おお、スゲっ!練習問題!


1 占い師の選択

 ある学校に進学か就職か進路で悩む一人の生徒がいた、とでもしようか。
 あろうことかこの生徒、進路指導の教師が止めるのも聞かず占いで自分の進路を決めようと言い出したのである。
 「手前で決めろ」の一喝とともにケリの一つも入れた方が本人のためだ、という人は多いだろうが、昨今の公立学校とあってそうは行かない。本人が占いで決めると堅い意思を示しているのなら仕方がない。
 さて、ここで、この生徒が占ってもらうことのできる占い師が3人しかいなかったとしよう。問題は進学か就職かである。

Aの占い師:全国的に有名な大家で、全国占い協会なんてものがあったのなら有力な会長候補(そういう団体があるかどうかは知らないけど)。的中率は何と70%だそうだ。その代わり見料も相応に高く、30,000円となっている。

Bの占い師:堅実なやり手である。見料もほどほどの20,000円である。ただし的中率は50%であるそうだ。

Cの占い師:まだ新米である。的中率は30%に過ぎないが、しかし見料はリーズナブルで、15,000円とのことである。

どの占い師に占ってもらうのが期待値の面から適切であると言えるのだろうか?

2 ある高校野球監督

 ある学校にデータ野球で有名な野球の監督がいた。
 この監督がこの学校の野球部で過去に起きたすべての犠飛とスクイズの関係について調べたところ、変わった事実に行き当たった。
 過去において、
 @スクイズにより得点を得たイニングはその1点以後、追加点を奪う可能性が乏しく
 A犠飛により得点を得たイニングの場合は、その1点以後、@よりも追加点を得られる可能性が高い
というような事実があったのである。
 不思議に思ったこの監督は、地区の高校野球のボックスを得られるだけ収集し、検討を加えた結果、過去何年間かで全く同じ傾向が見られたのである。
 よく考えればどちらもアウトを渡して三塁ランナーを本塁に迎え入れている行為。この監督でなくても不思議なところであるが、それが何故なのか悩んでいるこの監督に教えてあげてほしい。

3 バント失敗高校の勝率が53%

 甲子園戦法について書かれたある本に、「送りバントを失敗したチームの過去の勝率は53%」というデータが載っていた。
 この本では、「送りバントの失敗は甲子園においては痛手とならないのだ。」と結論づけていた。だからバンバンやりなさい、とも。
 しかし、これは本当のことだろうか。53%云々が本当だとしても、一歩離れてみれば全く常識とかけ離れたものであることが理解できるだろう。このような解釈は既に信仰の域に達したものとも見える。
 つまり、ある球技において、ある戦術を成功させたチームではなく、失敗させたチームの勝率が53%だというのだ。
 「そういう状況になるのなら、そもそもその戦術はおかしいのではないか?」という根本的な疑問はさておき、この戦術が有効なものであるという前提のもとで、健康な常識を持つ大人なら、この統計の取り方又は解釈に不備があることは容易に推測できよう。
 さて、この聖なる野球の常識に毒された論者に、どうしてこのようなデータの結果が現われるのか教えてあげてほしい。


 我ながら何かホントに練習問題みたいになってる。
 このうち2は相手が野球をやったことがあると主張する場合に私がよく相手を試す課題である。ちなみに平成12年に甲子園へ行った札幌市内の某名門校の元甲子園球児は一発で正解を出してくれた。
 野球経験を試すこんなのは他にいくつかあるんだが他のはまたの機会に。
 家族旅行終了で疲労困憊なので答えはまた後日ということで。一人で旅行してた頃は疲れたなんて思ったことはなかったんだが、子供をつれて旅行に行くとまあとっても疲れるんですよ、これが。

