なぜか遅咲きのスラッガー・山本と門田をPF値から見る

二人の遅咲きの強打者がいる。ともに選手生活前半から普通の選手であればピークに達するはずの年齢までは良い選手とはいえリーグを代表する打者とはいえない存在であったが、30歳を過ぎてから突如としてリーグの看板打者となった。通常であれば引退するような年齢で本塁打王を争った点も共通している。門田と山本浩である。
 およそ通常では考えられないような成績の分布であり、「野球はフィジカルがすべてではない」見本として、また、技術の重要性を物語る打者として語られている。

山本 浩二 門田 博光
年度 打率 HR 修正打率 修正HR 年度 打率 HR 修正打率 修正HR
1969 .240 12 .256 14.4 1970 .250 8 .257 9.0
1970 .243 22 .261 31.5 1971 .300 31 .301 32.3
1971 .251 10 .273 13.9 1972 .309 14 .305 17.0
1972 .258 25 .265 30.2 1973 .310 18 .308 28.4
1973 .269 19 .285 25.4 1974 .269 27 .275 37.3
1974 .275 28 .277 33.0 1975 .280 19 .287 31.2
1975 .319 30 .319 37.4 1976 .300 22 .305 38.5
1976 .293 23 .278 23.9 1977 .313 25 .319 42.0
1977 .308 44 .287 39.5 1978 .250 15 .245 25.6
1978 .323 44 .305 40.6 1979 .278 2 .264 2.4
1979 .293 42 .282 37.7 1980 .292 41 .278 34.1
1980 .336 44 .326 48.9 1981 .313 44 .302 59.5
1981 .330 43 .314 44.3 1982 .273 19 .275 25.5
1982 .306 30 .302 33.1 1983 .293 40 .282 47.0
1983 .316 36 .295 31.7 1984 .285 30 .280 28.7
1984 .293 33 .275 30.2 1985 .272 23 .260 20.8
1985 .288 24 .268 21.1 1986 .262 25 .252 24.4
1986 .276 27 .269 29.9 1987 .317 31 .313 34.6
1988 .311 44 .311 51.1
1989 .305 33 .298 37.9
1990 .280 31 .276 30.8
1991 .264 18 .265 17.6
1992 .258 7 .259 8.0

 左半分が山本、右半分が門田の成績である。それぞれ左から2つが記録に残っている打率、本塁打である。確かに後半に良い成績が偏っており、まるでステロイドでも使用したかのようである。
 しかし、傑出度とパークファクターを考慮すると事情は異なってくる。それぞれ左から3番目の数字が打率傑出度(Relative BA)、4番目がPFを考慮した本塁打傑出度である。4番目には少々説明が必要かもしれない。まず本塁打の傑出度(本塁打率リーグ平均3%のシーズンを標準とした)を算出した後で、1992年の平和台球場のPFの条件をすべてのシーズンにあてはめた。1992年の平和台は両者の選手生活の中で最大のPF値をマークした、すなわち最大の本塁打製造本拠地である。本来は傑出度による複数年の本塁打比較は危険であるが、一人の選手が活躍できる年代の範囲であり、PFを反映させる都合もあったので傑出度を採用した。
 これを見ると山本は若い時期に成績が安定していないものの、後の本塁打王の片鱗を既に2年目に見せている。門田は選手生活後半に単発的に2度大爆発のシーズンがあるが、むしろ安定して能力を発揮しているのは前半から中盤に見える。(アキレス腱断裂年を除く)いずれにしてもMLBのモリターやE・マルチネスなどに見られるようなやや晩成型の選手の成績分布と変わらないもので、不思議な成績カーブにはなっていないのである。もちろん、ボンズのような奇怪なカーブとはほどとおい。
 両者は若い時期から十分な能力を保持していたが、球団の事情から若い時期に低いPF設定を強いられていた上、後半に飛ぶボールの時代が来てしまったためにより良い打撃成績が後半に偏ったように見えるだけのようである。ここに不思議はなさそうである。
 広島は1965年に飛ばないボールを採用している。現代の「飛ばないボール」と呼ばれるボールよりもさらに飛ばないと想定される。ただし、徐々にボールの材質・反発力は向上していったようで、1977年には他球場がかなり飛ぶボールを採用する中、0.89のPF値を記録した。この年に山本は44本塁打をマーク、同年の王がPF値0.88の後楽園を本拠にして50本塁打であったことを考えると、ほぼ王に匹敵する、リーグを代表するスラッガーを広島は手にしたことになる。年齢を考えれば一両年中には両者の力関係は逆転するかもしれない。こうなれば投手力に頼ったチーム戦略からは脱却する一手である。同僚に衣笠が居ることもあって、打撃中心のチーム構成に転換するため1978年から飛ぶボールが採用され、広島球場のPF値はその後リーグ1・2を争う高い設定を続けることとなった。
 門田についても同様に、若い時期に極端な低PF本拠地でのプレイを強いられている。昭和30年代から本塁打を量産してきた大阪球場は昭和40年代中盤から突如として飛ばないボールにシフトした上、昭和47年にはフィールド面積を拡張している。門田はデビュー直後からこの影響をまともに受け、昭和55年頃までこの状況から解放されることはなかった。
 本拠地のPFというのは、それだけでは個人成績に思ったほどの大きな影響を与えないものである。しかし、リーグ平均が低い年に低いPFの本拠地でプレイするといった場合のように、傑出度とPFが同じベクトルの向きであった場合には、実際の記録に残る数字は能力とはかなり離れてしまうもののようである。
 さて、最近の選手で低パークファクターと聞いて思い出すのはなんといっても2004年の三冠王、松中である。過去において多くの三冠王が誕生したが、実は「リーグ最低PF値の球場を本拠としての三冠王」は松中が史上初である。そもそも三冠王とは1を越えるか、下回ってもほとんど1と変わらないようなPF値の本拠地で生まれるものであった。0.76の福岡で達成されたのは奇跡的と言える。本塁打王に絞っても、1957年から2004年までの48年間96シーズンで延べ104人の本塁打王が誕生したが、このうち本拠地のPF値が最低であったのは延べ10人。年間の個人成績で考えるとPF値0.7の場合でも平均的な本拠地に比べて87%程度の本塁打を期待できるわけなので、本塁打王が全く出ないような状況になってはいないようであるが、どうしても首位打者には届かない。別項の「状況を排除したロングヒッター」の項を参照していただきたいが、パークファクター及び傑出度から実質的に多くの本塁打を打とうとすればどうしても打率に影響が出てしまうようである。このハンデを見事にはね返した松中は今後も同様に打ち続けるのだろうか。

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