クレタ人はウソつきだ、とクレタ人は言った。

1 前振り
 パラドックスというやつ、誰しも興味を引かれるもののようで昔からずいぶんと多くのパラドックスが残っている。
 パラドックスの歴史を見ると初期の方でまとめて有名なのを発表しているのが古代ギリシャはエレアのゼノン。
曰く、「飛んでいる矢は止まっている」曰く、「アキレスは永遠に亀を追い越せない」。
 最初の方は飛んでいる矢の運動についてのもの。
「この瞬間だけを切り取れば矢は止まっている。次の瞬間も矢は止まっている。このように、すべての瞬間において矢は運動していないので、飛んでいる矢は止まっていることになる。」というもの。
 後の方は、「亀を後ろからアキレスが追い越そうとしている。アキレスの速度が亀の倍だったとして、アキレスが亀に近づいた距離のちょうど半分だけ亀は先に進んでいる。その後さらにアキレスは亀に近づくが、亀はまたその半分だけ先に進んでいる。このようにして、亀は永遠にアキレスが近づいた距離の半分だけ先に進みつづけるので、アキレスは永遠に亀に追いつけない」というもの。
 単なる詭弁と見えなくもないが、既に現代にまで影響を及ぼす(主に無限の取り扱い)重要な問題点をはらんでいる。
ゼノンはアリストテレスによって弁証法の創始者とまで称されている。相手の主張を前提として矛盾を導き出すそのスタイルは19世紀以後の背理法による現代数学の発展に根底で繋がっているのかもしれない。

 どのような道筋を通ったにせよ、奇妙な形のパラドックスは人の記憶に残りやすい。本来重要なのがその道筋の方だったとしても、である。チェスタトンの言葉に「人目を引くため逆立ちしている論理」との定義もある。
 興味を引きやすいのは洋の東西を問わないようで、東洋にも中国の戦国時代に名家という一派があり、「白馬は馬にあらず」などのパラドックスをなしている。(註1)

 で、まあ興味本位で作っているわけでもないんだろうが、こうやって遊んでいるうちにやがて最強のやつが現われることになる。
「クレタ人はウソつきだ、とクレタ人は言った。」
 他のは何とか却下できそうな気もするんだが、これはどうにもならん。
 どこまで行っても堂々巡りは終わらない。どこまでもいつまでも、無限に続くらせん階段。
 有名な話であるが、この場合の「ウソつき」とは、いついかなる場合も偽を言う者のこと。知っている人は多いと思うが一応念のため
@クレタ人がウソつきであれば、前段は成立するが、言った本人が当のクレタ人であるのが問題で、これではウソをついていないことになる。するとクレタ人はウソつきにならない。
Aクレタ人がウソつきでないとすれば、今度は言った当人がウソをついたことになる。言った当人はクレタ人であるので、こちらもまた矛盾してしまう。
 問題なのはこれが自己言及の命題であることだ。

 これが元ネタになって(と言えばややオーバーかもしれないが)「最終定理」とも称される「ゲーデルの不完全性定理」が発表されている。
「数学が無矛盾の体系である限り、数学が無矛盾であることを、数学自身が証明することはできない」
「数学が無矛盾の体系である限り、証明も反証もできない命題が必ず存在する」
 要するにゲーデルというオッサンが「私はウソつきです」と同じ効能の式を作っちゃったわけだ。「この命題は証明できません」という命題。
 クレタ人のパラドックスは最初は聖書にパラドックスとしてではなく現われている。
 ベーブルースの呪いは終わっても、勝手に聖書でネタにされたクレタ人の呪いは終わらないのだろうか。

2 素朴な疑問
 TVの解説や、飲み会での野球談義で実によく取り上げられる話題が「配球」とか捕手の役目について。捕手がグラウンド内部での監督の役割を果たしていることや、巧みな配球で打者を打ち取ったり、打者に能力を発揮させなかったりしていること。ちょっと打たれると配球がボロクソに言われることがある。まるで野球の守備においてすべての因果関係が捕手に端を発しているように聞こえることもある。たぶん格好のネタなんだろう。
 しかしこれ、本当のことなんだろうか?本当だとしても、どの程度の影響があると客観的に認められるものなのだろうか?