1 占い師の選択
 普通に計算するとBの占い師を選ぶことになるんだろうが、実は二択問題であるところがカギ。
 結論はCの占い師のところへ行って15,000円を払い、出た答えの逆をやる、というのが正しい。
 確かに二択問題を70%外し続けるなんて超能力としか思えないが。二択問題は時に奇妙な振る舞いをすることがある(註1)。
 Aの占い師:30,000÷0.7=42,857
 Bの占い師:20,000÷0.5=40,000
 Cの占い師:15,000÷0.3=50,000
 よって一番効率的なのはBです、なんて誰か書いてくれんかな、と思ったんですが。
 とにかくBの占い師は二択問題では最悪の占い師で絶対に選んではなりません。
(註1)
 ウチの家内は車に同乗しているとき、よく右と左を間違える。「右よ右」と指示しているのをチラっと見ると左を指差している。「右と左の的中率」が50%程度になっているように感じられる。
女性にけっこう多いようだが、この場合、彼女の指示通りに運転したとして、彼女の脳内地図が合っていようがいまいが目的地に近づける確率は50%になる。このことに気がついて以後、彼女の支持は私の中でサイコロと同じとなった。

2 ある高校野球監督
 ノーアウトではスクイズのサインが出すことを躊躇する監督は多いが、犠飛はノーアウトか1アウトかに関係なく発生する、というのがその答え。
つまり、スクイズは成功した時点でその多くはは2アウトになっており、犠飛は発生した時点で1アウトになるのか2アウトになるのかはランダムである。
「後続が2アウトからの攻撃である割合がより高い」Aという集合と
「後続が1アウトからの攻撃である割合がAに比べればより高い」Bという集合では
Bの集合、つまり犠飛の後に追加点が入りやすいのは当然のことだ。どちらも1つアウトを与え、三塁走者を一つ進める行為に変わりは無い。
 そもそもスクイズというものは経験者だろうがそうでなかろうが決死のギャンブルであることは理解できる。失敗は走者を失った上にアウトを一つ与えることを意味する。1点以上の期待値を失うことになるわけで、三重殺を除き、おそらく最悪のプレーの一つである。得点期待値など知らなくても失敗の痛手は余りにも大きいことは明白だ。無死三塁から打席に入る打者だっていくばくかの攻撃力は有しているだろう。このギャンブルは割りに合わないものである。こうして、無死三塁からのスクイズはかなりの局面で使用が自重されることになる。
 (ただし、この後、無死三塁からのスクイズが全く無警戒になった時期に一時的に集中して発生する時期があることは予想される)
 この甲子園球児も「俺らの代でノーアウト三塁からのスクイズってやったことあったかな?やってたにしてもサイン出たら相当違和感持ったと思いますよ」との感想を述べていた。
 で、ここまでで終わらせるのは惜しいので、手元にあった2006年のゲームログから犠飛の発生局面をピックアップしてみた。そもそも1死で少なくとも三塁に走者が居る確率は、無死で少なくとも三塁に走者が居る確率の約3倍弱。犠飛を打つ意思などがなかったとして、局面に関係なく打ち続ければ1死からの犠飛と無死からの犠飛の発生比率は3:1に近づいていくだろう(ほんの少しだけそれより無死からの犠飛が多くなる)。
 実際の結果も3:1になってしまった。外野フライの発生確率も通常の場合の打撃と変わらないものだった。
 無死から2本続けて外野フライが出た場合、多くは2本目で走者が生還していた。走者の方でも選択は働いている。無死からの打球ならかなり深くなければ突入せず、1死からならば少々の危険は冒す、というように。
 このような1死からの犠飛の比率を増すようなバイアス(小さなバイアスであるが)がかかってもなお、出現確率のとおりに収斂してきている。
 明らかな戦術選択がそこにあれば、つまりスクイズのように無死だからという理由で避けるような選択が働けばその分だけ出現確率の通りにはならず、3:1の比率からは徐々に離れていくはずである。
 ところがこの結果は犠飛というものが果たして何かを犠牲にしているのか?という疑問につきあたる。分母から犠飛を取り除く打率と異なり、新しい指標である出塁率は犠飛をそのまま分母に加えたままである。私としてはこちらを支持したいところだ。

