雑文集

 トップページへ戻る。
 
15年ぶりのジャカルタ    インターネットにおける著作権
天狗会 - Sentimental Journey to Jakarta     YouTubeにリンク
ジャカルタの一番熱い日    通話料を気にしてのインターネット・ローミング
「インドネシアの独立と革命」および「インドネシア現代史」    技術革新時代を代表する五つの先端技術 
長編記録映画「セレベス - 海軍報道班員の報告   今時、プラント取引・海外工事・資源開発はタイムリーでない
TVドラマ - 不毛地帯   昭和30年代と1970年代
イスラム暦    昭和20年代と“もはや戦後ではない”高度成長の昭和30年代
保存されている植民地時代の建物   懐かしのメロディ
ジャカルタ地図の変遷   懐かしの名画
愛国の花 - ブンガ・サクラ   浜町河岸今昔

ブンガサクラは歌われたようだ

  多摩丘陵の散策 
1962年美智子妃とブンガサクラ   春秋苑墓地 

1962年ジャカルタの日本人

  春秋苑にある著名人の墓所 
プルダニア銀行の回想(創立三十周年記念側面史)    緑ヶ丘霊園と東高根森林公園
1960年代絵葉書に見るジャカルタ   皇紀二千六百年 

Des Indesはデザーン

  日本の戦歴
南の島に灰が降る-グヌンアグンの噴火   現代に残る歴史の足跡-横須賀見聞記
1983年6月11日ジャワの皆既日食   戦時下の日本人の精神構造
ジャカルタでの家庭生活   多摩丘陵に残る旧日本軍の遺跡 
寅さんと私とインドネシア   東京湾要塞・猿島砲台跡 
絵葉書になったテメロー橋 - 私がこの橋を架けました。   旧満州の汽車の旅

地図に残る仕事-男のロマン

  20年ぶりの深圳
浄水場の見学  

紹興酒と灘の生一本

橋梁談合   戸籍上の廣澤
連邦準備銀行(FRB)とワールドトレードセンター   江戸っ子と戸籍
ありし日のワールドトレードセンターとグラウンド・ゼロ   印象派
米国旅行(2004年)で体験した珍しい事柄   私のアルバム
JFK空港で探知犬に摘発される    
米国旅行1ヶ月(2008年)    
大リーグとPGAツアー    
テキサスでイチロー    
テキサスでPGAツアー    
 
 
 








