 素朴な疑問はすぐに浮かぶ。
 第一は、同じ捕手に対して投げている投手の防御率・失点率があまりにも異なりすぎること。同一捕手なのに平気で2倍以上も異なる失点率の投手たちが必ず存在すること。捕手の能力による影響が投手の能力による影響より大きいとすれば、これは完全に矛盾した話である。失点率の決定要因というやつ、結局のところは(ほとんどか全てかはわからないが)投手の能力に拠っているのではないか。

 第二は、投手の投球というやつ、TV画面で拝見する限り狙ったとおりの場所にたがわず来ることの方が珍しいこと。
TV画面上で配球の解説のため、ストライクゾーンが9分割されて表示されるのはよく見られるところである。これを使って解説者などが投げる側の立場から解説してくれている。投球の組み立てやら打ち取るための狙いやら。見ている側も配球を語るのが当たり前のようになり、「○回のあの配球がまずい。」とか「××捕手はリ−ド面が欠点で」なんて平気で言っている。
だが、ちょっと待ってもらいたい。
 長く続いたTBSの名物番組「筋肉番付」中に「ストラックアウト」なる競技があったのをご記憶の方は多いだろう。ストライクゾーンを9分割したパネルを3回以下のミスですべて落とすことができれば「完全制覇」となる。
これがなかなか当たらない。例えば「1番を狙います」などと言って反対側の9番のパネルに当たっても成功と見なされるルールで、しかも一枚一枚がボールよりはずいぶんと大きなパネルなのに。プロの投手でも5枚以上落とせる人はなかなか出ない。
 昔から言われた「ボール1個分の出し入れ」とか「狙いがボール1つ外れ」などと言われてきた技術論(?)はありゃー一体何だったんだ。
 そればかりか実戦では時に逆ダマまで発生する。捕手の構えた位置とは反対側に来ちゃうやつ。ご丁寧に、その逆ダマに打者が手も足も出ずにストライクを奪われるケースまで発生する。
 一歩進んで、ほぼ全力で投げるという条件を満たした上で本当にそんな細かいコントロールが人間に可能なんだろうか?これほど投球の正確性に疑問があるのに、そんなに細かいリードの効能が意味を持ちえるんだろうか?
あの9分割のシートは打つ側の視点なのではあるまいか。「今3ボール1ストライクだがこのへんに来ちゃった場合のみ打つ。」「ここいらへんは例えストライクでも2ストライクまでは打たない。」
守る側から見て「今、このコースにこういうボールを投げられれば打てない」という考え方が成立するとしても、実はそれは絵に描いた餅なのではあるまいか。ちょうど「今200キロのボールを投げられれば打たれない」というのと同じように。

 このような疑問は洋の東西を問わず発生するようで、捕手別の防御率(Cera)なんてものが考案されている。
 さらに一歩進んで、BASEBALL PROSPECTUS社が詳細な解析に手を染めている。これがまたみごとにラディカルなもので、日本でこんな事を発表しちゃったら石を投げられるか黙殺されるか、といったところだろう。

