LosT wiNTer

room 1

―失われた冬の物語―


小さな町の図書館の裏。
舗道を挟んだ向こう側に古いアパートメントが建っている。
建設当時は小洒落た造りで高かったであろう家賃も、月日の流れと老朽化ですっかり安くなった。
だからこんな僕でも住むことができる。
僕は図書館に勤めていて、来年の春に三十歳になる。

仕事を終えて、金木犀の垣根に沿って帰路につく。姿はしとやかで奥ゆかしいのに、時折むせ返るほどの官能的な香りを漂わせる、あの橙色の小さな花たち。
今日は、同じ図書館に勤める海棠さんから、「もらいものなんだけど、良かったら飲まないかな、」と赤ワインを戴いた。海棠さんはワインが飲めないそうだ。僕はアパートの階段を五階までのぼり、薄暗い部屋へと入る。
ささやかな1DK。年月を経た床板や窓枠が好きだ。トレンチコートを着たままワインをキッチンに置き、オイルヒーターのスイッチを入れて再び部屋を後にする。
カンカン、と鉄製の螺旋階段を一階まで降りて、歩いて五分の食料雑貨屋へ向かった。
今夜はグロッグを作ろう。
その店はおばあさんが営んでいて、スパイスや変わった惣菜が処狭しと並んでいる。僕は「こんばんは」と、ストーブにあたっているおばあさんに声をかけてスパイスの並ぶ戸棚の前へ立つ。
オレンジピール・アニス・カルダモン・レーズン・シナモンスティック・クローブ
一つ一つが、特有の香りで僕を包む。 手順を考えながらおばあさんの元へそれらを持っていくと、いつの間にか彼女の前の円卓には珈琲が二つ置いてあった。
「飲んでおいき」
「ありがとうございます」
僕はそっと向かいの椅子に腰掛けた。おばあさんは僕のスパイスを勘定しながら眼鏡越しにこちらを見る。
「今日は何だい、」
「グロッグを作ろうと思いまして。赤ワインを戴いたから」
「そうかい、それじゃあね、砂糖はね先にカラメルを作ってそこにワインを入れるんだよ」
「そうなんですか。じゃあそうしてみます。上手くできたら持ってきますね」
「楽しみにしてるよ。そうだ、今日はね、鶏肉のチョコレートソース添えがあるんだ」
「チョコレートソースですか。戴いていっていいですか、」
「幾つ持っていくかい、」
「では、二つほど」
スパイスを小さな瓶に詰めて、おばあさんは保温ショーケースに手を伸ばす。
白いバットに綺麗に並んだ肉を琺瑯の容器に二切れ移し、冷蔵庫から取り出したチョコレートのソースをかけると蓋をして僕へ手渡した。
お金を払って店を出ると、空には少し太った月がまろやかに光っている。
来た道を辿り、部屋へ戻ると暖房が効いて少し暖かくなっていた。トレンチコートをクローゼットに片付けて僕はキッチンに立つ。スパイスを取り出し、琺瑯容器をオイルヒーターの上に載せる。これで少しは冷めるのを防げるだろう。
銅鍋に砂糖を入れて、弱火でカラメルを作る。白いさらさらした甘さが、ほろ苦い琥珀色に変わるその瞬間、コルクを抜いておいた赤ワインを静かに鍋に注ぎ込む。カラメルとワインの香りが、淡い照明に包まれた部屋に流れ込んでいく。ゆっくりと、固まったカラメルを溶かすように混ぜる。合間にレコードに針を落としてお気に入りの曲をかけ、再び鍋に戻る。カラメルが溶けたのを見て、買ってきたスパイスと切ったりんご、オレンジを静かに浮かべた。全ての材料が一つに溶け込んでゆく様子を見るのが僕は好きだ。

思えば、夏以外、ほとんど僕は煮込み料理を作っている。異質なものがスープを媒体にして一つの味を作り上げる。その工程に安心するのだ。
僕は自分を異質なものだと思っている。他の誰もが自分のことをそう思うように。そして、いつでも何かと溶け合って自分をまろやかな「誰か」にしたいと思っている。…それが、叶わないことだと知っていても。それは僕の胸にひっそりと在り続ける願望だ。

鍋の火を弱め、グロッグの隣で温めていたミルクでカフェオレを作り、僕は窓辺のオイルヒーターの前に立った。部屋はコンロの火とヒーターでだいぶ暖かい。カーテンを開けると、図書館に茂る木々のシルエットが闇に浮かびあがる。
「今夜は冷えるね」
そっと呟いて霜降り模様のカップに口をつけた。いつの間にかにレコードは止まっていて、風が窓をたたく音がリズムのように響く。「まるで、この世界に僕と君しかいないように…静かだ」
君、と言ってしまって僕は少しはっとする。レコードを裏返してグロッグの火を止めて、耐熱硝子のコップに注いだ。パンと鶏肉を温め、今朝作ったサラダを円卓に出す。
静かな晩餐だ。
カラメルとスパイス、チョコレート、晩秋の色合い。
アーガイル柄のベスト。
君の好きだったものだ。
闇もレコードも、この部屋も。
君が愛したものばかりだ。
この、僕も。

いつから一人なのだろう、いつまで一人なのだろう。
それとも、はじめから一人だったのだろうか。それならばどうして「一人」がこんなにもメランコリックなのだろう。

君の好きなもの達に囲まれて、僕はまた冬を迎える。