皇紀二千六百年
 先日、天狗会メンバーの大森君と一杯飲んだ折り、「紀元二千六百年」(今年西暦2010年は皇紀2670年)の真偽について、論争した。
 皇紀2600年はある程度は史実に基づいているというのが彼の意見で、これに対し、私は、神国日本を国民に押しつけた皇国史観に基づくまったくの虚構と反論した。
 大森君は、カイロに約10年駐在経験があり、エジプト5,000年の歴史に通じている。
 ピラミッドが建設されたのが紀元前2800年頃だそうで、ツタンカーメンが出た古代エジプト王国の末期は紀元前7世紀頃。アレクサンダー大王が、アレクサンドリアを建設したのが紀元前4世紀、その後、ローマ帝國が始まる紀元前1世紀までのエジプトは、クレオパトラで有名なギリシャ系のプトレマイオス王朝だったという。
 古代エジプト史の成り立ちから判断して、皇紀2600年も同様の経緯・経過があるというのが、大森君の論拠である。私の反論は、「日本の存在が史書に表れたのは、飛鳥時代以前の魏志倭人伝の邪馬台国だから、西暦3世紀か4世紀頃、それ以前は、縄文とか弥生の原人の時代で、原人による日本統一はあり得ない。」というものである。
 帰宅してから、早速、古代史のおさらいをした。
 漠然とした記憶の古代史を改めて見直してみると、そうだったのかという事実が次から次へと出てきた。
 日本の存在を初めて記した中国の史書は、西暦3世紀頃の「魏志倭人伝」と認識していたが、調べてみると、「倭」ないし「倭人」が、中国の歴史書物に登場するのは、弥生時代中期の紀元前150年頃の『漢書』だという。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の植民地楽浪郡(漢朝により朝鮮半島に設置された地方行政機構)を介して漢王朝(前漢)へ朝貢しており、「倭」の内部には多数の部族が「国」を形成していたとのこと。つまり、「倭国」の存在は、西暦3世紀か4世紀頃という私の認識は誤りで、紀元前2世紀には存在していたと訂正しなくてはならない。
 それはそうとして、とにかく、かの邪馬台国と卑弥呼が魏志倭人伝に出てくるのはいつだったのか確かめるべく資料をたどっていて、そうか、これもそうだったと記憶を覚ましたのが「漢委奴国王印」である。
 江戸時代、博多湾沿岸の志賀島で「漢委奴国王印」と刻した金印が出土されたが、この金印は、倭奴国の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、賜与されたもので、『後漢書』によると西暦57年ということである。
 横道にそれるが、私は、1992年から95年までの3年間、瀬戸内の常石造船に単身赴任した。そのおり、訪ねてきた家内と北九州までドライブしたことがある。関門海峡を渡り、太宰府を訪ね、また北九州市内の元寇防塁跡を見に行った。その時、足を伸ばして、海の中道伝いに志賀島を訪ねている。
 さて、邪馬台国と卑弥呼である。邪馬台国の名前が史書に登場するのは、西暦280年~290年頃に編纂された「魏志倭人伝」とのこと。このことから、邪馬台国は、弥生時代の1~3世紀にあった「倭国」の1部族と推定されている。また、卑弥呼は、2世紀から3世紀にかけて、いくつかの史書に、その名前が記されているという。
 なお、「魏志倭人伝」とは、正確には、中国の正史『三国志』中の「魏書」に書かれている「東夷伝」の「倭人の条」の略称だそうだが、日本では「魏志倭人伝」で知られている。
 諸々の中国史書から判断して、弥生時代の紀元前2世紀から西暦3世紀頃にかけて、中国で倭国と呼ばれていた九州から大和地方にかけての地域には、多くの部族国家が混在していた。
 なお、「倭国」という名前が、初めて文献に現れたのは西暦107年とのこと。2世紀後期になると倭国内の部族間で「倭国大乱」と呼ばれる大規模な紛争が生じ、邪馬台国の女王である卑弥呼が「倭国王」に就くことで収まった由。
 紀元前150年頃の『漢書』に「倭」ないし「倭人」が登場、2世紀の初めには「倭人」の勢力圏は「倭国」と呼ばれるようになる。2世紀後半、卑弥呼が「倭国王」に就いて(178年 ~184年)、「倭国大乱」が収まる等々、一連の史実が中国の史書に記されている。
 これらの史実から判断して、古事記や日本書紀が著している紀元前7世紀(BC660年)の神武天皇の即位は、卑弥呼が「倭国王」に就いた時よりも800年以上も昔であり、神話・伝説の類と言わざるを得ない。現代の歴史学においても、神武天皇の存在は前提とされていない。神武天皇即位のBC660年は、日本では弥生時代初期(さすがに縄文時代ではない)、中国で春秋時代、ヨーロッパではギリシャ、エジプトは古代エジプト王朝の末期である。
 卑弥呼の後、倭国に王権が成立した3世紀から飛鳥時代の始まる6世紀末(592年)までの日本の時代区分は、「弥生時代」が終わって前方後円墳で知られる「古墳時代」である。歴史学の定説によれば、この間に、今日につながる天皇家の王権が確立されたという。
 6世紀末から8世紀初頭にかけての飛鳥時代の天皇陵は、前方後円墳ではなく、大型の方墳、円墳となり、さらに八角墳が採用されるようになったとのこと。
 飛鳥時代(592~710)になると、神話、伝説ではない日本史が始まる。聖徳太子が推古天皇の皇太子となったのが西暦593年、法隆寺の建立と遣隋使の始まりが607年、遣唐使は630年からである。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌子(後の藤原鎌足)による蘇我氏打倒のクーデターである「大化の改新」は645年である。
 そして、西暦710年、元明天皇が平城京に都を遷すことで、奈良時代が始まる。今年2010年は平城遷都1300年である。
 奈良時代は、律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権国家を目指した時代であった。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、天平文化が栄えた。『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した。
 日本書紀は、日本における最古の正史である。神代から持統天皇の時代までの歴史が記されている。中国の歴史書の体裁にならい、漢文の編年体で記されている。
 日本書紀によると、神武天皇は日本の初代の天皇であり、即位は辛酉年(皇紀元年)1月1日となっている。「辛酉年」は『日本書紀』の編年から遡ると紀元前660年に相当する。
 日本書紀は、皇紀元年を定めるにあたり、中国の「讖緯説」を採用したと推定されている。推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年とした。「干支」が一周する60年を1元といい、21元を1蔀として算出される1260年(=60×21)の辛酉年に国家的革命が行われたというわけである。
 明治政府は、天皇を中心とした国家支配の正当性を内外に誇示することを目的に、神武天皇即位日を紀元節と定めた。2月11日という日付は、文部省天文局が算出したというが、具体的な計算方法は明らかにされていない。紀元節は国家主義や軍国主義の宣伝に大きな役割を果たした。特に、西暦1940年が神武天皇の即位から2600年に当たることから、もろもろの「紀元二千六百年記念行事」が執り行われた。昭和15年11月10日には、宮城前広場において内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。式典に合わせて「皇紀2600年奉祝曲」が作曲された。当時、まだ幼児であった私は、式典については知らないが、「皇紀2600年奉祝曲」のメロディと“紀元は2600年”という歌詞は、耳にしみこんで、今も思い出せる。
 以上調べた結果、皇紀2600年は、根拠のないつくりものであることは明白である。押しつけられた皇紀は、日本国民のみではない。インドネシア独立宣言の起草文の日付は1945年8月17日ではなく、05年8月17日とあり、皇紀2605年が用いられているのである。
 それにしても、かっての紀元節を「建国記念日」として復活させたのは、どういうコンセプトだったのか、あらためて質したくなった。また、今回覗いた宮内庁のホームページには、腹立たしい思いをした。「歴代天皇陵の案内」というサイトには、神武天皇から昭和天皇まで124代(重祚が2人なので122人)が列記されている。
 しかるに、この122人の天皇のうち、初代・神武天皇から第9代・開化天皇までの9人は実在せず後に創作された架空のものというのが歴史学上の定説である。日本書記の編年に従えば、9人の天皇の在位期間は、BC660年からBC98年までの658年間になり、1人平均73年の在位であり、非実在説を裏付けている。
 陵墓についても、第10代崇神天皇以降の陵墓の所在地は、考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳が存在しているにも関わらず、実在が否定されている9人の天皇の陵墓は、考古学的に見て後世になって築造された古墳か、自然丘陵のいずれかで、古墳時代前期から中期頃に築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない。
 つまり、適当な古墳を、実在していない天皇の陵墓としてあがめ奉っているのである。宮内庁は学術的信頼度について「たとえ誤って指定されたとしても、祭祀を行っている場所が天皇陵である」という基本見解をとっている。また、「陵墓は、皇室と国民が尊崇の対象としている生きた墓であり、尊厳の保持が重要」として、古代の天皇陵の学術調査を拒絶している。





































































