名指せない名前

ボツネタにするつもりだったので、ブログに入れておいたら、常連さんからブーイングの声は聞こえてこなかったため、こちらに保存しておきます。

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話はいきなりライオンである。ライオンに初めて出会ったとき、人間にとってそれはライオンなどではなく、気味の悪い危険で得体の知れないなにか、怪物である。この時点では不運にも出会った人間にとって全くなすすべはなく、対処することなど思いもよらないことである。
しかしこの化け物にはやがて「ライオン」という名がつけられることになる。
名づけられることによってこのライオンは分類され、特徴づけられる。やがては克服可能な対象となっていく。
非日常の「未知なる物」が「ライオン」という記号に変換され、日常に取り込まれた瞬間と言っても良いかもしれない。
「遊星からの物体X」を思い出してほしい。原題は「The Thing」である。まだ未分類の名も無い危険で得体の知れない、現時点ではモノ。そこにあるそれ。
「トムとジェリー」のエピソードでも、トムさんがノイローゼを患う回があった。トムさんの頭の後ろにグニャグニャとしたよくわからん妄想の物体が描写され、 Thing とロゴが映る。「Man」でも「Car」でも「Cat」でも「Tom」でもなく、名づけられていない不気味な未分類の、日常に取り込まれていないもの。
名づけられていない状態をよく現した題名・描写である。
(最初のライオンのエピはトマス・マンから安部公房が引用したものを学生時代に読んだものであるから孫引きだ。)
しかしやがて、この記号は勝手に一人歩きを始めるのかもしれない。


古代日本では色という概念はあまり多く分類されてはおらず、本来は赤・青・白・黒の4色があるだけであった。世界的に見ても少ない方なんだが、別にこれでも困っていたわけではない。わりと概念を共有しやすい地理的状況・社会構成だったからかもしれない。浅黄色などの雅な多色分類はずっと後、平安時代になってから。
で、色の分類の成り立ちの頃の痕跡は現代でもうかがうことができる。まともな色の形容詞は現在でもあかい・あおい・しろい・くろいの4つしかない。後付けでできた物の中には「黄色い」なんて噴飯モノの活用をしたものもある。今でも最初の4つの形容詞は広い概念的な意味を包含していたりする。
ためしに緑とか紫とか朱色とかを脳内で変換させてみよう。
強引に名詞に「の」をつけて形容詞の代わりにしているだけである。それで我々が日常何か不都合なことがあるかといえば、不便であるかもしれないことを意識すらしていない。
で、この赤いとか青いとかはいつでも字義通りの色を意味しているとは限らない。4つしかない時代、それぞれの色は広い範囲を代表することになる。
「赤い」なら赤だけとは限らず、派手な色や生命力あふれる色を赤いと表現したりしていた。「青い」ならおぼろげなもの、弱々しい色などもカバーする。
たとえば青を例に取ると、今でも青い月だとか青い顔だとかの表現が残っているが本当に青い顔なんて森本のピッコロ大魔王だかのコスプレの時にしか見たことはない。(あ、正確には緑か)
色の名前が現すものは具体的な色そのものではない。
このように、それぞれの共同体における記号の組成は極めて恣意的なものである。色が4色である必然性も無ければ40色である必然性も無い。虹の色だって7色のところから3色のところまで取り揃っている。同じものを見ているはずなのに。どちらの共同体の概念が優れているとかはもってのほか。
共同体の構成員が概念を共有している限り、外部の共同体と接触を持たない限り問題は生じない。

ところで、「赤いきつねと緑のたぬき」と聞いて日本語を学ぶ外国人は違和感を持つかもしれないね。


人間にとって世界は記号による規定のされ方に左右される。
たとえば水。我々にとってお湯と水は断じて異なるものだが、そうではなく全く同じものであると実感する民族のほうが多い。
たとえば兄弟。特にelderとかyoungerとかつけない限り兄と弟の区別がつかないとはなんて不便な言語、と我々なら思うところだが英米の人たちは大して不便だとも思っては居ない。
逆に日本語は父方のイトコと母方のイトコが区別できないなんて何て社会性の無い言語だ、と思われているのかもしれない。
そう思う人達にとっては父方のイトコと母方のイトコは明確に違うものと意識されている。(自分が男ならイトコと結婚する場合父方は絶対禁止だが母方のイトコはむしろ奨励されるなんていう共同体は古来より多かった)
もし顔の右側と左側に異なる記号が付されている社会があったのならば、その社会の構成員にとっては顔の右側と左側は異なるものとして見えるだろう。
記号の成り立ちは恣意的なものだ。そして新しく共同体の内部に侵入してきたもの・新しい概念に対して従来の記号により規定する限り、正当に対応している保証はない。

