サーファー列伝歴史上に定義されたサーファーの文化とヒーロー達 By Malcolm Gault-Williams THIS PAGE UPDATED: Monday, 14 October 2002 翻訳:杉原 直彦 翻訳日:2003年1月4日 |
サーフィンの起源
1巻、1章、1版
アローハー、そしてようこそ第1章へ LEGENDARY
SURFERS.
「サーファの起源」はインターネット上にてサーファーの古代歴史について最も詳細に渡った情報である。お楽しみ下さい。 Painting courtesy Kane. |
内容:
サーフィンは地球上で最も歴史が古く未だに継続しているスポーツである。波に乗る技術、それ自体が現在与えられた環境の中での繊細性とスポーツが交わる事である。ユニークな事に、サーフィンはそれが文化を築き挙げた数少ないスポーツである。サーファーで無い人やサーファー初心者はサーフィンの起源に対する質問を主に次の2つに分けるようだ。いつ最初のサーフボード
が乗られたのか? そして、だれが最初のサーファーか? もう少しサーフィンに関わったものなら、もう少し用語を加えるかもしれない。 最初のストークはいつ?ハワイ語でそれはホププというが、意味は同じだ。それはハイな人生の事。特に波に乗っているときの。
板に乗って大洋のうねりの力を捕まえる。それは西ポリネシアの3〜4千年前に起源を発する。最初のサーファーはポリネシア人で、木の板に太平洋で立ち上がり始めたのが、BC1500年からAD400年の間とされる。その期間中のどこかで恐らく初期の頃に最初のサーフにストークしたサーファーがサーフ文化を初め、それが今日のサーファー文化に引き継がれている。
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サーフィンは最初にポリネシアを起源として発達した。「海が我が家」と言われる文化の一端としてだ。一番最初のサーフィンを実践したのは究極の海の旅人といわれる人類であった。サーフィンはそれ自体がポリネシア人種が移住をし始めた時に出現している。
ポリネシア人の祖先はコーカサス人の分枝で、西からマレイ群島にたどり着いた人達と考えられている。現在は正確にはインドネシアとして知られている地域にいる間に、彼らは南の地域に広がっていたマレイのモンゴル系祖先とコンタクトを取った。多くの交わりがあり、未知の自然との相当な戦いがあった。その戦いの結果、引き続きコーカサスとモンゴロイドの人が交わった人々はさらに東の太平洋へと押し出された。その交配した人々がポリネシア人種になったとされる。それは小さな混交人口から始まり、識別できる人種と文化の特徴が2000 B.C. 〜1500 B.C.頃までに形成されてと考えられる。
地球上ではどこでも、この時代は、ハムラビがバビロンを支配し、彼が有名なハムラビ法典を制定した時である。ストーンヘンジはイギリスにて宗教的崇拝の中心であった。「死者の書」にてエジプト18代王朝の宗教的資料が編纂され、最初の墓が王の谷に築かれた。発展した船の建造はまだなされていなかった。地中海とスカンジナビアにおいては。
ポリネシア人先祖は舷外材と2艘式カヌーを発達させて船舶の知識を深めていった。それが海上の旅をより拡張する事となった。インドネシアの大きな島々を旅しながら、彼らは必要な知識を蓄え、後の世代が広大な太平洋の遠い島々まで広がる事となった。
ポリネシア人先祖の最初の東方への移住は大人数でも、一時期のみでもなかった。代わりに少数にて、背後からのプレッシャーを感じながら。東方へ船出して、ばらばらにマレイ群島に東の島々にたどり着いたとされる。現在そこはメラネシアと呼ばれる地域である。
陶磁器の飾りのように明確に押された模様をラピタと呼ぶが、ニューカレドニアが最初に発見された後の軌跡を、考古学者が初期の洋上旅人の移住をトレースした。跡はビスマルク群島から始まった。場所はニューギニアの北東。そこから東にメラネシアを通って西ポリネシアへ。彼らはフィジー、トンガ、サモアへ1500 B.C. 〜 1000 B.C.にたどり着いたとされる。
古代のポリネシアの文化、言語、肉体のタイプは全てフィジー、トンガ、サモア群島近辺にて発達した。この地域に到達した後、洋上移住者は今までのラピタ模様のルート離れ西の島々とのコンタクトを失ってしまったようである。恐らく数千年の月日によって彼らは新たな環境からの資源を元に独自の文化を発達させたのだろう。
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移住の第二波は300 B.C.ころに始まり、300 A.D.頃まで続いた。探検は次のものも一緒に携えられた。食物の苗、家畜、船舶職人、そして男も女もフィジー、トンガ、サモアの地域から東のヒバへ、現在のマルケサス諸島である。このポリネシア人達は単に3000キロもの洋上を旅しただけでなく、風と太平洋の海流を克服する事が出来たのだ。
もし私たちが当時のポリネシア人先駆者であったなら、どのようであるべきなのだろうか。ジェームス・ミッチェナーはフィクション小説である彼の1938年のクラシック、「朝日の昇るバイキング意」シリーズ内の最初の章「ハワイとテ・ランギ・ヒロア」にてその事を書いている。 私たちは今でも各段階や世代から見取る事が出来る。ポリネシア人はそのユニークな能力と勇気によって、洋上の旅人に発達したのだ。