 日本の戦歴

手許に30年前の毎日グラフの別冊”日本の戦歴”(1965年8月1日)と臨時増刊”続日本の戦歴”(19651125日)がある。ボロボロになり、あちこちビニールでつぎはぎされている。1970年に刊行された”外地に残る日本の戦歴(南方編)”は製本がしっかりしているので、見やすい。

20数年前、クアラルンプールへ出張する前に、”外地に残る日本の戦歴”を見た。戦中と70年時の写真を並べて”銀輪部隊が進撃したクアラルンプールの市街 現在同じ場所を車が走る。正面の樹木も変わらない。写真上の黒煙をあげているのは駅”という説明があった。ペナンの写真もあった。古い砦と海岸沿いのホテルの裏庭に据え付けられた偽装砲(儀装砲?)を写したものだった。出張中に機会を作って見て来ようと思った。クアラルンプールに着いてすぐに、写真の場所に立ち、写真と同じ光景を見た。1ヶ月の滞在になったため、休日にペナンに行った。紹介されていたホテルに泊まり、砦にも出掛けて儀装砲を見た。

写真で見た場所、映画やテレビで見た場所に立ち、かねて見たいと思っていたその光景を自分の目で確かめるというのは、たとえそれが期待はずれのものであっても、胸のつかえがおりたという充足感がある。日本の戦歴シリーズで紹介された戦跡や歴史的にあるいは何かで知られる様になった場所を訪ね見ることが、あまり人には言えない私の道楽になった。

私は1962年1月、商社マンとしてインドネシアのジャカルタに赴任して以来、30数年の間に通算12年ジャカルタに駐在した。戦前は蘭印と呼ばれ、じゃがたらお春の昔から今日まで、歴史的にも戦跡としても知られる場所が多いインドネシアを、私は機会をとらえては見て回った。落下傘部隊が降下したパレンバンの精油所に出張したこともあった。出張でシンガポールに立ち寄ればブキテイマやジョホールバルに足を伸ばした。日本の戦歴に台北の円山大飯店が大きなカラー写真で載っていた。出張時に見に行ったところ、正面にはたしかに円山大飯店があるが、写真と違ってずっと大きい、裏に回ってやっと目的物を見ることが出来た。北ボルネオのコタキナバルに1年駐在したことがあり、この間にサンダカン八番娼館で知られるサンダカンやクチンを訪ね、日本の戦歴にあった場所を確かめている。1975年から79年まで4年半、ジャカルタで家族と暮らしたことがある。家族旅行でシンガポールには何度も行った。セントサ島というレジャーランドに、日本軍が連合軍に降伏する場面を蝋人形で模したサレンダーチェンバーという展示館がり、これを見に行ったりした。その頃は荒れ果てていた日本人墓地にも行った。多数のからゆきさんが眠り、幾つかの日本兵の墓標の他、寺内元帥と二葉亭四迷の墓が並んでいた。79年帰国途中、マニラに立ち寄った時には、モンテンルパ刑務所や日本の戦歴に載っている写真通りに整然とした米兵墓地を見ている。数年前にも、バンコックに家族旅行をした。この時には車で3時間かけて戦場にかける橋を見に行った。

