7


薄墨色の雲が広がっている。
水分を含んだ熱風がゆるりと肌を掠めて、通りを歩く足取りは軽くも重くもない。
昼時の商店街。
その裏路地に人は少なく、閑散としている。
職場から歩いて五分の処に小さなパン屋があり、
僕はそこで昼食をとるのが日課になっていた。
信号を渡って、昔ながらの総菜屋の前を通り過ぎ、
靴の修理屋と文房具屋の前も過ぎて、とある古ビルの前にさしかかる。
一階の表に面した窓には「空テナント」の文字。ずっと前からそうだ。
そして
僕は足を止める。
商店街に特有の、縦に細長い作りである建物には外通路がついていた。
その入り口に矢印を印刷した小さな張り紙があるのを見つける。
瞬きをして、深呼吸をしてもう一度。
矢印はそこに確かにあり、僕は確認してからまた歩き出した。
昼食を済ませ、ビルの前に戻ってくる。
初めてこの矢印を見たのは一年前だった。

夏のある真昼
いつものように昼食を済ませ、通りを歩いていた僕は、
商店街の一角、古ビルの外通路に小さな矢印の張り紙を見つける
行きには気が付かなかった
指す先は通路の奥
隣接するのは同じようなビルで、通路に光はほとんど入らず、
真夏の強い外光に慣れた目には、一層薄暗く見えた
通路の突き当たりに扉があり、曇り硝子に切り取られた明るさだけが
ぼんやり浮かび上がる
引き寄せられるように足を踏み入れた
通路に面した表からは見えない扉があるけれど、明かりも人の気配もない
ただその隣にまた張り紙が一つ 
矢印とその下に「手作りアイスクリーム 営業中 この奥」の文字 
奥?
半信半疑のまま進み、やがて見えていた奥の扉に辿り着いた
通り抜け用と思われた扉のすぐ脇に、立て看板があるのを発見する
ここまで来ないと気が付かない看板だ
「Icecream-Garden OPEN」
なんの変哲もないアルミサッシの扉
僕は多少ためらいながら、ノブに手をかけ扉を開ける
風が吹いたような気がして、すると確かにそこは外だったが、
向こう側の路ではなく小さな「庭」だった

「お久しぶりですね」
入ってきた僕を見て、彼女はそう言った。
建物と建物の間にある小さな中庭を抜けた、大きな硝子のはめ込まれた木の引き戸。
その内側の静かな室内。
木の床板と白い壁。
二人掛けのテーブルが一つ。
そして鎮座する硝子のショーケース。
向こう側に彼女。
「…お久しぶりです。お店、また始められたんですね」
「ええ、夏が来ましたので」
ケース横のカウンターをはねあげて、舖へ出てくる。
白いワンピースに濃紺のサロン姿。
同時に空気が動いて、甘い香りが漂った。
透き通るような、水分を含んだ馴染みのある香り。
「桃の香り、」
「え、ああ、今桃のシャーベットを作りました。召し上がります、」
「いただきます」
「じゃあ、座ってお待ちください」
「はい、あ、外に」
「外でよろしいですか、」
眺める先には硝子越しの中庭。
良く手入れされた芝生と樹木。
隣の建物の具合で、庭の半分だけに光が差し込んでいる。
陽ざしを浴びて、イロハモミジの緑とオリーブの銀色の葉が鮮やかに揺れた。
袂の白い水盤には水が流れ込み、周りに植えられた初雪カズラの
ピンクと白がアイビーの濃い緑の中で映える。
落ちた影はそれらの上を優雅に動いて濃紺の模様を描く。
カラミンサの茂み。
一年前と変わらない景色だ。
「では外に居ます」
僕は引き戸を超えて、再び小さな楽園に足を踏み入れた。
白い帆布のパラソルが作る影の中に、簡易テーブルと椅子が二脚。
足元にサーキュレーター。
見上げると夏空が青く高い。
斜め掛けしていたバッグを外して、向かい側の席に置く。
水の音のせいか、幾分涼しく感じられる。置かれていたうちわを手に取った。
しばらく待つと、彼女がトレーを手に外へ出てきた。
「お待たせしました、桃のシャーベットになります」
「ありがとうございます」
彼女は冷えた硝子の器をテーブルに置くと微笑む。
「お飲物、何になさいますか、」
「ええと、ではアイスティーを」
「少しお待ちください」
そして目の前に残ったのは、美しく麗しいデザート。
桃の角切りが散らばる中に、桃のシャーベットと
桃のソースを添えたヨーグルトのアイスが並んでいる。
ウエハースですくって一口食べると、瑞々しい甘さが口に広がった。
良く冷やされた銀のスプーンを手にして、ゆっくりと味わう。
薄荷のキャンドルの香りが時折サーキュレータの風にのって
流れてきて、鼻先をかすめていった。
アルミサッシの扉から舖の引き戸まで、白い玉砂利の小路が繋いでおり、
彼女がそこを歩くとしゃりしゃりと音がする。
「お待たせしました、アイスティーです」
「…美味しいです、とても」
「ありがとうございます」
「今日は店主はお休みですか、」
去年通っていた頃、大抵彼女の隣には店主である彼女の祖父が立っていた。
「あ、…祖父はなくなりました、冬に」
「…それは、…そうですか、残念です…」
「ええ…」
「…では、おひとりでここを、」
「はい、当初からそういう約束でしたので、祖父の後を継ぐという」
「そうだったんですね、そうですか…」
カラン、とアイスティーの氷が解けて音を立てる。
そのまま僕は何も言えず、
それ以上語らない彼女の視線の先にある夏空を追いかけるように見上げた。
鳥が横切ってゆく。

「ごちそうさまでした」
トレーを持って僕は再び店内へ足を踏み入れた。
彼女がカウンター越しに手を伸ばして僕からトレーを受け取る。
「また来ます」
僕の言葉に微笑んで、お待ちしています、と答えた。
「あの、」
「はい」
「…いえ、また、来ます」
「ええ、いらしてください」
僕はそして再び薄暗い通路を通って外界へ戻る。
言いかけた言葉を止めたのは大人の分別というものなのか、自分でもよく分からない。
1人で立つ彼女が少しさびしそうに見えたというのは、僕の勝手な想像なのだ。
けれども。
立ち止まって、あのアルミサッシの扉を見つめる。
この夏も、あの扉を何度くぐるだろう。
涼を求めて。
そして、それから……。

2013.9.3