彼らの2艘式航海カヌーは海の専門化が頼るような海や空の観察無しに操縦された。伝統的な知識、自然の図柄によってである。それヒントに島々の位置と方向を見つけたのだ。カヌーの船体は木の幹から手斧により掘り出された。またはココナッツ繊維を編んだ縄をつかって厚板を縫い合わせた。割れ目や縫い目はココナッツの繊維とパンノキなどの樹液で目止めされた。舷外材は単船につけられ、洋上での安定性を出した。2艘式の場合は梁で繋ぎ合わされ、デッキがその上に作られ、長距離の船旅に使われた。
旅は容易ではなかった。荒海では常に浸水や転覆の危険があった。または帆が破れたり、マストやブームが強風で折れたりなど。船体を見えない岩礁にぶつけるの危険が常に付きまとった。または、デッキ上は草や葉っぱで屋根がかけられたが、旅行者は頻繁に風や雨や日照に曝され、身を守るものといえば、葉っぱの帽子や樹皮の衣服などであった。海の上での嵐の夜はたとえ熱帯でも凍えるような寒さだった。もし長旅で水、食料が少なくなり、魚も取れず雨もないと残るは飢えに苦しむしかなかった。
ナビゲーションの手助けとして、彼らは暦に沿った月や、年間サイクルによるプレアディース(昴)なとを読んだ。彼らは西向きの風のシーズンや、安定して吹く貿易風の季節を知っていた。また台風の季節も知っていたので、危険な時期と航海に幸運の果実が実のいるであろう時期を区別できた。しかしもっと重要な事は星や月や銀河から天国の場所を読む事であった。そしてマゼラン雲までが洋上航海に役立てられた。
背後からのプレッシャーがどんなものであったにせよ、その圧力あるいは動機は素晴らしいものであった。なぜならポリネシア人は伴侶を連れて行ったからだ。そのため、この段階をおいて西ポリネシア諸島は発見され移住が進んでいった。恐らく権力抗争がグループを小さく分裂させ、恐らくカヌー1隻でさえ、東への更なる拡張がなされたのだろう。理由はともあれ、間に入る島々や社会の中心である島々、そして若干南の島も人が移住していった。
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移住の第3段階 -- 何が「長い船旅」と言われてきたのか? -- 300 A.D.〜 1000 A.D.にかけて。 この第3の局面はポリネシア人の口述伝統の中で最も主流を占めるものである。 -- 特にハワイにおいては。この長い船旅は前の世代や先祖の限定的な船旅とは違って、明らかに真の冒険魂から来たものだった。最初の居住地で感じたプレッシャーからではない。船旅は中央ポリネシアからアリーイ(酋長)達によって組織された探検であった。熟練した僧侶を船崎案内に用いて。この期間中、彼らは未開の島々を発見し、また初期のポリネシア人が既に定住していた島々を再発見する事となった。
殆どの間、旅人は中央ポリネシアへ戻り、彼らの発見を話しただけでなく、新たに到達できそうな土地の方向も伝えた。長旅人は最初の旅では女性や食物の苗を持っていかなかったが、引き続いた旅では、耕作できそうな植物と家族全員を引き連れた。ココナッツ、タロイモ、ヤム、サツマイモはポリネシア人によって、主にこの時期に広がった。この3番目で最後の移動-太平洋の移住はポリネシア人が彼らの起源をヒバ(マルケサス諸島)に据えた直後から始まった。300 A.D.頃のマルケサスから始まった。東ポリネシアの移住は次の数百年で実にすばやく行われた。移住の為の探検は時々行われた。そして そのコースはイースター島、タヒチ、ハワイへ伸びることとなった。最近の考古学的発見では、最初のカヌーがヒバからハワイに到着したのが400 A.D.頃であると推定されている。
アブラハム・フォーナンダーによって記録されたハワイの口述伝説、「ポリネシア人、その起源と移住」によれば、ハワイ諸島を最初に発見したポリネシア人旅人はハワイロアという名前だったという。彼の伝説と血筋は最も有力な事実であると受け止められている。しかし次の2つの伝説もまた言い伝えられている。一つはタヒチ人で、もう一つはニュージーランドからのマオリ人である。
だれが最初であったにせよ、それは第3段階移住の最後の頃であったようだ。タヒチが更なるハワイ、クック諸島、ニュージーランドへの探検のベースとなる。800 A.D.,頃までには全ての東太平洋の人が住む島々は既に発見され、占領されていた。その中のいくつかの島はとても小さく、大変離れていた。
この時期までで、地球上の別の地域では、偉大な洋上探検でアイルランド人が、アイスランドに到達し、バイキングがノルウェーとアイスランド間のフェロー諸島を発見している。厳しい北海の環境にての、これらの船員の発見は比較的地味である。広大な太平洋中に広まったポリネシア人の移住に比べると。
ライアテアとタヒチ諸島は後に普及の中心的存在となった。古代においてのライアテアの名前はハワイキである。ならば論理的にこの地域が殆どの長旅のスタート地点となる。最後の移住時期に続き、他の偉大な発見はポリネシア人旅人のクペによってされた。彼はハワイからハワイキへ航海した。しかし発見したものは「濃霧の土地」、続いてアウテアロア(長くて白い雲)であった。この土地は今日のニュージーランドである。それから世代が続き、クペの発見は950 A.D.辺りとされる。
マオリの次の有名な歌は歓迎の歌だが、太平洋でのカヌーの重要性を歌っている。
Toia mai, te waka!
こっちへ来いよ、カヌー!
Kumea mai, te waka!
こっちで止まれよ、カヌー!
Ki te urunga, te waka!
お前の枕はここだぞ、カヌー!
Ki te moenga, te waka!
ベッドもあるぞ、カヌー!
Ki te takotoranga i takoto ai te waka.