私は学童疎開を体験した世代である。空襲で家を焼かれた。予科練やラバウル小唄を歌い、神風特攻隊やサイパン島玉砕に悲壮な感動もした。敗戦の日と東京裁判の判決のラジオ放送も覚えている。高校へ通う都電の窓越しに、戦犯が巣鴨拘置所から釈放される光景を幾つも見た。戦後、比較的リベラルな環境に育った。好んで歴史物を読んだ。太平洋戦争の戦場だった地、かっての日本の植民地が仕事場になった。私は近代日本の歴史を身をもって学んだ。

今、閣僚の歴史認識が問題になっている。遺族への配慮で侵略と言ってはまづいのかもしれない。しかし、植民地や占領地の住民に対して、大日本帝国という独善的で神がかりな精神主義を強制しただけでも侵略である。戦中のあの精神構造と国際感覚は、ナチに似て、ちょっと違う。日本人の場合は、欧米先進国へのコンプレックスも加わっていたのではなかろうか。捕虜への虐待の延長線上である南京大虐殺は、起こるべくして起きた事実と考えている。

日本の戦歴で紹介され、いつかは行こうと思っていた場所に、ジャワ島のオランダ軍が日本軍に降伏調印し、今もその部屋が博物館として保存されているカリジャテイ飛行場があった。ジャカルタからは車で行ける距離なのに、高速道路が出来るまでは容易に足を伸ばせなかった。マニラ沖にあるコレヒドール要塞は、マニラから船で3時間以上もかかり出張の合間ではなかなか時間がとれず、一昨年の出張の時、休日のツアーに参加して見に行った。

昨年始め、グアムとサイパンへの出張があった。サイパンで、会社が運航している海中展望船に乗る機会があり、海底に横たわるB29と日本の輸送船の残骸を見ることが出来た。もちろん、日本の戦歴を手引きにバンザイクリッフなどの戦跡を訪ねている。

昨年の5月までの3年間、広島の瀬戸内沿いに単身赴任していた。原爆記念館や江田島の旧海軍兵学校には早い時期に見に行った。日本の戦歴に、旧陸軍の毒ガス製造工場があった広島県竹原沖の大久野島と海軍の回天訓練基地があった山口県徳山沖の大津島が紹介されていた。車で行き、便数の少ない船に乗り換えるという不便な場所だったが、瀬戸内に住んでいるせっかくの機会を生かそうと遠出して見に行っている。

ハワイのアリゾナ記念館も同様、長い間行きたいと思っていた。昨年末、定年を迎えて、妻と長女とでハワイ、サンフランシスコ、ニューヨークを2週間がかりで回ることになり、ハワイでアリゾナ記念館に行った。

展示されている資料と映画を見、さらに多数の遺体を乗せたまま沈んで、いまだに油が海面に漏出しているアリゾナの上に建てられた記念館を見た妻と娘が、日本はひどいことをやった、日本人でいることが恥ずかしい、一緒に見に来ているアメリカ人は自分たちを刺すような目でみつめている、暗い気持ちにさせられ、楽しい旅行にはそぐはないと言いだしたのは意外だった。私は、真珠湾攻撃は、歴史上の一齣となり、今頃、敵意を剥き出して日本人を睨むアメリカ人はいない、こうやって日本人がアメリカ人と一緒にアリゾナ・メモリアルを見て回れる平和を実感すべきだ、歴史的記念物を訪ね見るのは、貴重な経験だと力説したが、価値観の相違と一蹴された。彼女たちは、アリゾナメモリアルへ来る前にも戦没者の墓地であるパンチボウルに寄っており、昔から私の影響でこういった場所をよく見ているのに、感情の急変には驚かされた。

日本の戦歴には、他にも沖縄や硫黄島、特攻基地だった鹿児島県の知覧や鹿屋が紹介されており、ラバウルやガダルカナルとともに、機会があれば是非訪ねたいが、その時には一人で行くつもりである。

