田無神社の成り立ち 青梅回街道沿いに鎮座する田無神社。近世後期には谷戸の宮山に鎮座し、田無村の鎮守として崇敬されていた尉殿権現社(じょうどのごんげんしゃ)が、現在の地に遷宮されたのがそのはじまりといわれてます。 伝承によれば、正応年間(1288〜1298 年)に田無村旧字谷戸の宮山に鎮座していた尉殿権現社が1646年(正保3年)または1670年(寛文10 年)に現在の地に遷宮されたという説。1600年はじめころ、旧上保谷村谷戸の宮山に創建された古尉殿権現が1622年(元和8年)に移され、さらに1646年(正保3年)に田無村に分祀されたという説。上保谷村元禄の頃移ったという説、など複数の説がありその経緯は未だ確定的ではありません。 遷宮後の1857 年(安政4年)7月に下田兵半衛が願主、村役人が世話役となり『鎮守本社』の再建が提案され、翌1858 年(安政5年)10 月より普請が開始。1864年(元治元年)に完成したことは、田無神社に所蔵されている史料によって明らかになっています。 田無神社への改称 尉殿権現社と呼ばれていた頃は西光寺(現総持寺)の住職により管理されていたが1868年(明治元年)新政府の神仏混淆(しんぶつこんこう)禁止令により西光寺の管理下から分離され、1872年(明治5年)に田無神社へと 社号改称されました。 また、神社合併政策のもと、上宿の八幡神社,北芝久保の稲荷神社,谷戸の熊野神社,上向台の八幡神社,下向台の八坂神社が合祀されるようになったということです(下宿の津島神社を始めとした,野分稲荷神社,煩大人神社の3社は境内神社として既に合祀されていました)。
田無神社入口の 一の鳥居をくぐり石段を上ると、木々に囲まれた参道の向こうに、二の鳥居そして田無神社本殿がある
静かなたたずまいの境内に立つと、この神社を崇敬していた往時の人達の気持ちが、なんとはなしに分かるような気がします。 日がな一日、境内のベンチに座ってゆるりと過ごすのも一興です。 何かと世知がらい世の中だからこそ古き良きものに触れることが大切では無いかと思う今日この頃