岡ちゃん賛辞

関  光 夫   (本名小林光夫。映画音楽評論家。1998年10月3日没。)

僕とおかちゃん

 いい年をしてちゃん≠テけで呼ぶのは慎みがないといわれるだろうが、僕にとって、岡田さん は、おかちゃん≠ネのである。大きな体でいくつになっても童顔のおかちゃん≠ヘ、長い付き合い、 そう30年は越す付き合いで色々な顔を持つことが分かってきた。

 虚か実か、体の重みでスケートを踏みつぶしたという大男だが、大男総身に知恵が回りかね…で はない。この人大変素晴らしい頭脳の持ち主であり、それを活用する手だれである。

 僕とおかちゃんの緑は、日本短波放送の番組からはじまった。特に、『スクリーン・アルバム』は、帯番組であ ったから、週一回の収録であったが、おかちゃん≠フ人柄で緑は濃くなり、彼の結婚披露宴、定年退 職パーティーなどで喋らされる親しい立場にまで発展した。

 今回の出版は誠にめでたく、僕としては嬉しい限りである。しかし、かつてはDJや司会、ナレ ータなどの放送タレントとして多少は世に知られていた僕が、現在は映画、音楽、放送の評論家と 不本意ながらいわれ、知る人も少なくなって釆たので、おかちゃん≠フためにかかる一文を依頼され た僕自身について、多少の説明をしたいと思う。

僕と劇団とワイフ

 僕は、NHKのアナウンサーになる以前、昭和17 年に旧制中学校の同級生であった石橋健三君の影響を受けて、珊瑚座という劇団に入団、当時の国 民小劇場(元築地小劇場)の舞台を踏んだことがある。石橋君は、中原淳一氏主宰の劇作隊の舞台 監督をやっていて、同じ昭和17年に万代峰子(宝塚出身のスター)主演の『たけくらべ』上演にタ ッチしていた。

 僕は、この舞台を見て、すっかり芝居に惚れ込み、その年の夏、徳川夢声、望月恵 美子、増田順二などの『珊瑚座』の演出に入れてもらった。上演の戯曲は菊岡久利作『大東合邦 論』。マニラの開拓に働く日本人たちの物語で、主にムーラン・ルージュの連中が出演、僕は、出 演の熊倉辰次氏の下働き。

 ところが俳優がどんどん辞めてしまい、熊倉氏から『お前役者もや れ!』といわれて、幕開きにせりふをいうマニラの社員の役を振当てられた。この芝居は一週間続 いた。恥ずかしながらこれが僕の初舞台になった。戦後、僕はNHKと日本興業銀行の仲間と茜 座″という劇団を作ったが、公演することなく
4年ほどで解散、その中の興銀の女の子と結 婚。その後、その女の子つまり僕のワイフを文学座にいれた。

 ワイフは、北村和夫、仲谷昇諸氏と同期で、 殆ど芝居らしい芝居をやらない内に、家庭第一と女優を断念してくれた。続けていたら一緒になっ て結婚50年、いわゆる金婚式までもたなかったろう。

 私ごとを述べて申し訳ないが、おかちゃん≠ェ 『鬼の笛』を書いた昭和50年代の終わりごろ、彼から紹介してくれと頼まれて北村和夫に連絡、か っちゃんこと北村氏が快く会ってくれたという一幕があった。今読み返してみると『鬼の笛』は 仲々の戯曲で、為朝か鬼夜叉かをかっちゃんに演じて貰いたかったのだろうと推測するのである。

おかちゃん≠フ化身

 僕は、おかちゃん≠フことを大男と言ってきたが、僕ら大正の感覚でそう思うのであって、平成の今 日この頃では、やや大きめな男ということになろうか。いずれにせよ、『鬼の笛』の主人公は、作 者おかちゃん≠フ化身に違いない。おかちゃん≠フどの作品にも彼の願望、夢、欲望、などなどを感じ られるのは、付き合いが長いせいであろうか。

 いや、まったく創造、空想の産物で、『満員電車』の男のような痴漢願望や『テニスコートにて』 のような不倫、スワップ欲、更には、『乞食大学』 の男のようななりふりかまわぬ自由解放へのあこがれは本人とは無関係、あるとしてもほんのチョ ッビリと言われてしまうかも知れない。

 僕も若い頃は、放送劇などの芝居をいくつか書いた。小 林桂樹、左幸子、河内桃子、宮城まり子などはその頃の知己である。書いている内に桂樹さんの役 に自分を入れ込んだり、左朴全さんの滑稽さが自分のそれだったりしたことがあった。少なくとも 『乞食大学』の野原万平も、おかちゃん≠フ化身に違いない。

 それはそれとして、おかちゃん≠フドラ マには、酷い悪人は出てこない。悪人なり悪がドラマの単純アクセントであるなら、それを用いな い作劇はかなり難しいものになるであろう。おかちゃん≠フ短い戯曲はコミカル型式、その昔ムーラ ンなどが演じていた軽演劇に類するものである。中には漫才風なのもある。彼のマージャン友達の 劇作家が仲々世に出にくい現代、この出版のステップを踏み台に劇作家岡田晃吉としての大飛躍を 期待してやまない。
                (1998年5月)

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