世界の見え方が違っているのだ。別にどちらが優れているとかではなく、異なる共同体と接触を持たない限り問題はない、というのは野球におけるストライクゾーンの取り方と同じことである。
ただし、自分に見えているこの見え方が相手方にも必ず同じように見えているとする考え方をしてしまうと、そうではなかった時に失敗へと導かれる。
 日本において野球文化は独自の発展をとげてきた。その中で培われた「野球の常識の物語」は記号として流通しすぎてしまったのかもしれない。そしてそれぞれの記号は今の時点で十分な正当性を持っているともいえない状況である。正当性ではなく、流通させやすさの方が優先されてはいないか?
 また、我々は野球を覚えた時点で既に成立している記号の支配下におかれる。ある記号が実態を反映している又は反映していないに関わらず真っ白な状態から野球を理解するようになるまでにこの記号の支配下におかれることになる。
 実際に自分が見たと判断したものであっても、人は記号を見ているだけなのかもしれない。
「よばん」「いちばん」「エース」「守護神」「きっちり送る」「配球」「見送りの三振をけなし続ける高校野球のお偉いさん」物語の中の人間に対して、物語の外の世界の人間と異なる見え方をさせてしまう記号には事欠かない。
ライオンのところまで戻ると、確かにこの記号化、便利ではある。人間が人間であるために避けて通れないことである。しかし最初から記号そのもの、物語そのものを目的として作られたようなのはいずれ駆逐されるべきなんじゃないかとも思う。
一度「名指せない名前」のところまで戻って記号を構築しなおすことがあってもいいのかもしれないね。オリンピックなんかの対外試合を見るたびにそう思う。