3 で、BP社の解析結果
 捕手が投手の能力に影響をもたらすであろう10項目が挙げられているが、日本式に言うなら1項目が走塁を阻止する能力、2項目がキャッチングの能力、残りの7項目がリードに関するもの。走塁を阻止する能力というのはこの場合、走者に盗塁を試みさせない能力、投手の邪魔をさせない能力に関与してくる。
 リードというのは便利な言葉だが表現としてやや大雑把にすぎるきらいがあるようだ。送球や捕球といった物理的なアクション以外をすべてひとくくりにしてしまっている。実際に打者に対してどのようなボールを投げさせるかという起案能力と、その前段の投手にも打者にも関連する観察能力、投手を快適な状態で投げ続けさせるリーダーシップ、試合のテンポを人為的に操作する能力などは異なる階層のものであるし、細かく見ると相反する素養を要求するものもある。投手との人間関係を要求されるものもあり、これらは捕手の側だけでは経年維持が不可能である。
 もし、物理的能力以外のこれらの能力を一括して把握しようとするならば、結果である被安打や与四球、要した投球数、そして最終的には失点の多寡に求められなければならないだろう。そしてそれは捕手以外の要素を排除できる条件で得られたスタッツでなくてはならない。パスボールや盗塁の項目は影響を排除するよう補正する。
 二人以上の捕手について、せめて同じ投手が投げていること、せめて同じ野手が守っていること。
 以上を満たす条件として、一人の投手に対してAとBの二人以上の捕手がバッテリーを組み、同一シーズンでともに最低100打席以上の打者と相対している組み合わせをすべて抜き出した。X投手とA捕手・B捕手、Y投手とA捕手・B捕手のように一つのチームで2つ以上の組み合わせがある場合もあり、調査した範囲では3,361とおりの組み合わせが発見された。三千を越える組み合わせ数はサンプル数としては十分なものだ。
 これらの解析の結果、ある捕手が「リード」により一貫して投手の能力に良い影響をもたらしている例は無いことが判明した。
@たとえばA捕手はX投手と組むときに好結果をもたらし、Y投手と組むときには悪い結果をもたらすことが判明したときは、B捕手はY投手と組む場合に好結果をもたらすなど真逆の結果になる例が多いこと。
 さらに悪いことに翌年はこの両捕手が立場を入れ替えるスタッツになってしまうことも普通に見られること。
AたとえばA捕手がX投手と組むときもY投手と組むときも良く投手の能力を引き出している例がある。いずれもB捕手の結果より優れている。これはA捕手の方がリード面で優れているのかと思いきや、翌年になるとXY両投手がともにB捕手と組んだときの方が成績が優れていたりする。
上の2つは例だが、全体について一貫した傾向はついに見つけられなかった。捕手による投手能力の改善・改悪はランダムな結果しか得られない。 
 ここから得られた結論は
「リード面で投手を助けて打者をより多く打ち取らせる捕手の才能というものは存在しない。もしかすると結果は単なる運に過ぎない。」
 意外でしたか?
 何やらボロス・マクラッケンの「フェアグラウンドに飛んだ打球が安打になろうがアウトになろうがそれは投手の能力とは無関係なのではないか?」といった考察とそれに続く騒ぎを彷彿とさせる。

 ここで、ブラックボックスの中味に立ち入らない万人の目に明らかな項目を挙げると
@ 走塁を阻止する能力について(盗塁やエクストラベース狙いを刺す・チャレンジさせず投手を投げやすくする・牽制で走者を刺したり釘付けにするなど)
最も具体性があり、かつ、はっきりとした能力の相違が存在することが認められる項目である。
過去においてはチームに利益をもたらす者ははっきりと大きな利益を与えており、再現性も高い。ある年に利益をもたらした者は前年もそうであることが多く、おそらくは翌年もそうなるだろうと予測できる。
A キャッチング
キャッチングの巧拙で微妙なコースをストライクにした経験のある捕手は多いだろうが、特定の捕手がこのような利益を他の者より有意に多く獲得していた形跡はない。審判をなめてはいけない、という教訓なのかもしれない。
良く考えれば、「自分は微妙なコースをキャッチングの技術によりストライクとコールさせた」だってかなり主観的な話である。
キャッチングで言えばむしろパスボールの多寡の影響の方が大きいだろう。
例えばブラックボックスの中味に立ち入った話でも、PBの少ない捕手に対しては低めの落ちる変化球を安心して多投できるというメリットがある。
B 野手としての捕手
ボテボテのゴロならフェアグラウンドに飛び出して処理することや、他の野手からの送球をさらに他の野手に転送するなど、野手としてのプレーが求められることもある。ビル・ジェイムズによれば、三振を除いた場合、捕手の守備率は使えるスタッツである。守り位置が特定できる上、失策として起きる現象が暴投に偏るので主観的評価がアテにできないとも言い切れない。これは拙サイト「守備力のページ・捕手守備指標(試案)」でも述べたとおり。

