藩松平家の初代藩主となった松平隠岐守定行公は、松山に入ると、まず父定勝公を祀る浄土宗崇源院、そして故夫人を祀る曹洞宗長寿院を創建しました(寛永12年・1635)。
 定行公の夫人は薩摩島津氏の出身で、同氏は曹洞宗を本宗としていましたから、定行公が曹洞宗の寺院を開いたのです。

 両寺院の住職は、定行公の前領地・桑名から招きました。すなわち、崇源院の大誉三恕大和尚、長寿院の月舟賢順大和尚(定行公の庶子)です。しかし、両和尚は自らが開山を称することはありませんでした。それぞれすでに亡くなっている師匠を、開山としました。崇源院では伝誉三甫大和尚、長寿院では建庵順佐大和尚です。
 のちに崇源院は「月照山崇源院大林寺」、長寿院は「佛國山法龍寺」と寺号を改めています。

 そして、城下の鬼門を鎮護するため、江戸の例にならい、道後祝谷に天台宗常信寺を開きました(慶安3年・1650)。のちに開山として、天海大僧正の高弟で、比叡山横川別当代となった憲海僧正を招請しています(寛文5年・1665)。
 寛文8(1668)年、定行公が亡くなるとこの常信寺に埋葬され、常信寺は松平家の祖廟として位置づけられました。

 2代藩主松平隠岐守定頼公の夫人京極氏は、日蓮宗の熱心な信者でした。城下寺町にあった日蓮宗法華寺を信仰していましたが、寛文2(1662)年、定頼公が江戸で急死すると、定頼公の位牌を法華寺へ納め、のちに松平家の菩提寺となりました。

 このようないきさつで四ヶ寺が松平家の菩提寺となりました。のちにこの四ヶ寺は「お殿様の菩提寺」として、「久松家四ヶ寺(ひさまつけしかじ)」とよばれるようになりました。

 久松家四ヶ寺は、その本寺を宗派の大本山(総本山)としました。
 寺格は領内で最高であり、堂塔がつぎつぎと整備され、藩主家の法要は、松山藩と町方によって執り行われました。
 藩主家から与えられた寺格を表にしてみます。

寺 院 名  本寺  寺領  その他の寺格
 祝谷山常信寺 東叡山輪王寺宮御門跡
(上野寛永寺)
二〇〇石 天台宗中本寺触頭
(院家寺=准御門跡寺院)
月照山崇源院大林寺 華頂御殿 知恩院宮御門跡
華頂山知恩教院大谷寺
(京都知恩院)
二〇〇石 浄土宗中本寺触頭
佛國山法龍寺 日本曹洞第一道場
吉祥山永平寺
一〇〇石 曹洞宗中本寺触頭
(常恒會地・伊予国僧録)
妙向山玄通院法華寺 身延山久遠寺 一〇〇石 日蓮宗中本山触頭

 これらの寺院は、松山城三之丸屋敷において、正月の藩主家拝謁の栄誉を与えられていました。また、藩主家より招かれ、能楽を拝覧することもありました。

● 江戸の菩提寺済海寺について ●

 松平隠岐守家は、江戸にも菩提寺を設けていました。
 三田済海寺です。
 
 寛文2(1662)年、2代定頼公が江戸藩邸で急死しました。松平家では藩邸近くの浄土宗済海寺で定頼公の遺体を火葬し、遺骨を松山へ送り、大林寺で葬儀が行われました。これにより、江戸の菩提寺は済海寺となりました。
 2代定頼公以降、16代定昭公に至る藩主のすべてが、江戸で亡くなりました。
 6代定喬公までは済海寺で火葬、遺骨が大林寺に埋葬される形をとっていましたが、7代定功公からは済海寺に土葬、遺髪が大林寺へ送られました。


伊予の葵

更新:平成29年5月26日