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机上の小さな水盤に腕時計が置いてある。
秒針はすべるように動き、電波を傍受して正確に時を知らせるが、
水面はかすかな振動にも揺らいで文字盤を曖昧にした。
僕は睨んでいた画面を押しやって椅子に背中を預ける。
どれほど言葉を織り重ねても、「心」には近付けない。
文字を連ねるほど「想い」から遠ざかっていく気がする。
それならばいっそ、と押し込めておく勇気があればいいものを、
臆病な僕は、抱えたままではいられなくて、必死に単語を吐き出していた。
不思議なもので、どうでもいい声はよく通る。
通って跳ね返って僕にぶつかって床に落ちる。
足元には丸めた原稿のごとく、くしゃくしゃになった語彙が積み重なっていた。
そもそも床があったのかも疑わしい。
頭を振って、部屋を出た。
降り出しそうなグレースケールの天。地上には水色の紫陽花。
淡々と歩く視界の隅に鮮やかに映り込む。
新緑を茂らせる街路樹の下をしばらく歩いて小さな珈琲屋へ。
カウンターの端、緑を望む窓際に座り、いつもと同じアイスオ・レを注文する。
砕いた氷の隙間を漆黒の液体で満たし、
ゆるく泡立てたクリームを浮かべてあるものだ。
無造作にストローをくわえ、ふと後に残る清涼感に首をかしげると、
今日はミントクリームなのです、と店主。
梅雨ですし、すこしすっきりと
いいですね
再び沈黙。
風が窓から入ってきて、吊るされたオブジェが玲瓏な音を立てる。
暑くも寒くもない。
背後で誰かがドアを開けて出てゆく音。
本も端末機械も持たず、手持ち無沙汰な僕。
仕方がないので、飽和した頭からはみ出している単語を
ひとつひとつ引っ張り出して、アイスオ・レの隣へ並べてゆく。
店主は豆を挽き、新たに珈琲を淹れる。
やがて香りが店内を回遊しはじめ、カウンターの言葉たちが後を追って泳ぎだした。
しばらく眺めてから、また溜息をついたところで店主が微笑んだ。
煮詰まってます、
…そう、ですね …言葉を尽くしても、心にはどうあがいても近づかないってことは
分かっているつもりなんですけど
言葉にした時点で、それはただの単語でしかないですからね
単語は共用のものだから、固有の感情を表すツールとして不向きなんです、厳密に言うと
でも、他者の共感を得るには共通のものを使うしかない
…僕よりもずっと物書き的な思考ですね
上辺だけならば幾らでも云えますから
言葉はやがて、湯気の立つ淹れたての珈琲が入ったカップに
しぶきをあげることもなく静かに飛び込んでゆく。
空になったアイスオ・レのグラスは下げられ、
代わりにその華奢な持ち手のカップが目の前に置かれた。
距離を知り、誠実に悩んで言葉を探す人の文章は心に宿ります
……
楽しみにしています、今君が悩んでいるその文章を読むのを
美しく慎ましい笑顔に、僕は首をすくめてカップを手にした。


店を後にする。
見上げた灰色の空からは、雫が一粒落ちてきた。
紫陽花は雨の気配を察知して、より艶やかさを増している。
立ち止まって目を閉じた。
くしゃくしゃに放り投げた言葉の中に手を突っ込んで、いくつかを掴み取る。
仕方ない、遠回りして最後に「心」になればいいだろう。
書きかけの物語をフィルムのように頭の中で再生しながら
僕は言葉を一つずつ繋げて歩き出した。

2013.7.20