3 バント失敗高校の勝率が53%
 以前にほとんどの高校は同じ戦術を採用している、と書いたことがある。両方で犠打に取り組んだ場合は犠打に成功したチームが勝って当たり前とも書いた。ところが、ここで言われているのは失敗した高校の勝率が53%だということだ。何故なんだろう。
 これはほとんどの高校が同じ戦術を採用していることとも関係がある。
 大前提として、バントが失敗できるチームというのはどんなチームなんだろう。(その前か後にバントを成功させていてもこのカテゴリーに含まれる)
 まず最初に、1死一塁から犠打を行う高校はほとんどない。ということはつまり、少なくとも無死で走者を出すことができたチームである。
 次にバントを失敗することができなかったチーム。これには、1度か2度か3度か知らぬがバントを全て成功させたチームが含まれるのはもちろんのことである。しかし、分母のうち大きな部分として「バントにトライできなかったチーム」が含まれる。そのようなチームとしては、まず「無死から走者を出せなかったチーム」「最初は無死から走者を出せず、試合が進んでやっと出せたときにはすでに大きなビハインドを背負っていたチーム」「早い回で大きなビハインドを背負い、そもそもバントが意味を持たなくなったチーム」が含まれる。そういえば昔々パーフェクトゲームが達成された試合(負けた側がバントを失敗するのは絶対無理)を何故か私は池袋の丸井で見ていた。だいたい無死から走者を出しているようなチームの方が基本的に攻撃力が優れていて当たり前である。
 「無死で走者を出せなかったチーム」と「そうでないチーム」を別々にした分母の数字同士を比べても意味は無いのだ。
 成功であれ失敗であれ犠打にトライできた時点で犠打にトライできるような好条件で走者を出せていることになる。
 そういえばむのん氏のブログ「カープを強くしたい」でも中国新聞に「広島カープは今季送りバントを2度以上決めた試合は11勝3敗2分けのデータもあり」との記事があることが紹介されていた。
(むのん氏はこのデータの意味に懐疑的だったようで、2分けの内容を確認するため今年たった4試合の引き分けの内容を調べたら犠打を記録した試合が1試合しかなく、「どーなっとるん?」となったオチがついていた。)
このデータ(?)の11勝3敗の意味も明らかだろう。少なくとも2回、ある時は3回以上(たいがいは)無死で走者を出し、なおかつ2〜3点以上のビハインドを背負っていない試合をピックアップしているわけだ。この状況では犠打の失敗程度では勝率50%を切るような状況にはならないのかもしれない。

以下は上記のまとめのような話
 長々と3つも問題を並べたが、別にデタラメに並べたわけでもない。
 どれも直接的に「そのこと」ではなく「それ以外のこと」が重要な意味を持っている内容。特に1と3は「余事象」の確認作業と言ってもいいだろう。
1は二択において残った答え。2は犠飛とスクイズのプレーとしての違いではなく、発生後に残された状況。3は「犠打に失敗したチーム」ではないチームとはどんなチームなのかという把握の仕方。
 マスコミの論調や野球関連の掲示板の書き込みの中には、どうもこの余事象の扱いが苦手のようなのが目立つ。典型が3の問題にあった「53%の勝率云々」である。一貫して勝率に影響をもたらしているのは出塁の方であり、この場合の犠打という概念は失敗を含んでなお勝率53%に達するのでは「マジシャンズセレクト」に出てきたわら人形と大差はあるまい。
 そもそも日本語は関係代名詞に相当する言葉がなく、文中の言葉をカッコでくくるような表現が難しいという事情がある。また、英語におけるwithoutやnorといったような余事象を指示し、論理記号に相当する直接的な言葉も乏しい。そして、ある人間の認識はその人間の使う言語に大きく左右される。英語というやつ、時に論理記号が言葉に化けただけに見えることすらある。確かに余事象というものはどのような国の人間にとっても錯覚を誘発しやすいものではあるが、特に日本語の強い影響下にある者ほどその傾向が強くなっても不思議は無い。
 