 現代に残る歴史の足跡-横須賀見聞記
1.3年間の瀬戸内暮らし
 私は1992年5月から1995年の6月まで、広島県の瀬戸内沿いの造船会社に勤めて、丸3年、独身寮で過ごした。それ以前の4年間も、商社の駐在員として、インドネシアのジャカルタに単身赴任していたので、やっと自分の家に落ち着いたという感慨をもった。
 私は東京生まれで、学校も東京、30数年勤めた前の会社でも通算13年の海外勤務を除けば東京勤めだったので、東京以外の地方での一人暮らしはまったく初めての経験だった。まして中国地方は、出張で呉と水島に行っただけの、およそ馴染みのない土地だった。それが、3年間に、山陽自動車道で東は姫路から西は下関まで、瀬戸内海の海沿いで、山陽側は赤穂から防府、四国側は松山、今治から鳴門まで、それに山陰の日本海側も浜田から丹後半島まで走破し、山陰、山陽、四国の一寸知れた観光地にはあらかた出向いた。
 自分が生まれ育ちマイホームのある関東地方ではこういうことは出来ない。休日に出掛けるとしても、妻と一緒では勝手気儘なドライブは無理だし、道路が混むので行き先は制限され、都心を抜けて行く方向は避けるので、北関東はほとんど知らないということになる。
 中国地方には、戦後の荒廃と高度成長の波をかぶらずに残されてきた古い町並みが多い。萩、津和野、松江や倉敷は全国的に有名な観光地になっている。
 重要伝統的建造物群保存地区という国の指定する町並み保存地区に、最近は関東地方からもいくつか登録されるようになったが、中国地方には、萩や倉敷の他にも竹原、柳井、吹屋、石見銀山の大森、四国では脇町、内子と塩飽諸島の笠島など数多く登録されている。私は、この全部を訪ね見て来た。町並み保存のそういう制度があるのを知り、それでは、これまでにも幾つか見ているし、可能な限り見ておこうと思い、はるばる出掛けたものだった。広島から東京への帰り道にも、三重県の関宿を訪ねた。

2.軍国日本の足跡
 見て来ようと思って訪ねた場所のもう一つのパターンは、明治から昭和に至る近代日本史の戦争に関りのある地である。広島の平和公園と原爆記念館、広島は、日清戦争の時には、広島城内に大本営が置かれて、宇品港が陸軍の輸送基地となり、宇品は以後、日中戦争、太平洋戦争に至るまで兵站基地として、ここから大軍が中国へ、南方へと発って行ったのだが、今訪れても往時を偲ぶよすがはなかった。変わった所では、第1次大戦時のドイツ捕虜収容所があった鳴門ドイツ記念館。日本で初めてベートーヴェンの第九を演奏したのは、徳島で抑留されていたドイツ捕虜だったという話はかねがね聞いていた。ここを訪ねたのは、徳島で旅館を経営している同窓の友人に妻ともども世話になった時だった。
 陸軍の毒ガス製造工場があった大久野島と特攻兵器"回天"の基地があった大津島には、悲惨な歴史の爪痕が残されていた。不審な爆発により沈没したという陸奥の記念館のある屋代島は橋で渡れるが、大久野島も大津島も、船でなくては行かれない。これらの島にもう一度行くということはまづ無いだろう。
 瀬戸内海は連合艦隊の泊地だったので、帝国海軍の足跡が多い。かっての呉軍港は、今でも海上自衛隊の基地であり、呉鎮守府長官官舎は入船山公園に保存され、戦艦"大和"を建造した呉海軍工廠は、今は、石川島播磨重工業の呉工場となっている。大和を作ったドックで多くの巨大タンカーが生まれたが、道路から見下ろす巨大ドックは、今はドックとして使われていないと聞いている。
 江田島の旧海軍兵学校には何度も訪ねた。周囲の海と山によく調和した風格のある建物を配在した昔のままのたたずまいは、今に尚、栄光の歴史を物語っている。兵学校の教育は、合理主義を根底として、英国風ジェントルマンの育成を目指したので、精神主義的な陸軍に比べて日本の海軍士官は、現代のビジネス世界にも通用する柔軟でリベラルな思考とスマートなセンスを持つ者が多かったという。

3.歴史の名残を辿る
 話は飛ぶが、私は、商社に勤めた31年間に、東南アジアの主要都市のほとんどに出張し、ジャカルタやマレーシアのコタキナバルに通算して13年駐在した。これらの地のほとんどは、太平洋戦争になにかしら関係していた。 空襲や学童疎開を体験し戦中のニュースの記憶のある私は、機会を作っては、ゆかりの地を見に行った。毎日新聞社が出した"1億人の昭和史"にはずいぶん影響された。これは又、瀬戸内の戦跡探訪の手引きにもなった。そして、司馬遼太郎や吉村昭、阿川弘之の作品を読むことにより、現代に残る歴史の足跡を辿るという興味は弥増した。もっとも私の場合は、学者や作家、郷土史家の様に発表を目的として専門的に調べているわけではない。調べようにも、取材ソースが無く、資料は限られているので、拙い文章にまとめても、内容の無い上っ面だけの見聞記にしかならない。それでも、自分の目で確かめ、新たに知った事実は、記録しておきたい。見るべき場所を見過ごしたり、見たいと思った場所を見損なって、後々まで悔やむのはいやなものであり、見たからといって、なんだこんなものかという失望もあるが、訪ねた場所に歴史の名残を見た時、それがたとえ廃墟であっても、あるいは周囲が近代化した中にわずかに名残をとどめているだけであっても、満足感を覚える。

