シュタイニッツの強制システム

19世紀のオーストリアにチェスの世界でその名も高いシュタイニッツなる大豪がおりました。
 彼は公認の初代世界チャンピオンに輝いたばかりではなく、現代的な戦術の基礎を築き、「近代チェスの父」とまで呼ばれています。棋風は一見派手なところがなく、手得を重視した現代風のオーソドックスかつ重厚なもので、同時代の人からはなかなか理解されず、真価が認められたのがずっと後年になったというのも無理はないかも知れません。
 彼の提唱した「均衡理論」は斬新すぎ、当時のヨーロッパ各国の名人達からは大不評でした。「どのような局面で、どれほど優れた名人が、どのような凄い手を指してきたとしても、その局面が出現するまでに悪手を指していなければ、適切な応手は必ず存在する。それがどんなに見つけ難い手であっても、必ずあるのだ。」
 しかし考えてみてください。チェスのゲーム開始時には、必ず両者に等しいポテンシャルが約束されています。必ず対局者同士の駒の能力は等しく、両者同じ陣形で開始するのですから、該当する局面が出現するまでに悪手を打っていなければ、相手方だけに大きなポテンシャルは存在するはずがないというのも一つの考え方ではありませんか。

また、チェスは野球のように運の要素が含まれるわけではなく、その日の調子により駒の力関係が異なることなんか有りません。運よくルーク(飛車)が斜めに動くことはありませんし、ビショップ(角)の調子がいいので横に動くということはありませんよね。盤上の情報はすべて明らかになっており、いつかはゲームが終了するため、チェスは有限完全情報ゲームということができます。このようなゲームの場合、究極的には
   @両者がすべて正しい着手をした場合、先手が必ず勝つゲーム
   A両者がすべて正しい着手をした場合、後手が必ず勝つゲーム
   B両者がすべて正しい着手をした場合、必ず引き分けになるゲーム
の3つに別れます。将棋も囲碁もチェスも、どれに属するかは現在ではまだ判明していないというだけで、3つのうちいずれかに属することだけは確かです(判明するのは千年後になるかもしれませんが)。悲しいことですが、その手順が明らかになってしまった時には将棋であれチェスであれ「答えの出てしまったパズル」に転落してしまいます。もっと簡単なゲームであるティックタックドゥ(タテ3×ヨコ3のマスに○と×を交互に書いていき、タテヨコ斜めいずれかに3つ並べたほうが勝ち)であれば後手が応手を誤らなければ必ず引き分けになることは理解いただけますよね。後手必勝のゲームというのも考え難いかもしれませんが、はさみ将棋などはこれに属することが知られています。
 現在のチェス用コンピュータは目の前の盤面における最善手を選択することに能力が限られています。チェスがどのようなゲームであるのか、究極の答えを出すには全く能力が足りません。人間の名人と互角の勝負をしているくらいでは究極の答えは全く無理で、コンピュータの判断の経過を見ていると現在とは最初の一歩から全く違ったシステムが必要かもしれません。(註1)
 いかなシュタイニッツでもチェスというゲームのすべてを理解していたわけではないでしょうが、究極的にはBに該当すると考えていたフシが見られます。(なお、私は将棋が@に属し、チェスがBに該当すると予想しています。)

このシュタイニッツが得意とする戦術に強制システム又は強制軍縮システムと呼ばれるものがありました。シュタイニッツが途中経過で優位な局面を作ることに成功した場合や、盤上の形勢を損ねずに駒得をしたような場合、彼は露骨なまでに駒の等価交換を始めます。自分の形勢を損なわず相手が交換に応じざるをえない局面を作るのが巧みだったため、相手は否応なく交換に追い込まれていくのです。このとき、
 @将棋は駒の再利用が可能なため、対局者は交換した駒を好きな時にルールで許されたいずれかの場所に置くことができることになる。それが有効な着手かどうかは置くとして、着手可能な手は飛躍的に増える。ポテンシャルが互いに増大するのである。 Aチェスは駒の再利用が不可能で、取られた駒はゲームから除かれるため、駒を等価交換すると互いに可能な着手は激減する。お互いに未来が狭まってしまうのである。将棋で駒を激しく交換すれば元気のいい指し手だが、チェスでこれをやると逆にゲームがシワくなってしまうのでイヤがられることがある。
 さて、シュタイニッツのように優位を築いた後にこのような着手を選べば、相手と自分の戦力減は局面においては±ゼロであると言えます。しかし、全体を見ればどうでしょう。数字におきかえて自分の戦力が100、相手の戦力が80であった場合に互いに50の戦力を失えば5030で、戦力比は拡大しています。同じ戦力を失っただけなのに、戦況はより大きく自分優位に傾いています。不注意によりルークを失ったものが、残ったすべての駒を交換されてしまった場合、最後に残るのは自分のキングと相手のキング及び相手のルーク。勝てるわけがありません。まさかここまで黙ってやられる人はいないでしょうが、1つの駒を交換されただけでこの状態に一歩近づくのですから、駒の再利用不可能なゲームではとても大きなダメージとなります。