 ロジックの力で結論を出す前に善悪や価値判断が混じってはいないだろうか。True と False は論理の構成の上では等価であるし、必要条件と十分条件は単なる裏返しである。小ネタの2の「別の誰かが」のチャンスとピンチの話と同じ。論理的に「そうであること」と「そうでないこと」は等価とも言える。
 「そうでないものの集合」というカテゴリーの方が多くの情報量を含んでいる場合も、余事象の方に重要な情報が含まれている場合も普通にある。
 「○○であること」と聞けば何となくそこに意味や価値を見出し、「○○でないこと」は単なる否定、「「○○であること」でないこと」と聞けば関係のない単なる残り物、ついそんな感覚にとらわれる人は多いのかもしれない。人によってはつい「十分条件は必要条件より重要」みたいな感覚になることもあるだろう。そもそも必要条件の意義が理解できない人だっている。
 命題自体が否定できなくとも、必要条件の方が否定可能な形になっていることがある。必要条件が否定できれば最初のテーマは否定できたことになる。最初の命題の直接否定が無理な場合、必要条件の方にターゲットを変えて否定にかかる、こういうスジの良い証明問題が小ネタの2「ブログ書いてたら長くなっちゃったので」の中の弾丸50発の証明問題でもある。これとは違う命題で、逆に十分条件の方を肯定する解法だってある。
 おなじみの数Tの教科書で、逆だの裏だの対偶だのが最初の方に出てくるのは偶然ではない。重要であり、後に続くカリキュラムすべてに影響をもたらすからこそ最初に出てくる。必要条件と十分条件に至っては数学ばかりではなくすべての科目で最も重要な概念とまで言われることもある。


 何の変哲もない必要条件と十分条件の図。BであることはAであることのための十分条件。AであることはBであることの必要条件。
単に裏返しになっているだけで、特別な価値の相違などない。


 ついでにおなじみのベン図。前に紹介した「箱ひげ図」や「ろうそくチャート」と同じ、簡単な図に大きな情報量・重要な概念が集約されている。
 「AでありBでなくCでないもの」「AでありBでありCでないもの」「AでありBであるものすべて」「AでありCでないものすべて」など、数多くの概念が例えばAの中の4つのパートだけで表現できてしまう。でもこの図が苦手の人は多い。
 例えば学校で最初にこのベン図を習うとき、教師が@「Aであり、Bでないもの」A「Aであり、Bであり、Cであるもの」B「Aでなく、Cであるもの」C「Aでなく、Bでなく、Cでないもの」の4つを判別できるようなベン図を描き、色を塗るように指導したとする。
 このとき、ABC3つの円を隣の余白にコピーしてそれぞれ「Aでない」「Bでない」「Cでない」としちゃう生徒は意外といる。6個の○にしちゃうわけだ。
 ひどい時には@からCの条件に対してバラバラに単なる○を重ねず4つ書いてしまう生徒までいる。○○でないこと、の概念が頭の中にないのである。
 このような生徒は他の教科も推して知るべしであるが、特にこのへんは身に付けておかなければ他の教科の実力アップができないばかりか、将来の実生活への影響も心配される。理数系科目すべてに支配力を及ぼすばかりか生きる力に直結する課題だから。
 「自由な発想」とか一部の無能な教師の隠れ蓑になってきたきらいはあるが、これはそれ以前の問題だ。
 変な壷とか買わされませんように。

 3の回答編でもふれたむのん氏のブログカープを強くしたいでも、氏のエントリーに対して
「結局バントの多いチームが優勝する。いい悪いの問題じゃない。事実そうなんだからしょうがない。野球というゲームがそういうふうにできてるってこと」
といった内容の反論があったようだ。
 考える時に条件立てを誤るとカギカッコの中のような結論に陥りがちだ。特にこのような考え方は日本においては信仰の域に達した観がある。

 私が子供の頃に「じゃじゃ馬億万長者」なる米国のコメディドラマがあった。1960年代のことなので内容はうる覚えだが
自分の妻が風邪の特効薬を作れると主張する主人公。
話を人づてに聞いた狂言回し役の頭取さんが
「風邪に特効薬なんかあるもんですか。まず栄養と休養です。栄養のあるものを食べて寝ていればせいぜい1週間で治ります。風邪薬は症状を抑えるためのもんで。」
で、後に主人公が自分の妻の特効薬について語る。
「ウチのバーサンの特効薬はなあ、いつでも効くんじゃあ。まず栄養のあるものを食べて、クスリを飲んでゆっくり寝る。そうすれば1週間でケロリじゃあ。」

どのようなゲームであれ、ゲームの戦術は相対的なものだ。野球だって得点や打撃の状況(多く得点の入る時代なのかほとんど点の入らない時代なのか)によって戦術は変わってこなくてはならない。特に3の設問から、バントの話は現在においてはじゃじゃ馬億万長者を笑えない話でもある。
有効なバントとは二人の走者がいる場合か、又は、投手の打席であるなどの特殊事情がある場合を除き基本的に二塁走者を三塁に送るためのものである。

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