4.地図の上の横須賀軍港
 呉軍港と並ぶ日本海軍の根拠地だった横須賀については、川崎市の西北部にある私の家からだと道が混んで、時間がかかり、かつ米海軍と海上自衛隊の基地だけの町に、わざわざ出向くほどの魅力も感じなかったので、数年前に1度、鎌倉から足をのばして、日本海海戦の記念艦"三笠"を見に行っただけだった。
 瀬戸内の旧海軍の足跡を見て東京に帰って来たのだから、当然、横須賀軍港を訪ねなくてはとなって、気がついたのは、旧鎮守府や海軍工廠が今どうなっているのか、皆目わからないということである。旧海軍工廠は、住友重機械工業と合併する前の浦賀ドックだという説も聞いた。何も資料がない時点で、現代の横須賀の市街図を見て、米海軍の基地になっている所が、旧鎮守府で、横須賀駅前の臨海公園の対岸にあたる辺が造船ドックの様に見えるので、ここが工廠ではなかろうか。そうなるとドックが対岸から丸見えなので、吉村昭の"戦艦武蔵"にある、三菱重工の長崎造船所が武蔵を建造するに当たって、市民の目をそらせるため、しゅろのカーテンをクレーンにつるすなどして機密保持に苦慮したという話と比べて、横須賀ではどう対処したのかなと思ったりした。  そもそも、江戸末期に小栗上野介が、幕府の財政が底をついて火の車だった当時の金で220万ドルという超大型予算を組み、フランスの技術援助のもとに、相模の横須賀村という寒村に横須賀製鉄所と称した造船所を建設し、これが後の海軍工廠になる一方、この地に横須賀鎮守府が置かれて横須賀軍港に発展して行ったと本で読んでも、現代の地図からでは場所が特定できない。
 さてここに鎮守府と海軍工廠その他重要施設の位置がはっきり明示された昭和初期の横須賀市街図(柏書房"昭和前期 日本都市地図集成"よりコピー)がある。現在の市街図から想像した通り、米海軍は旧鎮守府をそっくり基地として使っている。鎮守府内の海軍工廠も、造船ドックではないかと想像した場所にある。ガントリー・クレーンが何基も連なって屋根状になり工場建屋の様に見えるドックから戦艦"陸奥"が進水している古い写真があるが、これはおそらく北側の奥にある一番大きなドックだろう。ここからだと海面の幅が広くなるので、大和、武蔵並みの巨大空母"信濃"の進水も出来たのだろうという想像が生まれる。

 