4 さてこっからサイトで追加部分。
 表の攻撃が終わったらそのウラ、必ず守備が待っている。でもこれ、微妙に「守備」という言葉にはそぐわない。
 守備と呼ばれる側がアウトを奪いに行き、攻撃と呼ばれている側がそれを阻止しているという見方もあり得る事を考えている人もいる。
 今現在、野球において「守備」と呼ばれているプレーが果たして守備と呼ばれるべきものなのだろうか。ゲームの構造から言って守備と呼ばれるプレーは守備ではないのではないだろうか。
 まず、攻撃と守備が一体化していない球技であることは以前から明らかなことである。どのような球技であれ基本的に相手の得点を阻止することが目的である。その守備が強力であれば、得点を許さないばかりか攻撃に移ったときも有利なフィールドポジションなど、得点しやすい状況で始めることさえできる。こうなれば守備は確かに重要であり、投手に当たる存在の選手など他の球技には見当たらないことから守備力は攻撃力と同等(又はそれ以上)の重要度を持つこととなる。
 ところがここで、野球における「攻撃」と「守備」の分類をよく見てほしい。守備から攻撃への直接の移行など皆無である。必ず攻撃と呼ばれるプレーか守備と呼ばれるプレーの終了時に状況はリセットされ、新たにイニングが開始される。
攻撃時にバット以外のものでボールに触れることは許されないばかりか、何と「守備側」と「攻撃側」で使う用具まで違う。
 試合の成り立ちを考えると、チーム構成員が「攻撃」と「守備」の両方に参加しなくてはならないと決まったのは単なる恣意、偶然そうなっているだけで、オール指名打者又はアメフトのように攻撃時と守備時で交代するルールにだってなり得たはずです。この場合だって今とは様変わりしたゲームにはなるだろうが別にゲームとして存続し得ないわけではない。それどころか最初からそういうルールだったのなら、だれも疑問など持たずに普通にゲームとして成立しているはずである。
 また、片方のチームが9イニング続けて攻撃し、攻撃が終了したところで相手のチームが9イニング続けて攻撃するルールだったとしても、やはり今とは多少様変わりしたゲームにはなるだろうが、ゲームとして成立するかどうかという点には影響を及ぼさない。特に問題なくゲームは進行していく。
 これがもしサッカーなどの攻防が一体化したスポーツだったら、ある時間帯は片方のチームしか攻撃することを許されないようなルールとなれば競技として成立しないだろう。
 「守備」というプレーは独立したものであり、「一つの球技の守備という一面」ではなく、「独立した一つの競技」であると言えることになる。1つの試合と言われるものは2種類の競技を交互に繰り返す混成競技と呼べるのかもしれない。ちょうどノルディック複合や陸上十種競技がそうであるように。
 もし野球が、1イニング10得点までしか許されないものだとして、現行の「攻撃側」がホームを踏んだ回数を10点から減じた数が得点となるルールで生まれていたとしたらどうなるのだろう。現行の「3対0の完封勝ち」は「90対87で勝った試合」ということになる。このとき、現行の「守備」は「攻撃」と呼ばれていたはずである。これが、サッカーも10点までしか許されない競技で、相手方がゴールした回数を10点から減じたものがこちらの得点となるルールだったとしても、現行呼ばれている「攻め」と呼ばれるプレーはやはり「攻め」と呼ばれていたはずである。
 もし上記のルールが現在の野球のルールだったとしたら現在述べられている「守備の重要性」に関する言葉や「試合の流れ」に関して言われているような言葉はどう変質するのだろうか(試合の構造はほとんど変わっていない)。余りにも興味深いことである。ちなみに「マネーボール」で紹介された「アウトを与えない」という表現は現行の「攻め」「守り」の枠組みの呪縛から外に出ているような表現である。
 最初に邦訳された時、「守備」と名付けられてしまったことが一つのボタンのかけ違いとなっていないだろうか。
 「守り」とか「守備」とか、他の球技と同じ名前であるから他の球技の「守り」「守備」と同じなのではないか、という思考回路で現在流通している言説は成立しているように見える。
 アメリカでこのゲームが流通しだした頃の人たちにとってはこの球技、「名指せない名前」の位置にいたに違いない。初期にはどんな競技であっても同じこと。で、その後に生み出された常識(正当なものであれ不当なものであれ)の影響下にあるはずのないこの人たちの目には「攻撃」「守備」と呼ばれる分類が他の球技の分類と一線を画すものと映ったに違いない。それ故「バッティング」や「ピッチング」「フィールディング」といった細分的な名称の方が広まることとなった。
 「オフェンス」や「ディフェンス」などといった分類も、特に日本においてはごく最近になるまで流通はしていなかった。
 名指せない名前のところまで戻って「これが守りといえるのか」という疑問を持てば、流通している野球戦術の多くは無条件には首肯できないものとなるが…

5 一つ一つの分類や名付けの後にやがて一つの体系ができあがる。そしてその体系には年月と共に新しい情報が加わり、増築を続ける建造物のように増殖していくこととなる。
その体系の中に生きる者にとっては見慣れた建造物。でも、「名指せない名前」の時代の人から見ればこれは異様な建造物でありうる。
で、ふと最初の時点に戻ってみれば、どうしてもこの体系に納得のいかないことがある。もしかしてこれは基礎工事の段階で誤っていたのではないか、なんてことを考えつくのはむしろ体系の外に居る人間の方なのかもしれない。
「マネーボール」でも著述のあった「一歩引いて見ること」「野球の遠景」という言葉は単なるキャッチフレーズでもない。
空虚な概念が空気のように流通していても、体系の中に居る人間には中々わからないものだ
例えば「つなぐ野球」。随分とお気楽に濫用される言葉だがこれを明確に定義出来る人間を見たことがない。これが客観的に定義されていない以上、使用する人間によって意味が変わり得る。
甚だしきは攻撃が成功したときにこの言葉をあてはめ、そうでないときはこの言葉が充てられないといった脳内マジシャンズセレクトまでが頻発している。これでは掛け声と何らの違いは無いのではないか。さらに言うと脳内マジシャンズセレクトがある限り誤りを認識することができず、この曖昧な概念と相反しうる概念を排除し、野球というゲームへの客観的な認識を阻害し続けることになるのではないのだろうか。
今や「スモールベースボール」「つなぐ野球」というタイトルに対して、内容が定義されていないにも関わらず、異をとなえることや明確な定義を求めることは禁止されているも同然の状態となっている。このまま放置するとさぞや変わった「建造物」が出来上がるような気がするが、すでにそのような兆候はある。

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