@ABについては優秀な選手はシーズンの枠を超えて優秀であり続ける。時に非常に大きな利得が計上され、リード面よりも具体的かつ大きな影響が認められる。
捕手は野手としてのプレーでもリードに比べるとかなり大きな影響をもたらしていると考えられる
 やはり目に見える相違は目に見えない相違よりも大きいようだ。
 航空業界の記録装置としてのブラックボックスのことではなく、世間一般で比ゆ的に用いられるブラックボックスという言葉。そのようなブラックボックスの中味というのは実際に開けてみれば大したものではない、ということは実生活や仕事の上でもよく見られる教訓だ。

「リード面で投手を助けて打者をより多く打ち取らせる捕手の才能というものは存在しない。」か。ラディカルそのもの。
 しかしどうなんだろう。
 これらのことは実際にあるとすべて認めたうえでの話であるが、リードが全く関係ないとなればド素人がホームの後ろで構えていてもリード面では全く変わりが無いことになる。本当にそうなんだろうか?まあ、確かに最上位のリーグの中に所属しているような捕手に限定された話ではあるんだろうが。これらについてはBP社も保留をつけているし、私としても多少は考えていることもある。

4 別の見方で
 まず思うのは、
「どのような捕手についても、各人のリード能力の相違として有意な傾向は見られない。ランダムな結果しか出ない。」という事と、
「どのような捕手についても、投手に利益をもたらしうるリード能力は全く無い」ということは異なる、ということだ。
最上位のリーグの中に所属しているような捕手に限定された話で、「○○で利益をもたらす能力は存在しない」を「○○の能力で差をつけられない」と同じ意味で使おうとしているらしいことは窺えるが。
 
 ある能力があるゲームに大きな影響をもたらすとして、その能力の向上がある時点で効能に比例しなくなるカタストロフィーポイントを迎えることは珍しくない。能力向上のための努力と、コストパフォーマンスの点で見合いではなくなることもあるだろう。
 例えば 160キロのボールを投げられる投手がいたとする。
 160キロを161キロにするのは、130キロを131キロにするのよりはるかに大変である。130キロを1キロ増やすために必要な運動エネルギーの増は160キロを1キロ増やすのに必要な運動エネルギーの増よりかなり小さい。急加速運動なので、速度が上がるごとに上肢にかかるGも飛躍的に大きくなっていくだろう。
 で、この投手が努力の末に160.5キロのボールを投げられるようになったとする。確かに進歩ではある。しかし打つ側から見るとどうなんだろう。160キロのボールと160.5キロのボールにそんなに大きな違いがあるんだろうか。どっちも単に「とてつもなく速い球」としか見えないだろうし、どっちが速いのかは認識すらできないかもしれない。

 例えば高校野球において捕手は「自分のパートナーの実力を引き出すこと」という課題に直面する。多くの者にとっては人生で初めての体験かもしれない。捕手というポジションに取り組む本人に、その適正があるかどうか、最初の時点では判らない。あらかじめ精神面・頭脳面で適正のある者がふるい分けされているわけではないので非常に大きな能力差ができるのは当然である。このような課題に取り組む年数から言っても1年生と3年生で非常に大きな差ができて当然である。
 高校からプロまでの間にふるい落としを経るので、プロ野球よりずっと多くの者が高校野球を経験することになる。この高校野球において、捕手のリードの差は大きいであろうし、育成による上達の幅も大きいだろう。そして捕手が対戦相手と対等の能力を保持していないチームはチーム全体の守備力が上手く発揮できないというような実態を見ている人間の数が多くなるのは当然のことかもしれない。
 このため、「捕手のリードで試合結果は大きく変わる」「捕手のリーダーシップが守備力に大きな差異となって現われる」「捕手の育成がプロ球団にとっても最も重要」といった「常識」が流布するのも無理はないのかもしれない。確かにプロの捕手としてプレーする者は高校・大学を卒業してからもリード面を磨き続ける。最初の高校の時点から見れば神のごとき能力に見えるかもしれない。効能の差も大きなものになっていると思いがちだ。しかし「能力が高い」ことと「能力の差が顕在化しやすい」ことは全く別の話である。これは「別の誰かが」の2で守備について述べたこととある意味共通している。