 5.浦賀ドック
 浦賀ドックは、海軍工廠とは別な歴史をもっていることも判った。嘉永6年(1853)、ペリーの来航に刺激されて、幕府は、浦賀、石川島、長崎に造船所を開設した。浦賀の造船所は、有名な咸臨丸がアメリカに派遣された時の発着港でもあった。明治になり、幕府の作った長崎の造船所は、明治政府により三菱に払い下げられた。石川島の造船所も、やがて今日の石川島播磨重工へと発展して行った。浦賀の造船所も、明治30年(1897)、資本金100万円で設立された浦賀船渠(株)に引き継がれ、今日の住友重機械工業に至るのである。
 6.見て来た横須賀
 横須賀軍港を唄った歌詞に、トンネルくぐってどうの、という文句があったのを、かすかに記憶しているが、横須賀線からだとトンネルでほとんど海が見えず、着いた所が横須賀駅だった。駅前の臨海公園に、鎮守府逸見門の哨所が1対残されていた。小栗上野介とフランス人技師ヴェルニの胸像があり、いわれを書いた説明の中に、昔は2米の高さのコンクリート塀があって、外部の目を遮断していたとあるので、機密保持に万全の注意を払っていたことが裏付けられた。対岸は米海軍の基地で、幾つかのドックは、修繕ドックとして使われており、大型ドックを見慣れた目で見ると、ずいぶん小さい。緑の濃い小山がそびえる基地の内部を、ゲート越しにのぞくと車が行きかい、いかにもアメリカの基地という雰囲気だが、昔の鎮守府もこうだったのだろうという感じもうかがえた。2度目の三笠見学をしたが、横須賀軍港の歴史が、写真入りで陳列されており、そうか、なるほどなと思う事実が幾つもあった。
 嘉永6年(1853)に、ペリーが浦賀に来航して、鎖国の日本は激変した。幕府は大船建造を解禁して、浦賀、石川島、長崎に造船所を開設することにした。浦賀の造船所では、西洋型帆船"鳳凰丸"が建造される一方、オランダで作られた"咸臨丸"がここに入って来て、万延元年(1860)、幕府の遣米使節の乗ったアメリカの軍艦ポーハタン号とは別にアメリカ向けに派遣されるため、勝海舟が艦長になってここから発ち、ここに戻った。幕府が創設した長崎の造船所は、明治20年(1887)、明治政府により三菱に払い下げられ、石川島も明治8年(1875)、民間の造船所になった様に、浦賀の造船所も、明治30年(1897)、榎本武揚の主唱により資本金100万円で設立された浦賀船渠(株)に引き継がれた。阿川弘之の小説に、山本五十六の親友で、海軍兵学校の同級生だった堀悌吉中将が、退役後に浦賀ドックの社長になったと書いてあったのを覚えている。
 浦賀、石川島、長崎の造船所を開いた後、幕府の勘定奉行の小栗上野介は、慶応元年(1865),横須賀製鉄所の建設に着手した。ツーロンに地形がよく似て、海が深いという理由でこの地が選ばれ、ツーロン軍港の3分2の規模で造船所が設計され、フランス人技師ヴェルニが技術指導したという。同じ年、横浜の本牧に横浜製鉄所の建設も始めているが、横須賀のプラントは、製鋼、練鉄、鋳造、製缶、修理ドックも併せ持った大きなもので、司馬遼太郎によると、官軍の手で非業に殺された小栗上野介は、あのドックが出来上がった上は、たとえ幕府が亡んでも"土蔵付き売り家"という名誉を残すでしょう、と言った、つまり、この造船所は新しい日本に大きく役立つだろうことを予言していたという。幕府は、造船所の建設資金を四苦八苦しながら調達していたが、あと50万ドルというところで、幕府自身が崩壊してしまった。明治新政府が引き継いだ時には、造船所はフランスの会社の抵当に入っており、これを大隈重信が奔走して、英国系のオリエンタル・バンクから55万ドルを15%という高金利で借りて抵当をとりはづしたという。
 着手後6年目の明治4年(1871)に竣功した横須賀製鉄所は、所轄が工部省より海軍省に変わって、横須賀造船所と改称され、その後も横須賀鎮守府に所属して鎮守府造船部、海軍造船廠と名称を変えて、最終的には、明治36年(1903)、横須賀海軍工廠となり、増設、改造を重ねて、日本最大の艦船造修・造機工場となって行く。
創設当時は、木製軍艦の建造から始まったが、明治16年(1881)、イギリス人技師を招いて、愛宕、橋立といった甲鉄艦を建造する様になり、日露戦争後、戦艦の国産化を目指してからは、明治43年(1910)の薩摩に始まり、河内、比叡、山城と戦艦の建造を続け、ついには日本海軍が長門とともに世界に誇った陸奥を大正10年(1921)に建造した。又、大正11年(1922)のワシントン軍縮会議により、赤城を航空母艦に改造した。この赤城は、ハワイ攻撃で名を馳せ、ミッドウエーで沈んだ。更に、大和、武蔵に続く超大型戦艦に仕立てる予定だった信濃を巨大空母に改造したが、信濃は昭和19年、呉に回航途中、アメリカ潜水艦に沈められた。横須賀海軍工廠は、昭和20年の敗戦後、米軍に接収されて、今、極東最大の重要修理工場となった。

7.横須賀鎮守府
 鎮守府とは日本の海岸と近海の防衛を担当する海軍の官庁であり、日本の海岸・海面を5海軍区に分けて、それぞれにある軍港に設置された鎮守府は、所管する海軍区の防御、警備、出師準備を掌り、司令長官は部下の艦船部隊を統率した。横須賀鎮守府は、もともとは明治5年に横浜に設置された東海鎮守府の出先で、浦賀と横須賀に置かれた水兵屯集所の一つだったが、横須賀造船所の発展に伴い、石川島に施設を移転させた横浜製鉄所の消滅などで、明治17年(1882)に東海鎮守府が横浜から横須賀に移転し、横須賀鎮守府となった。この間、明治10年(1875)、夏島より猿島までが海軍軍港と定められたことにより、本格的に横須賀の軍港化が始まっている。それにしても、横須賀製鉄所が建設されるまでは、この辺りはまったく何も無いところで、浦賀の方が、江戸湾防衛の拠点として、ペリーの来航のずっと以前、1720年に、奉行所と番所が伊豆の下田から移されている。 鎮守府の設置の後、陸軍も横須賀の要塞化につとめ、終戦後は、米軍の基地として、横須賀は造船所創設以来、今日に至るまで軍都として発展を続けたと言える。毎日新聞社が出版した"1億人の昭和史シリーズ"の内、"日本の戦史別巻 江田島 日本海軍の軌跡"には、横須賀製鉄所建設時や陸奥の進水、あるいは戦前の横須賀の町並などが写っている貴重な写真が掲載されている。自分の目で現代の横須賀を確かめるべく、出向いた次第である。
 