休息の場所で休んでおいで、カヌー
Haere mai, haere mai.
ようこそ、も一度ようこそ
人類学者のケニーP・エモーリーの唱えたところによれば、ポリネシア人が太平洋を旅して回っていたその時に、英国では丁度キリスト教洗礼と文明化が始まっていた。それは集団的芸当であり、人類の偉大な業績として歴史に留めなければならないだろう。そしてそこには人々のドラマがあったはずだ。1000 A.D., までの最後の長い旅には。バイキングのリーフ・エリクソンがスカンジナビアから北アメリカに旅し、火薬が中国で発明されたのもその時である。
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サーファーの起源
太平洋の波に乗る行為は、海人達が、アウトリガーや、2艘式カヌーから海の真ん中で波に乗る事から始まった。サーフィンの幹は航海をベースとした文化で、伝説満載の歴史では、驚異的な水男が否定される事なく登場する。最初のサーファーは水男で、まず巧みにアウトリガーや、2艘式カヌーを操る事がただの厚板に乗る前に注目された。恐らく間違いないことは、この島の漁師が波をより楽しむ方法を考え付いたのだろう。最も早い方法として波を使って珊瑚礁帯からカヌーをビーチまで引き出した時に。まだはっきり定義できない段階で、波を捕まえる事は、毎日の労働の技術から、スポーツへと発達したのだろう。労働の代わりの楽しみとして。この変化がサーフィンの革命である。
「何千年もの間」 1960年代のサーフィンチャンピオン フレッド・ヘミングスは書いた。「世界中で、偉大な大洋に面する地域の生活と発展は、自然の波を人間に敵対するものとして捉えてきた。そこで人々は困難だけを見ていたからだ。しかし、ポリネシア人はその中に楽しみを見出したんだ。
しかしサーファーの態度というものは、太平洋の旅人や船乗りや漁師とは同じではなかっただろう。1960年代に世界サーフィンチャンピオンのマイク・ドイリーが彼の自叙伝「朝のグラス」の中で指摘した事は、「水男(ウォーターマン)の伝統はポリネシアから来ている。そしてそれは水夫(セーラー)の伝統とは異なっている。水男の技術はサーフィン、パドリング、ローイング、荒海での水泳を含んでいる。また恐らくダイビング、釣り、銛つき、二人乗りサーフィン、人命救助、アウトリガーカヌーの操縦なども。しかし彼はセーリングや航行の技術は必要不可欠ではなかった。 違いは、水男が海岸線の水に焦点を当てていたことだ。他方で水夫の領域は深海である。サーフィン初期の書物を読んで、私は学んだ。私の前の水男達はただ単にダイビングショップやサーフショップへ行き、最新のグッズを棚から買うという事はしなかった。彼らは自分のボードをデザインし、彼ら自身のダイビング用具を持ち、彼ら自身のアウトリガーカヌーを持っていた。彼らは常に考え実験して他の水男たちと一緒に用具を完全なものにしようと努力していた。誰もどうやってサーフボードがデザインされるのを知らなかった。唯一の方法は、実際に試してみて効果があるものと無いものを見つけ出す事だけだった。」
残念な事に、「ウェーブ スライディング」 a.k.a. サーフィン -- 古代ハワイ語ではヘイナル -- の始まりを正確にトレースする事は出来ない。どのようにして幼年期を発達させたのかは推測の域を出ない。しかし希望としては将来の太平洋の考古学的研究がいくつかの回答を出すだろうという事だ。その間は、私たちが知りえる初期のサーフィンは1700年代にポリネシアに最初に上陸したヨーロッパ人の記録に頼る事になる。数百年に渡る長い旅がそこで終わったのだ。
タヒチにおける最初のポリネシア人とヨーロッパ人との接触は1777年だった。 -- 英航海士ジェームス・クック船長が、タヒチ人がどのようにして娯楽のためにアウトリガーカヌーで波を捉えるかを紹介している。「マタビポイントに散歩に行くと、そこで我らのテントが設営されていた。私は男が小さなカヌーですばやくパドルしたかと思うと、熱心に両側を見ている。それに見とれていると、彼は岸からうねりが上がる場所まで出て行き、その最初の動きを注意深く観察している。その前でとてもすばやくパドルして、それが彼を見下ろすようになると彼は下に潜ってやり過ごすことなく、カヌーを動かすのに十分な力を得て、瞬時に座ったかと思うと、波と同じ速さで運ばれていく。それが浜辺に上陸するまで。そしてまたスタートして、カヌーを空にして、別のうねりを探す。 私はどう結論付けたらよいか分からないが、この男は最高の楽しみを其れほど速くスムースに海の上を動く事に感じているようであった。」
サーフライディングの引用は伝統的なポリネシア人のメレ(歌)の中に広がった。魔法や口述伝承歴史は歌によって語り継がれた。長い船旅の終わり頃までにはサーフィンはポリネシア人にとって最も広まったスポーツの一つとなった。ヒエナルはここからあちらへと、太平洋全域に広まった。ニュージーランドからハワイ、そしてラパヌイ(イースター島)からニューギニアへと。ボードサーフィンはポリネシア三角地帯で最も栄えた。ハワイ、ラパヌイ、アオテアロア(ニュージーランド)の間である。西ポリネシア、メラネシア、ミクロネシアでは、ボードサーフィンのようなサーフスポーツは主に子供達の遊びだった。通常は男子だけ。それに引き換え、東ポリネシアの最も主要な島々では、サーフィンは男女の全ての年齢層のスポーツとなった。ボードスキルの震央はハワイである。そこでヘイナルは高度な表現へと発達した。
面白い事に、他の事と同じで、サーフィンはシンプルに始まり、どんどん複雑になった。ハワイのサーフィンの起源の発展はおよそこんな感じである。
1) ベーシックなカヌーサーフィンからシンプルなボディサーフィンへ。ハワイ語ではヘエウマウマ。
