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八十八夜の夜。
昼間の気温は夏のように高く、日没後も開け放した窓からは温い風が吹いてくる。
アパートメントの道向かいに建つ図書館公園の芝生を昼間に刈っていたせいだろう。
風の匂いは青々しく、草色に染まっているかのよう。
今夜は頼まれているシャツの刺繍に取りかかる予定だ。
三軒隣の仕立屋からまわってきた仕事で、レーヨンのつるりとした白に色を刺してほしいというものだった。
普段は図案を見せたうえで希望を聞き相談しながら決めるのだが、今回は全てお任せしますと云われている。
一路君の好いように刺してくれていいよ
と渡されたシャツの滑らかな感触に思わず
このままのほうがいいんじゃないでしょうか
と返した。
仕立屋のスタッフはその言葉に笑って、頼むよと甘いワインを添えて帰っていった。
まだ宵の口だが、よく冷えた戴き物のワインをグラスに注ぎ、では、と早速机に向かう。
闇にまぎれて草の匂いは増していく。
ノートに描く図案はつるを伸ばし、葉を茂らせ螺旋を描く。
足元の床板はいつのまにかに短く刈られた芝になり、これはとスリッパを脱いで素足をその上に乗せる。
ちくちくと心地よい刺激に気分を良くして螺旋はするすると伸びていく。図案を書き終えたところで、糸を選ぶために立ち上がった。
床はいつもの、飴色に光る無垢板に戻っている。
糸の見本箱の前に立ち、緑色の引き出しを引き抜いて机に並べた。
新緑を思わせる緑を七色。
少しくすんだものから明るいものまで。
そこに真っ白な糸も加える。
遠目には見えないが、身に着けた人と、それを間近に見る人だけが分かる陰影を添えてくれるのだ。
白いシャツの上に色を乗せてみる。三十代の女性が身に着けるもの、とだけ聞いた。
すっきりとした仕立てでありながら、背中には少しダーツが入り、しなやかに体に添うようにできている。
ジーンズにもスカートにも合うだろう。シンプルで上質なものをわざわざ仕立てる人なのだから
(世の中には良くも悪くも本当に雑多な既製品の服があるのだ)、自分で選び抜いた服だけを身に着ける人に違いない。
まるでこれを届けに来た仕立屋のスタッフであり店主の妹の、香哉さんのようだ―彼女は多分そういう人だ―。
図案を写し、まず一色の糸を選ぶ。手に取り、最初の一針をゆっくり生地に刺してゆく。


三日後、立夏の夕刻。
刺繍が仕上がった。
襟元に落ちた一滴の緑は濃さや色合いを少しずつ変えながら肩を通り背中へ回って反対側の襟へ辿り着く。
はらり風に舞った葉が裾に少し。白い小鳥と波を緑陰の中に潜ませた。
連絡を受けた香哉さんが受け取りにやってくる。
テーブルに広げたシャツを何も云わずにしばらく眺めて、やがて静かに微笑んだ。
好いですね、とても一路君らしい
喜んでもらえるでしょうか
もちろん……着たところ、見せましょうか、
今、ここで?
そう
……いいですよ
香哉さんに背を向け窓辺に行くと、細く開けておいた窓を開け放った。
薄いカーテンが大きく翻る。僕の部屋は五階にあるので、風がよく通るのだ。
今日も一日暖かかった。
もう芝生の濃い香りはしないけれど、湿気を帯びた夏の気配のする空気が頬を掠めてゆく。
どうぞ
振り向くと緑を宿したシャツをしっとり着こなした彼女が立っていた。
お似合いです …僕が言うのもおこがましいですが
……私が着ると分かっていたの?
ええ、なんとなく、そんな気がしていました
勘がいいのね
そうなんでしょうか
とても好いシャツになった
笑う香哉さんを見て僕も微笑む。彼女は部屋にある姿見の前に立った。
一度一路くんの刺繍をしたシャツを着てみたかったの
ありがとうございます
さて、お代をはらわなきゃ 三日分の労働代
……それじゃあ、これから一緒に出掛けてくれませんか?
香哉さんが振り向く。ベージュのスカートが揺れた。
それ、お代になるの?
そうですね、むしろ代金に替えるにはとても贅沢なことです、僕にとって
…一路君って、面白い
彼女はバッグに着てきたシャツを入れて肩にかける。
僕は淡い水色のシャツ―これも実は香哉さんが仕立てたものだ―の上に薄いカーディガンを羽織る。
では、参りましょうか
僕たちは連れだってドアを開け、初夏の夜に螺旋階段をゆっくりと降り始めた。