ここで唐突に全盛期(80年代後半から90年代前半)の西武を思い出してみましょう。NPB開始以来最も多く犠打を記録したチームです。意外にも戦前からNPBは(各打者が非常に低い得点期待値であるわりに)それほど多くの犠打を記録してはいません。日本で野球が始まってから野球のやり方は変わらず、犠打を多用する細かい野球が「日本の野球」であるとする考え方はことNPBに関してはあたらない、と考えられます。飛田穂洲以来のアマチュア野球のあり方がNPBに関しても主流であったとするのは錯覚かもしれません。
 1985年あたりは極端な打撃上位のシーズンであり、犠打が非効率であることが明白であったためか、この頃は西武の犠打も他の年や他のチームと比べ目立つほどではありませんが、88年頃から爆発的に増加に転じています。この結果、西武の得点はXRなどで計算された「獲得できるはずの得点」よりも常に少なく推移することになりました。なぜこんな損になるような戦略を採用し続けたのでしょうか。

ここで強制システムです。攻撃には運がつきものであり、攻撃力とそれを用いた攻撃の結果である得点の間には常に偏差が存在します。たとえばXRによる得点予想が600と出たとして、実際の得点が540になる結果もあれば630になる結果もありえます。西武が常に同じ攻撃力を有し、相手チームの防御力が変わらないとしても相手チームが西武に年間630点を与える未来もあれば540点しか与えない未来もあるわけです。ここで、西武が強力な投手力を有しており、570点程度の得点があれば優勝が可能だと予想されたならどうなるでしょうか(現実にもそうでしたね)。力どおりに得点を得る必要はないが、偏差が大きくなりすぎた場合は危ない、という場合です。又は西武は攻撃力も強力であり600点近い得点は他チームが得られると予想できる得点より多いと予想された場合はどうでしょう。
 私はこれが犠打多用の戦略が奏功し続けた理由だと思います。犠打は予想される総得点を減ずる代わりに偏差も小さくします。犠打を多用することによって攻撃力に見合いの得点を得ることを諦める。その代わりに、相手にも最大の偏差による利得を与えない。上の例ですと、本来総得点600点を期待できるところ、570点の周辺に何とか納めることにより相手チームに西武を540点に押さえるチャンスを与えない。自分達が力どおり又は力以上に得点を得る可能性と、相手チームが力以上に自分達を抑える可能性を「交換」してリーグ戦というゲームの場から除こうとする戦略です。
 さらに当時の西武の野手で大きなXR数値を記録する選手、又は何年も続けて高い出塁率をマークし続ける選手は秋山・清原・デストラーデの3人に限られており、当然のことながらこの3人には犠打がほとんどないことから、犠打によって思ったほどの得点力減殺にはつながっていないかも知れません。