2) それから原始的なサーフィンの形に。主に子供の遊びとしての小さなボディボード。それは太平洋中に広まった。現在のボディボード、或いはブギーボードといわれるスポーツは、数千年の歴史、恐らくポリネシア人の太平洋の島々への移住と同じ位の歴史がある。
3) ボディボードから、東ポリネシアでは大きなボードに乗る大人のスポーツが広がる。
4) その後はサーフィンはハワイで最高点に達し、崇高な表現を得る事となった。
様々なサーフ歴史家 -- 例えば1900年代初期の先駆者 トム・ブレーク, ベン・フェニー博士、ジェームス・ヒューストン レオナルド・ルエラス -- 全てが気づいていた。サーフィンと同様のスポーツが中央西部のアフリカとペルーにて行われていた事を。
西アフリカの沖にて「セネガル地域、イヴォーリー海岸とガーナ、ダカールの近くのセネガル。」フェニーとヒューストンは書いた。「...アフリカの若者と若い漁師が、普通はボディサーフ、またはボディボードに乗り波をキャッチし板の上に垂直に立つ。板長はおよそ6フィート。この競技的な技能は全く太平洋とは関連していないように思われる。歴史上も、歴史のするされる前でさえも。証拠としてそれは西アフリカの古い余暇であったとされる。若いアフリカ人が軽い木の板にプローンで乗る事が1838年に確認されている。ハワイからサーフィンが広がるずっと昔の事だ。
これは英国探検家ジェームス・エドワード・アレキサンダーからの引用である。彼は赤道地帯の西アフリカの原住民がサーフィンをするのを1835年に観察している。アレキサンダーの冒険物語、第1,2巻西アフリカ植民地の観察、1837年発行。その視野と詳細記述が素晴らしい。多くは詩的に西アフリカ1800年代の生活をありとあらゆる詳細に渡って記録している。-- セックス、殺人、奴隷、戦争、情熱、アル中、死、反乱、サーフィンについて -- これらは見ごたえ十分。
ジェームス・エドワード・アレキサンダーはアクラ島に錨を下ろした。ケープ海岸沖。イエローサンドから程遠くなく、ギニアと呼ばれた場所。1835年11月16日に彼は原住民の生活を次のように記録している。「浜辺から、海へ泳ぎだす少年たちが見える。軽い板にお腹で乗って。沖でうねりを待つと、その波の上に浮かぶ雲のように転がるように戻ってくる。しかし聞いたところによれば、時には背後のリーフにサメが隠れていて、彼らをぱくりと食べてしまうのだそうだ。
また一方、ペルー沖ではウェーブライダーがパピルスの茎を使って水に浮く道具を作り、それで使って波打ち際で波乗りをしたとされている。この行為の歴史はかなり以前に遡り、古代の土器にペルー人が茎を束ねた浮き具に立って波に乗っている絵が描かれている。この”パピルスボード”は現代のボードで、ワイドポイントが真ん中から少しだけ後ろでノーズとテールにロッカー入りのボードと良く似た形状である。
しかし私たちが今日良く知っているサーフィンの基幹はポリネシアから派生しており、ハワイにてこのスポーツは主要に発達した。太平洋に入った人々が海に順応していく全般的な過程の中の一つとして。パパヘイナル(波乗り)はレクリエーションとなり、ハワイ人によって最も発達した。最初のハワイへのポリネシア人移住者は、恐らく既にシンプルなサーフィンの技術を持っていたのだろう。そして数百年に渡るハワイ内での波乗りによりハワイアンは独自のフォームを形成し、そこから現在のサーフィンが発生したのだろう。実際のところ、最初の波乗り或いはストーク(喚起)は2000年BCに遡ると思われる。それはマレー群島から移住した子孫たちから。
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サーファは大きく言って、乗っているボードの種類にて定義される。そのサイズ、シェープ、素材にて乗り方が決まり、どのように乗るかで基本的にサーファーの能力が定義される。古代ハワイには次の4種類のボードがあったとされている。
・パイポ或いはキオエ、ボディボード、ベリーボード。2〜4フィートで子供がプローンポジションで乗る。
・アライア又はオモ 中型ボード8フィート以上
・キコ、アライアより大きいが大型ボードほどではない。12〜18 フィート。ビックサーフに良いが乗りこなすのに高度の技術が必要。
・オロ。超長いサーフボードで王族専用。18〜24フィート長。
5フィート以上のボードは、ニュージーランド、タヒチ、ハワイでしか発見されていない。乗り方はDKとスタンディングがハワイのメレにて伝えられている。
またサーフボードに関する古代のハワイ用語を追加すると、パハ、パーオア、パパヘイナル(波を滑るボード)。ハアウィパパヘエナルは、ボードを貸す事を意味する。当時ボードは貸し借りするもので、あげるものではなかった。
初期のヨーロッパ人が1700年後期と1800年初期に2つの島のロングボードについて語っている。ハワイとアオテアロアについてだ。ニュージーランドのボードについては6フィートに達すると記録が残っている。しかし幅はたったの9インチだった。ボウンティ船の甲板会員のジェームス・モリソンは1800年初期に書いた。あらゆる長さのボードがタヒチでは使われている。4フィートボードはマーケーサスにて知られていた。メラネシアと西ポリネシアではボードはほんの数フィートで、最大でも4フィートだった。茎を束ねたボードはプローンにてラパヌイ(イースター島)にて乗られていた。
18フィート以上長、2フィート幅、5インチ厚、重量150ポンド以上のサーフボードが乗られているのはハワイだけである。それらのボードはホノルルのビショップ博物館にて保存されている。それらは十分な浮力があったため、ライダーの体重を支え、あらゆるポジション、プローン、お座り、膝つき、スタンディング等が可能であった。このバラエティに富んだロングボード上での技術と、全てのクラスの人々のサーフィンへの注力が他の太平洋の地域と異なる部分であった。
