(25)志

自らの内側から湧き上がる熱い想いに心を傾け、「志」を自得したならば自反、自省してみることだ。そして、なんらやましいところなく己の信念が確固たるものであれば、「真田の槍も為朝の矢も透らず」の如く強き心で目的に向かって道を歩みだす。

『自ら反みて縮ければ、千万人と雖も吾往かん』(孟子)

ただ、道には壁がつきものである。同時に人の心(ココロ)は「コロコロ」するものだ。したがって、常に自反、自省し「志」を強固なものにしておく必要がある。


ここが大きな分岐点なのだ。

ある人は、壁と遭遇するや否や「志」とは正反対の道を平気な顔で歩もうとする。しかし、ある人は、壁を一所懸命乗り越えようとする。私はそういう人を尊敬するし、私自身そういう人間でありたいと念じている。

心から湧き出した「志」を強固にするのもまた、心なのである。

安岡正篤曰く、
『人間には痩せても枯れてもという気概が必要だ』(「照心語録」)

孟子曰く、

『恒産無くして恒心有る者は、惟士のみ能くすと為す。民の若きは、則ち恒産無ければ、因りて恒心無し。』

孟子さんがおっしゃった。

「なかなか志業がうまくいかなくて、たとえ日々の暮らしも一汁一菜であったとしても、『志』を抱き続け、眼の輝きを失わない人物こそ、『窮して困しまず。憂いて意衰えず。』(荀子)たる本物の士(大丈夫)である。しかし、ちょっと懐具合が悪くなると、眼の輝きを失い楽して儲ける道に歩み寄る人間がなんと多いことか…。」
「皆に言っておきたいことがある。よく聴いてくれたまえ。」
「私は昔、こんなことを言ったことがある。『文王なしと雖も猶興る』と。周王朝を築いた武王、周公旦の父、文王というのは偉大な聖人であった。世の中がどんよりしてくると、皆、文王のような人物が現われて世直ししてくれるだろうと期待をする。その気持ちはよく分かる。しかしだ、それでいいのだろうか。例えて言うなら、君たちの会社で困ったことがあったとする。その時に誰かが何とかしてくれるだろうという考えでいいのだろうか。私はそうは思わない。誰かの登場を待つのではなく、自らが判断し行動することが大切なのだ。このような人物を『猶興の士(ゆうこうのし)』と言う。君たちが一度『志』を得たならば、この『猶興の士』たる気概が大切なのである。」

このような先人の箴言は、私たちの心を熱くし、自反、自省の契機を与え、「志」を強固なものにしてくれるのである。