西武が「それ」と意識してこの戦略を採用したかは判りません。しかし、いずれにしてもシステムは発動してしまっています。
 本来他チームと比較してあり余る戦力を保有し、普通であれば優勝鉄板と思われるチームが、偏差による優勝取りこぼしを防ぐ作用のあるシステムだったわけですが、これが西武の強さの秘密であると喧伝されると事情は変わりました。そもそもが圧倒的に大きな戦力を有しているから強いわけなのですが、強さの原因が戦略にあるという錯覚と犠打多用により得点や勝数まで増やすことができるような錯覚を各チーム抱くことになり、つられて全チームの犠打までが増加することになってしまいました。このため、他チームの得点までが西武と同様の経緯をたどることとなりました。これは戦略上非常にまずいことです。本来1回で終るはずの強制軍縮、駒の交換を他のチームがおつきあいして2回やったことに他なりません。このため、ただでさえ圧倒的であった西武の優勝の可能性はさらに高まり、この間は偏差の小さいとても順当な結果だけ起きるシーズンが続いてしまったのです。このようなシステムを最強チームが採用した場合、それ以外のチームは絶対に応じてはなりません。同じような攻撃方法を取ることは自殺行為です。
 このような経緯で考えなかったとしても、負け続けているうちに現場では「何かおかしいぞ」「このままではやっぱり負ける」という感想を抱いていたはずで、やがて1993年頃からは他球団は正しい対応に向かいはじめました。

圧倒的に強いチームが長い間連続して優勝し続けることがメジャーに比べて多いことは、優勝チームのシーズン通じた戦略が下位のチームにも正しいと錯覚する風潮にもあるかもしれません。マスコミなどで「これが西武の優勝の要因である」などとされた場合、それが誤っていると感じても逆らうのは勇気がいることです。また、プロである以上ファンを納得させるプレーぶりを見せなければならないのは当然のことで、正しい戦略であってもファンが納得しない戦略は採用できない、という不可抗力的ミスもあることでしょう。(注2)現在でも、明らかに効率が悪いと考えられる戦術・戦略の方を多くのファンは支持する傾向は消えていないようです。

(註1)
 チェスの世界チャンピオンであるカスパロフを下したコンピュータのディープブルーですが、勝った時もミスを犯しています。また、歴史的勝利の1年前に同じカスパロフに敗れていますが、このときの棋譜が手元にあります。ナイト(桂馬)の迷走ぶりがコンピュータらしい負け方と感じます。この時は1年後と比べるとまだ可愛気がありました。いずれにしても、局面に点数をつけ、演算の結果自分の側の点数が高くなるような着手を選択するシステムになっていました。
 私としてはいつか、チェス界の藤原佐為・フィッシャーとの対局を見てみたいものです。

(註2)
 同様の不可抗力的なミスを、WBCの2次リーグにおいてメキシコチームがアメリカチームを相手にやらざるを得ませんでした。
 最終戦、メキシコは失点率の関係で、延長13回以上を戦い、アメリカチームを0点に押さえ、かつ3点以上を取って勝てば準決勝に進むことができました。ついでに言うとこの場合は日本も2次リーグ敗退となります。
アメリカチームを0点に抑えて延長に入らなければならないのですから、メキシコチームは得点を入れてはならず、最後も3ランHRか満塁HRで終らなくてはなりません。12回までに間違って得点を入れてしまった場合、自分の手で事実上準決勝進出の望みを断つという矛盾した状況の中にありました。

 ですから、準決勝進出のために、メキシコは12回までは故意に凡退を続ける必要があったのです。どんなにか細い可能性でも、唯一の可能性がこれである以上、これが戦術的には唯一の正しい選択肢ということになります。
 しかし現実を見るとどうでしょう。メキシコの選手たちはメキシコ国内への野球の普及の希望を持っていたでしょうし、国家代表としての誇りもあったと思います。一見無気力に、あるいは故意に凡退し続ける選手の姿を見てメキシコの子供たちは「面白い。自分も野球をやろう」などと考えてくれるでしょうか?しかもその手は実を結ばず、単に恥をかくだけの可能性の方が何百倍か大きそうなのに?この細い可能性に賭けて奇妙なプレーを続けることがデメリットと比べて見合いのものなのか?この大会にそれだけの価値を見出し得るのか?

確かに普通に戦ってしまうというのはこれ以上あり得ない本大会最悪の戦術です。でも、いくら戦術的に正しくても時と場合により採用できない戦術はあります。普及などまで見据えた戦略的な見地からは、普通にプレーして普通に勝ちに行くというメキシコの選択は妥当かつ当然のことかも知れませんね。勝ち進む、という点だけから見ると今回のメキシコは不可抗力的なミスを犯さざるをえなかった、と申せましょう。

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