ハワイ人だけが太平洋のライダーだったわけではなく、タヒチの人々の波乗り文化は最もハワイに近かった。男も女も、そして特にタヒチの酋長がこのスポーツを楽しんだ。古代タヒチのサーフィンの事はハワイほどは知られていないが、いろんな人の交わったサーフィンから高いレベルの発達があったであろうと考えられる。
ウィリアム・エリス、数少ないヨーロッパ人でハワイとタヒチの両サーフィンを目撃した人物。彼が1800年代にタヒチサーファーについて述べている。しかし、「彼らのサーフボードはハワイのそれより劣っていて、海での水泳がアミューズメントであるとは思われない。以前はそうであったかもしれない名残が、今では南の原住民によって実践されている。」
ハワイとタヒチでのサーフィンの発達は両者の連携によるもので、平行に発達したものではないようだ。多くの伝説が900AD頃のハワイ、タヒチ間の航海に言及している。そのサーフィンの交流について、モイケアの話に語られている。タヒチの酋長と伝説のサーファー(カウアイへ旅し、そこに住み、有名なサーフブレイク・マカイワにて死亡)、彼らのかかわりの話はハワイータヒチ間の交流を示す一例であるといえよう。
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I ka la hiki ae a po iho.
太陽が昇り沈むところで
O ka kee a ka nalu o Maka`iwa --
マカイワサーフに角にて --
O ke kahuli mai a ka Kalukalu --
カルカルの波 --
E noho ia Kaua`i a e make.
カウアイに住みそして死んだ
それは双胴カヌーが何千マイルもの大洋を航海した時の事だ。太平洋の島民達は星や海のうねりや原始的なナビゲーション方法を用い大海原の旅をした。伝説的な20世紀初期のサーファー、トム・ブレークが語った。「これ以上勇気が必要な海の旅を歴史上に見出す事は出来ない。」
古代ハワイのメレはサーフィンエリアの記録をとどめている。49ものスポットが歌や伝説の中から見出されている。
一番最初のサーフスポットで一番良く知られているのは恐らくカウアイのカーヴィングサーフが出来たマカイワであろう。位置はワイルワ内のホロホロクヘイアウ近く、或いはカパの近くである。マカイワの正確な場所は判明していないが、それは恐らく、今日のサーファーによって呼ばれている「ココパーム」、或いは「ホーナーズ」であろうと推測される。ココパームはやしの木が多く生えている場所の東沖。そこは夏と冬にブレイクする。通常はバンピー(一気に崩れる)だが、砂底のためボディサーフィンには適する。ホーナーズは通年波乗り可能で、厚い左ショルダーも発生するが、良いのはコナウィンドの季節だけ。ワイルワは島の風上側。北東風の貿易風のオンショアなので年の殆どは通してバンピーなコンデション。しかしコナウィンドのオフショアが吹くとき、波の形は改善する。
何がマカイワをハワイのサーフィン伝説の中で有名にしたのかというと、そこはモイケハが彼の未来の妻達に最初にあった場所だからだ。伝説によれば、モイケハはカウアイはワイルワに移り住み、マカアイが彼のお気に入りのサーフスポットとなった。彼はタヒチの家を出て、最初に2艘式カヌーにてハワイのビックアイランドについた。そこには彼のグループの数人が定着し、他がオワフにて下船した。それはヒロ港への到着に当たっての事だ。ハワイ、カマフアレレ、モイケハカフナ。それらは2艘カヌーのプラットホームとなり、その 叙唱が有名なハワイのまじないとなった。
Eia Hawai`i
ハワイを見よ
E moku
島だ
E Kanaka
人々だ
彼がカウアイに到着した後、モイケハはマケイワにパドルアウトするサーファーを見て、すぐに会員に加わった。「古代には」、カハナモク公爵、近代サーフィンの父は彼の自叙伝の中で説明した。「ポリネシア人はサーフィンに対して極めて大きな精神的重きを置いた。なので、島への新入りにとって、ボードから飛び出して直ぐに波乗りする事は自然な振る舞いであった。波に乗る間、彼は島の王の2人の娘たちに見られていた。ホ・オイポケマァニとヒナウだった。そして2人ともモイケハを好きになった。伝説にその理由は記されていない。しかし1960年代のサーフチャンピオン フィル・エドワードが伝説を思い出して、「多分経験から。サーファーは優しくて若い女性に効果があるの。」とコメントを残した。
彼女たちの気品と美貌に釘付けになったモケイハは彼女たちの愛情に振り向き、最終的にこの2人の娘はタヒチ出身の酋長を夫とした。そして彼の義理の父の死を受け、モケイハはカウアイの酋長となった。「だからサーフィンが大成しないとは言えない」とエドワードは加えた。モケイハは後に、カウアイ生まれの彼の息子達を、タヒチで彼が始めに結婚した時の息子を探させるため、タヒチへと送った。長旅の後タヒチに着いた息子達はモケイハの子供であることを名乗ると、父の様子を聞かれ、彼らは答えた。
I walea ia Kaua`i
彼はカウアイで平穏に暮らしている。
I ka la hiki ae a po ino, I keekee a ka nalu
o Maka`iwa,
モケイワのサーフがカーヴし曲がるところで。
I ke kahuli mai a ke kalukalu o Puna,
ククイの花が咲くプナチェンジにて。
O ka waihalau o Wailua,
ワイルワの水が伸びるところで。
Noho ia Kaua`i a make ia Kaua`i.