5 どうして結果となって現われないの
 投手に良好なパフォーマンスをもたらすであろうリード面の能力とは、必要条件のことではないのだろうか。少なくとも高校大学あるいはマイナーでのふるい落としを経てMLBに生き残った程度の能力を持った集団の中では、どのようなやり方であれ能力差があるにしても結果の差として顕在化するほどの差異は見られない、ということなのだろう。
 他の者と比較してはっきり落ちる捕手、明らかに多数のものが「投げにくい」と感じるような捕手は第一線に出るまでに淘汰されてしまっているのではないか。このため残った選手だけの間で言うならば顕在化するほどの差をつけられない、とも言える。
 これが2A又は3Aレベルあたりからそうなのか、NPBレベルあたりからそうなのか、MLBになって初めてそうなのか、非常に興味は尽きない。いずれ結果を収集して取り組んでみたいところだ。
 (別の競技でも、例えばサッカーで「ベッケンバウアーの1試合の走行距離は6,000メートル」という研究が昔々発表されたことがある。この研究自体に特別な意味は無い。6,000メートルを走ればベッケンバウアーになれるのなら箱根駅伝の参加者は全員ベッケンバウアーである。しかし、6,000メートルすら走れない者がベッケンバウアーになることは諦めた方がいいだろう。これが必要条件だ。)

 捕手が考え、投手にとって良い状態で投げさせようとする。そしてそれを投手に伝えたり投手の精神面を良好な状態に保つよう働きかけたりする。これは無形のもので、人間関係が関わってくる。先週上手くいったことが今週も上手く運ぶとは限らない。
 さらに捕手が配球を起案したとして、この時にさきほどの投球能力の問題に直面する。バッテリーが考えたとおりの投球を、ほぼ毎回投手が実演できる保証はない。
 次に投手が自分たちの考えを投球として実現できたとする。直後に直面するのは打者という関門である。バッテリーによる直前の観察から投手の手をボールが離れるまでに彼の気が変わっていないだろうか。また、打撃結果だって常に順当な現われ方をするわけではない。円い断面の物体で球形の動く物体に打撃を加えようというのである。守備側・攻撃側の読みが当たっていようがいまいが結果は保証の限りではないという側面は避けられない。その動かぬ証拠が運によりゆらめき続けるBABIPである。
 このように、捕手の立場からの起案から結果の実現までの間には多くの手続きと多くの分岐点が待っている。投手のコントロールのように直接的に他者の介在無く結果が現われるようなものではないのである。途中経過で多くのノイズが混じることから、余計に能力差が現われにくくなっているということも言えるだろう。
 
 BP社がなしたようなスタッツは、過去の日本においては正しく計測された後に発表されたことはない。このため、守備と同じように根拠なしの言い放しが放置されてきた。かつて捕手の立場にあった人たち、あるいはベテランの捕手に影響力の強い、声の大きな人たちが多いせいもあり、捕手の重要性は過剰に語られてきた。野球中継のコメントなどを聞いていると、捕手というやつ、座ったまま空中浮遊をする以外のすべてのことをやらかしそうである。

6 さて一番よく語られる配球なんだが
 中継においては「配球」あるいは打者に対する読みが実によく語られる。特にラジオになると、映像で説明することができないこともあり、配球とか投打の心理状態について多くの時間を割いている。
 この中でどうしても気になるのが「読みあい」という言葉。相手の出方から自分の対応を決めること、さらにその自分の対応を読んだ相手の出方までを読んで対応を考える。相手の出方を予想するような意味でこの言葉が使われることが多い。これはちょっとまずいんじゃあないだろうか。
確かに囲碁将棋でも読みあいという言葉は存在する。しかしそれは客観的な戦況が盤の上に存在し、読みとはこの戦況についての読みである。相手の着手を予想できなかった側が負けるのではなく、その戦況での数多の着手やその後の変化を読みきれなかった側が負けるのである。
 ところが、相手の考えの中に自分自身が介在することを前提にした上での予想合戦となればこれは最初の方で書いた自己言及と同じことではないか。無限に続くらせん階段はじゃんけんの予測にも似ている。これは現在流布されている「采配」についても同じことなのかもしれない。観測者が勝手なところで切り取って「これが最終解答である」と思い込んでいるだけで無限らせんはどこまでも続く。
 
