郡上八幡城下寺めぐり


がんれんじさんもん
願蓮寺山門

がんれんじほんどう
願蓮寺本堂

さいしょうじさんもん
最勝寺山門

さいしょうじほんどう
最勝寺本堂

じおんぜんじさんもん
慈恩禅寺山門

じおんぜんじほんどう
慈恩禅寺本堂

へんしょうでんせきひ
遍照殿石碑

へんしょうでんほんどう
遍照殿本堂

ごちくいんさんどう
悟竹院参道

ごちくいんほんどう
悟竹院本堂

ぜんこうじさんもん
善光寺山門

ぜんこうじほんどう
善光寺本堂

あんにょうじさんもん
安養寺山門

あんにょうじほんどう
安養寺本堂

じょういんじさんもん
浄因寺山門

じょういんじほんどう
浄因寺本堂

ちょうきょうじさんもん
長敬寺山門

ちょうきょうじほんどう
長敬寺本堂

れんしょうじさんもん
蓮生寺山門

れんしょうじさんもん
蓮生寺本堂

だいじょうじさんもん
大乗寺山門

だいじょうじほんどう
大乗寺本堂

とうせんじさんどう
洞泉寺参道

とうせんじほんどう
洞泉寺本堂

ようりゅうじさんどう
楊柳寺参道

ようりゅうじほんどう
楊柳寺本堂

解説

願蓮寺
中世に東氏は山田庄地頭として来郡した。その家臣石神兵庫は八幡腰細村に居住した。蓮如上人が越前吉崎に滞在のとき、弟子となり、法名を正専と授けられた。明応三年(1494)に、願蓮寺を創立した。八幡城主遠藤慶隆により城下の現今の地へ移転した。

最勝寺
清和源氏の宗忠が親鸞聖人に帰依し、直弟となり法名専修を授かった後、関東の処々に布教し転々と移住した。九代目専宗以降、延徳元年(1489)に郡上郡に来て、市島村ついで川佐村へ移住した。十三代目専勝の寛永元年(1624)に、現今地へ移住した。また、大野最勝寺の末寺として創立されたという別伝もある。境内には山門・太鼓堂や鐘楼が青松の間に点在し、華やかな寺観である。

慈恩禅寺
慶長十一年(1606)、遠藤慶隆が開基となり、妙心寺円明国師を勧請しその高弟半山和尚を迎え釈迦如来を本尊として創建される。遠藤氏と金森氏等の遺跡や重文を所蔵し幽玄で豪壮な雰囲気の名称庭園は四季を通じて楽しめる。

遍照殿
愛宕の弘法堂として通称され、桜の名所である愛宕公園の一角にある。付近には円通閣(慈恩寺の飛地境内)がある。高野山の八幡支部として有志により建立された。

悟竹院
大永元年(1521)に謹甫ー公和尚が五町に開基。永禄十二年(1569)曹洞宗に改宗、福井心月寺七世才應惣芸和尚を開山に以降二十二代を数える。明治十二年(1881)秋葉総本殿可睡斎より秋葉三尺坊大権現分身を請し、郡上の火防守護所となる。昭和七年(1932)城山現在地に堂宇を移転合併する。境内に威徳堂、豊川堂、太子堂、地蔵堂等がある。

善光寺
長滝寺の持善坊で白鳥町長滝にあったが、明治三十年(1897)現在地に移転した。持善坊は、白山信仰の美濃馬場であった長滝寺の古い歴史を物語る僧坊である。京都鞍馬寺の分院となっている。境内の「およし」稲荷は八幡城築城悲劇の民話を今に伝える。

安養寺
康元元年(1256)近江佐々木氏が親鸞聖人の直弟となり、名を西信と改め、同国の蒲生郡に堂を建て安要寺とし、後美濃安八郡大榑村に転じ、第八世蓮如の命により安養寺と改めた。江戸時代城主井上氏の入部とともに八幡中坪へ移転した。明治十四年(1881)八幡城三の丸・大手芝野であった現今の地へ移転した。浄土真宗の布教の展開により、歴史を刻んだ巨刹は郡内随一の雄大な寺観を誇る。

浄因寺
安養寺の九世顕了の俗弟は分家して垣見氏を名乗り、浄因寺を建立した。代々安養寺の有力法中として同寺と共にあって活動した。

長敬寺
慶長六年(1601)に八幡領主遠藤慶隆は、東常縁の玄孫が出家して、正勧坊正欽と号し、飛騨の照蓮寺に留錫していると聞き、招請し当寺を創建して、菩提所となし、その影像を安置した。美並村乗性寺とともに郡上における東氏有縁・浄土真宗照蓮寺派の触頭の寺院として重きをなした。八幡城主遠藤慶隆の墓がある。

蓮生寺
往古は天台宗末寺であった。信長と本願寺の争いの時、初代存心は教如上人に帰依し浄土真宗になった。古い町並みに溶け込んだ寺観である。

大乗寺
越前朝倉家の清水三右衛門尉が、主家没落後、京都日蓮宗妙覚寺に随身しその後小駄良中桐村に法華坊として隠棲した。慶長八年(1603)に八幡領主遠藤慶隆は、現今の地へ堂舎を建立した。この地は中世の尾壺城跡であった。山門は享保四年(1804)諸堂再建の折りのものである。郡内総守護鬼子母神を祭祀した境内は質実素朴な構えである。

洞泉寺
天文年中(1532〜54)常行念仏堂があった。「寛文年間城下町絵図」には「利圓僧庵」と記されているのがそれである。八幡城主遠藤常友は岐阜の本誓寺然誉を開山とし、知恩院の末寺とした。その後宝暦九年(1759)に、宝暦騒動で改易となった金森氏にかわって、青山幸道が八幡へ入部すると、当寺は青山家の国元における菩提寺となされた。

楊柳寺
古代から中世にかけて五町には、伊田長者と称された豪族がいた。白山の十一面観音を信仰して堂宇を建立していたが、ある時兵火にかかり、焼失してしまった。その折りご本尊の観音を土中に埋め、印に柳を植えたという。時は移り江戸時代八幡城主遠藤常友は観音霊験をうけ、土中から観音を掘り出し中興した。金森頼錦も虚空蔵菩薩堂を整備し篇額を寄進した。懸崖作りの堂宇のある境内は奇観である。


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