彼はカウアイに生き、そして死ぬ。
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ホノルル地域の古代ハワイ名はコウであるが、今もその名前は残っていて、コウには幾つものサーフスポットが含まれている。それはカレフアウェレを含み、そこは古代ハワイの酋長たちが集まる場所であり、現在はワイキキはリーフブレイクの外側として知られている。コウから少し東に行った場所のブレイクはケカイオママラである。ママラ海である。内陸の狭い水口でブレイクし、ホノカウプ酋長の美しいやしの木から真直ぐに伸びる。その森は彼にちなんでホノカウプと呼ばれる。
ケカイオママラの名前の由来はママラからきている。彼女はオアの女酋長サーファーで、伝説によれば彼女は半神半人のヒロインで、超自然的力を持ち美女や、巨大なトカゲ、クロコダイルやサメなどに変身したという。
彼女は最初に別の半神半人であるサメ男のオウハと結婚した。彼らはアワと共にオ飲むのを楽しみ、コナネ(チェス)を遊んだ。平らで滑らかなコウの岩の上で。
ママラは例外的なサーファーで、技術が高く、最も荒い波に乗った。彼女ははるか沖に立つサーフが好きだった。そこでは風が強く吹き白いケープが波の上を荒く巻きながらコウ湾まで巻くような日。いつも浜には沢山の人が集まり、彼女のサーフィンを見ては彼女のパワーに拍手した。
ある日、晴天の霹靂でココナッツ酋長のホノカウプはママラを妻に欲し、それは突然の一目ぼれ以上のものだった。なぜならママラは、ホノカウプに鞍替えしオウハを去ったからだ。バカにされたようで、オウハは怒りホノカウプとママラを傷つけようとした。しかし彼は退けられ、続いてワイキキ方面のカイヒカプ湖へと逃げた。オウハは殆どの男たちと同じく、その辱めと不名誉を受け入れられなく、半神半人として、彼は人間の姿から、ワイキキとココヘッドの間で偉大なサメの神となった。
その後、美しいママラの名前はそのサーフスポットに残り、南の湾に彼女の名前が付いた。ママラは最初に知られた偉大な女サーファー。また歌のホノカウプのメレにも彼女と彼女の三角関係が残されている。
私は貴女が帰るのを待った
そのゲームは仕掛けられた
タヒチへ逃げる
ヌウメハラニの水路を辿って
オウハの恋人は戻ってくるのか?
私はホノカウプのもの
サーフウェーブのてっぺんから
その日と夜は忘れ去られた
コウはその日、そして今夜
目と目がコウで交わる
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ケカイオママラから40マイル。オアフのノースショア。パウマルは古代に大波で知られていた。今日の名前はサンセットビーチである。最初に呼ばれたパウマルの意味は「盗み採り」ある女が許可された以上に蛸をとりその罪でサメに足を噛まされたから。
パウマルには別の伝説がある。カウアイのアリーイ(貴族)はカヒキラニが数百マイルにも及ぶオワフまで、自宅から外洋を渡った。ただ彼の技術と偉大なパウマルサーフで証明するために。
彼は到着すると直ぐにサーフィンを始めた。冬の間に彼は技術を完成させた。彼が乗っていると、近くの山の洞穴に住む超能力を持った鳥女が彼を見つめた。彼女はこの王子に恋をし、鳥のメッセンジャーにオレンジ色のレフア花のレイを運ばせ、彼の首にかけると彼を彼女のところまで連れてきた。鳥は彼の頭の上を飛び回ると、彼を洞穴へ釘付けにした。まじないで。そして彼は数ヶ月を彼女と共に過ごした。次のサーフシーズンが戻ってくるまで。そして、遠くで崩れる波を見ると彼は我慢できなくなって、彼女に他のどの女にもキスをしないと約束をして彼はその鳥の洞窟を去った。
しかしながら、多くのサーファーの典型として、彼はサーフのうねりに興奮し、約束を忘れてしまった。そこで白い砂浜の上を美しい女性が歩いてきた。彼女はパウマルが素晴らしくライディングしているのを見た。そして彼は岸まで帰るのを待った。カヒキラニが岸まで着くと、美しい彼女はイリマのレイを彼の首にかけ、彼にキスをしたのに、彼は我慢できなかった。彼の約束は破られたが、彼は気にかけずにまた沖の崩れる波へパドルアウトしていった。彼にとっては不運な事に、鳥の使者がそれを見て、飛んで帰ると女主人に彼の浮気を報告した。彼女はその報告を聞くと、彼女はレフアのレイを手に持ち浜辺まで行くと、彼女はイリマのレイを剥ぎ取ると代わりにレフアのレイを彼の首にかけた。彼女は洞窟まで走りかえると、彼は彼女を追ったが、カヒキラニが鳥女を見たのはそれが最後であった。山の途中までのところで、彼女は親類の神に頼んで、彼を意思に変えてしまったからだ。
カヒキラニのイメージは今でも石化したレフアのレイを首にかけたまま、パウマル湾の上の不毛の地のはずれで見ることが出来る。
比較的に近年のことだが、ウミアリオアの人生の話がある。かなり許されていないハワイの酋長で、彼はハワイとマウイのビックアイランドを治めた。15世紀終わりと16世紀の始めにかけて。その物語では、彼の品の無いキャラクターがその貴族的特権によって助長された様を明らかにしている。彼はとても能力のある若者だったが同時にふんぞり返った傲慢な貴族出身の男で、彼は何でも自分の思い通りになると思っていた。なぜなら彼の父は王だったからだ。この物語の教訓は、サーファーがコンテストによって支払う代償についてである。