 今日の放送でも配球について語られている。確かに話をするには魅力的な材料なのかもしれない。
 ただし、捕手から見て、自分の発案で打者を打ち取った成功体験はすぐれて主観的なものである。打者を出し抜いて普通は投げないようなボールで打ち取った「してやったり」の経験は誰しもあるんだろう。しかし、捕手の側でこうして打ち取ったと思っていても、打者の側からすると事情は異なり、全く異なる理由で打ち取られているのかもしれない。単に投球の球威が優れていたのかもしれないし、単なる打ち損ないということもあり得る。
 独自のアイデアで打ち取ったのが事実だとしても、同じアイデアによる収支決算が赤字であることも十分にあり得る。1度の成功を上回る損失を別の場面で被っている場合のことであるが、このような実態と選択的記憶の働きがあいまったとき、悪意なしに虚偽が流通させられることになる。
 
 今日もどこかの企業で管理職候補の研修が行われているんだろう。そのテーマで定番の一つが「狭い範囲での成功体験にとらわれてはいないか?」「その成功体験が異なる状況の下でも同じような成功を保証するものではない」だそうだ。 
 特定の体系の中に居る人間にはその体系の欠陥を俯瞰的に捕らえることは難しいのかもしれない。(註2)数学ですら自身の体系内では自身が完全に無矛盾であることを証明できないのだ。今現在流布している「望まれる捕手像」は果たして正しいものなのか?「伝説」に縛られて優先順位を誤っていないだろうか。

 最後に、少なくともMLBでは、そしておそらくは他の技術の高いリーグでも、捕手のリードにより他者と比較して大きな利益をもたらすことは難しいらしいことはいえる。しかし、これは頭脳面で捕手が怠惰であって構わないということを意味するものではない。BP社の研究は悪くとも他の捕手に伍して運の範囲内に効能の差を抑えられる程度の能力を有する捕手でなければ生き残っていないことも意味している。このレベルから落ちたとき、遠からず淘汰されるのは自然の流れであるのかもしれない。

(註1)
 この名家、墨家の一派をなしていたらしい(これ、間違ってたらごめん)。墨家はとにかくヨソの国への侵攻を否定して非攻を説き、技術的には篭城戦に極めて優れた実績を持っていた。よって、習慣や自分の主張、家訓など大事なものをかたく守り通すのを今でも墨守という。
ちょっと前に映画で墨攻というのがあったが、題名的にあえて矛盾をおかしている。これも一つのパラドックス?

(註2)
 私が子供の頃、野球のプレー中に下半身が流されるようなプレーが見られたとき、見ている年配者はよくこういった感想をもらしたものだ。
「あの選手は下半身を強化しなくてはならない。ウサギとびを集中的にやる必要がある。」
今聞いたら噴飯ものの言葉であるが、当時の人間の知識の不足について云々しようというのではない。
だいたい1980年代に甲子園へ行った北海道内の某野球名門校の球児ですらこれを練習でやらされたと語っているし、私の通った大学の体育会でウサギ跳び禁止の大号令がかかったのは昭和50年頃の話である。
おそろしいことに、当時の「常識」では「ウサギ跳びで下半身強化」は正しいことだったのだ。それまでの野球選手は身体能力強化の面からは延々とムダをやり続けていたわけだ。おそらく、少年期からウサギ跳びをいっさいやらずに済んだ世代は松井・イチローあるいはその少し前あたりからなんじゃあないだろうか。
俯瞰で見ることができるのは後の時代の人間だけだ。現代日本の「野球常識」もこのウサギ跳びと同様のものが残っていない保証はない。

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