1480年頃、ウミ酋長はワイプナレイに住んでいた。彼と友達がサーフィンコンテストがラウパホエホエにて開かれると聞くと、位置はヒロの北東である。二人ともそこでは知られていなく、彼らは変装して大会に挑んだ。なぜなら王は子の安全を心配したからだ。若者のウミ、特に身体的力に優れていてる彼は、ヒロへ旅立った。身分を隠して。プライドを持ち、謙遜しながらも回りに自分が最高のサーファーであると知らしめながら。
彼の傲慢によって、自然とその地域のあまり有名でない酋長サーファのパイエアから挑戦を受ける事となった。パイエアはローカルに詳しく地域的な波のコンデションを良く知っていた。勿論大会が開かれるラウパホエホエについてもである。そこはヒロの近辺よりも大波の場所で、そこであえて波乗りをしようというサーファーは殆どいなかった。しかしながら、ローカルに彼のサーフィンテクで良く知られていたパイエアは、そのスポットで数多く波乗りした経験があった。
大会の前に、パイエアは小さな賭けを申し出たが、ウミは断った。それはウミは賭け金が、彼の能力見合う時だけ戦う事を示唆していた。パイエアが賭けを2艘カヌーを4隻まで吊り上げた時、ウミは戦いを承諾した。
パターソンを含め多くの歴史家によれば、「サーフィンが究極の発達に到った主な理由はポリネシア人たちのギャンブルに打ち込む熱気と喜びからだった。」とされている。彼らは大のギャンブル好きで、最後の持ち物でさえゲームに賭けた。
今日のように、大会の結果はサーフボードをいかに乗りこなすかの質によって決められたのだろう。アリーイたちがベストなボードを所有する事が出来たであろうと考えるのは自然であろう。その富が大会では有利に働いたのだろう。階級制度のため、唯一貴族達だけが一番長いボードに乗ることを許されていた。オロのことである。ギャンブルはサーフィン大会と親密に関わりあっており、多くの参照によると、下層や上級貴族たちの間で賭けがなされたとされる。ケニース・エモーリー、ポリネシア文化の権威者は次のように観察している。「賭けは他の南の国では知られていなかった。」エモーリーの推論では、ハワイ人は日本の漁師から賭けを学んだとされる。彼らは船の難破によって偶然にもその島々をヨーロッパ人が発見した1778年よりずっと前に発見したのであろう。
パイエア対ウミアリロアの競技では、ワイプナレイからカウラまでの全てのローカルがウミに賭けた。そのバランスとして、パイエア側のラウパホエホエの人々は4隻の2艘カヌーを賭けることとなった。
ウミとパイエアはハイサーフへとパドルアウトした。ボードを激しいブレイクから押しやりながら外洋まで出て多くの時間を場所の取り合いに費やした。彼らは同じ大波を選び、それへとパドルインした。その波が彼らを空中高く飛ばし、正にクレスト(頂点)のところで水しぶきをあげ、それが海へと吹く風に舞った。彼らは同時に立ち上がり、彼らの足はしっかり凸状デッキの上に据えられた。岸からの多くの観客(賭けた人)が見守る中、2人のサーファーは凄いスピードで波に乗り、到着地点に据えられたブイまで滑走した。その間を先に走りぬけたものが勝者となるのだ。
ブイに向かう途中、パイエアはウミが少しだけ前に出ているのに気づいた。それで岩に近づいた時、パイイエアはウミをそこへ引っ掛けようと試みた。この卑怯な行いもウミは邪魔するには十分でなかった。彼はパイエアを下し、4隻のカヌーを勝ち取った。しかしパイエアの罠かエア抜け出そうとした時に相手のボードが体に当たり、彼は切り傷を負ってしまった。
ウミはその時に文句を言わず、自分が誰なのかも明かさなかった。しかし数年経って彼がビックアイランドの大酋長になった時、ウミアリロアはヒロへと赴き、パイエアを処刑させ、ワイプナレイのヘイアウの彼の神に生贄として捧げ、彼をオーブンで焼かせた。ウミは数年前の大会で、パイエアのボードがウミのボードに当たるのを避けなかったパイエアに復讐心を抱き続け、彼を火葬にしてしまったのである。
ウミのこの復讐は、あの運命の日に、いかにパイエアのサーフライディングが陰険であったしにても酷すぎる仕打ちであった。この教訓は大人の時間の殆どを競技へ費やした公爵の記憶から消えることなく、公爵は短くこう結論付けた。「古代にサーファーは大会中に物質的な金品だけでなく、時には命さえ失う危険さえあった」
トム・ブレーク 1900年代のサーフパイオニアで、発明家。彼は1935年の書いた本「ハワイのサーフボード」のなかで夢想している。ヨーロッパ人がポリネシアの島に上陸した前のサーフィンの様子について。ここに最初の本当のサーファーについて、彼がフィクションとして言及している。それはケアアロハ族のハワイ人で、オワフのワイキキにてサーフィンをしていた男の話だ。
"嵐のサーフが流れている正に若い頑強な男が待っていた。それはゼロブレイク(第1,2,3ブレイク以外の波がワキキキではゼロブレイクと呼ばれる)。その波はカレヒエウェヘのサーフにてブレイクする。そこはさんご礁のはるか外側恐らく0.5マイルオフショア。われらがヒーローは若い酋長ケアロハである。
"彼は恋人に今日は乗るなというだろう、それは女性には危険すぎる日だからだ。かれは数多いコレクションの中から、良く磨かれたウィリウィリ製の15フィートのボードを選んだ。大波の日のシングルライディングへのお気に入りのボードだ。多くの好奇に満ちた視線が彼に投げかけられ、彼はプローンで完全なタイミングの力強いストロークで岸から出て行く。 岸から百ヤードで彼は内側の波、或いは第3のブレイクに遭遇した。彼は殆どストロークを止めることなく、頭を低めボードに捉まった。2百ヤードのところで彼は沸騰する手荒なブレイクのアワの真っ只中だ。そこが第2のブレイクほら大きな波が来た。どんどん近づいている。そして正に彼を飲み込もうとしている。彼はボードを波の右の角度にあて、又は角張った方向で波に進んでいく。泡がボードの端に届く前に、彼は水の中へ滑り込み姿を消した。彼はボードの下でしっかりボードを掴んでいる。そしてブレイクが過ぎ去った瞬間、また彼は沖へと漕ぎ出す。他の7〜8と続く大波のセットが彼を最初の波のように押し付ける。しかし彼はそれが好きだった。それが若いハワイアンの血にとっての生きがいだからだ。彼は直ぐに第1ブレイクに到達した。数百ヤード岸から沖に出たところだ。しかし彼はまだ彼のゴールであるゼロブレイクへと向かっている。そこで休んで次の波の連なりがやってくるのを待つのだ。
ケアロハは全くの興奮から絶叫した。グランドスウェルが揚がって来るのを見たからだ。青、そして緑、海の外側。そのサーフライダーは地上の2つの目印から特定できるポジションへとボードを操った。彼は経験から大波がそこで角度を増すことを知っていたからだ。そこでは海底が幾分浅いからだ。数分が過ぎ、最初のセットが百ヤード沖に迫ってきた。この緊張感がサーフライディングの極度のスリル感なのだ。危険は凄い。彼はクリーンなライドが出来るのか、それともコントロールを失って重いボードが彼を打ちつけ、頭を割るか、気を失うか、もしかすると死んでしまうかもしれない。25フィートの波の力は驚異的である。彼はこの怪物に乗るのは五分五分のチャンスである事を知っている。ケアロハはセットの4番面の波を選んだ。なぜなら他より少し大きめで最初の3つの波が海の荒面を掃き去って平らにしてくれたからだ。
ヘアロハは岸に向かってパドルを始めた。丁度良い波の角度にて。ブレイカーは美しく肩越しからそれがやってくるのを彼は睨んでいた。それが彼から10ヤードのところまで来ると、積み上げられ活動的に岸へ向かって押し寄せてくる。しかしまだ崩れていない。彼の心臓は早鳴りして、波が近づくと彼の腕はすばやく動いた。波は彼を押しつぶす代わりに、あまりにも簡単に力強く確かに彼を押し上げた。この素晴らしいボード。彼の大事な道具を。丁度波が過ぎ去ろうとするまで。彼は波のクレストに位置し、まるで小さな崖から見下ろしているような気分だ。もうひとつ深くて全身をこめた力強いストロークをした。
ボードとライダーは20ヤードの波のスロープを滑り落ちた。まるで子供が氷の丘から橇で滑り降りるように。即座に彼は波の上で、もうパドルする必要も無い。しかしまだすることは沢山ある。ケアロハはボードの後ろへ1フット移動すると弓が水没するのを防ぐ。彼の進路は即座に左に決められて、後は浜まで真直ぐに。そして丸いボードは良くしっかりとホールドした。足で操って、彼はボードをガイドした。
最初の百ヤードは一つのグランドフリーライドだった。しかしうねりは浅瀬に押し寄せ水がその角度を増し、雷のような大音響と共に崩れ始めると、その部分がサーフライダーに覆いかぶさる。彼の姿は一瞬沸騰する泡の中に消えたが、ケアロハは全ての筋肉をぴんと張り詰めて、判断しながらボードを操った。そして勝った。素晴らしいボードの弾みは彼をブレイクの前へと運び出したので、その波にあと2〜3百ヤード乗り続けることは簡単な事だ。彼は少しリラックスし、喚起の雄たけびを上げた。彼の征服を祝して。
"ケアロハはそのパフォーマンスを何時間も繰り返した。時には成功し、時にはボードを流され、危険なリーフまで取りに行かねばならなかった。激しくかき回された泡の中を。彼はついにその日の終わりを告げ、岸に戻った。非常に疲れていたがとても幸せだった。
Some Sources:
Abraham Fornander, Ben Finney, Buck, Campbell, Cralle, Duke Kahanamoku, Fuller, Grun, James Cook, James Michener, James Morrison, Kenneth P. Emory, Muirhead, Otto Patterson, Peter Bellwood, Phil Edwards, Polynesian Voyaging Society, Pukui and Elbert, Taylor, Te Rangi Hiroa, Tom Blake, William Ellis, Young.