多摩丘陵に残る旧日本軍の遺跡
 小田急線生田駅からほど近い明治大学生田キャンパスは、かって生物兵器や風船爆弾の製造、中国戦線で使用されたという贋札の製造などで知られる陸軍登戸研究所であった。キャンバス内には、当時を物語る木造の建造物やコンクリートの弾薬庫などが残されている。最近、資料館が整備されて一般公開された。
 また、慶応義塾大学日吉キャンバスは、戦局が悪化してきた昭和19年頃から、三宅坂より移転してきた海軍の中枢部によって使用されるようになった。キャンバス内には、連合艦隊司令部になった巨大な地下壕が保存されている。
 私は、2006年1月25日、アドバイザー仲間の安東さんに誘われて「日吉台地下壕保存の会」が催した「連合艦隊司令部跡」見学会に参加して、この地下壕を見てきた。

東京湾要塞・猿島砲台跡
 多摩丘陵ではないが、旧軍の遺跡である横須賀沖の猿島砲台跡も見学に行った。猿島との連絡ボートの発着所は、「記念艦三笠」の置かれている三笠公園にある。「記念艦三笠」とは、日露戦争の勝利を決定づけた日本海海戦の際、当時の連合艦隊司令長官の東郷元帥の旗艦だった戦艦である。















































 












連邦準備銀行(FRBとワールドトレードセンター
                                       19951211/12
 最近、家族とアメリカを旅行した。ニューヨークの観光に、日本語ガイドによる一日バスツアーを利用した。ワールドトレードセンターの展望台に登ったり、自由の女神の近くまで行けるフェリーを利用するなどそれなりのサービスも組み込まれているが、基本的には走っているバスから、これがウオール街、あれが証券取引所とガイドするだけの観光なので、翌日バスと地下鉄を利用して自分の足でウオール街を歩き、証券取引所の内部見学をし、ニューヨーク連邦準備銀行(FRB)の外観を見て来た。さらに足をのばしてメトロポリタン美術館も見てきた。歩いて見て回るということは、パック旅行と違って交通に苦労するが、位置関係と実物を実感出来ることで充足感を覚える。連銀について、外資系の銀行に勤める娘と論争した。 FRBBBankではなくてBoardの筈だというと、娘は仕事でよく連絡をとるが、Bankだという。帰国後調べた結果、アメリカの中央銀行の役割をしているのは、ワシントンにある連邦準備制度理事会(Board of Governors of the Federal Reserve System)で、今でも昔の呼称のFRBで通っている一方、下部組織であるBankの方のFRB12あり、ニューヨークのFRBもその一つだということが判った。足で見て来たことから、確かめた一つの事実である。
 ◎連邦準備制度理事会(FRBFederal Reserve Board):連邦準備制度の政策決定機関。他国の中央銀行に相当する。
   14年任期の理事7人によって構成される。議長・副議長は4年任期で、理事の中から任命される。議長・副議長・理事は
  大統領が上院の助言と承認に基づいて任命する金融政策の策定と実施を任務としており、また連邦準備制度の活動の最
  終責任を負う。

 ◎連邦準備銀行(FRBFederal Reserve Banks) :市中銀行の監督と規制など、公開市場操作以外の連邦準備制度の業務を
  行ない、また連邦準備券(ドル紙幣)の発行を行なう。連邦銀行(連銀)と呼ばれることもある。以下の
12地区に分割
  されている。
    1地区 ボストン連邦準備銀行
   第2地区 ニューヨーク連邦準備銀行
   第3地区 フィラデルフィア連邦準備銀行
    4地区 クリーブランド連邦準備銀行
   第5地区 リッチモンド連邦準備銀行
   第6地区 アトランタ連邦準備銀行
   第7地区 シカゴ連邦準備銀行
   第8地区 セントルイス連邦準備銀行
   第9地区 ミネアポリス連邦準備銀行
   第10地区カンザス連邦準備銀行
   第11地区ダラス連邦準備銀行
  
 第12地区サンフランシスコ連邦準備銀行
   (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
 映画「ダイハード3」でテロリストが地下鉄事故を装って襲撃したのはニューヨーク連邦準備銀行である。ニューヨーク連銀ビルの写真をわざわざ写しに行ったのは、映画の場面を確認したいためであった。下がその写真。
  
 

ありし日のワールドトレードセンターとグラウンド・ゼロ
 ニューヨークを初めて訪ねたのは、1995年12月で、上記のメモはこの時のものだが、読み返すとワールドトレードセンターの展望台に登っている。翌年、1996年9月にまた、ニューヨークに行き、「自由の女神」があるリバティ島とかっての「移民局」現在の「移民博物館」があるエリス島を見てまわった。その時撮った写真が下である。「自由の女神」と「ワールドトレードセンター」が一枚の写真に収まっている。

   
   ニューヨークには、その後、2004年6月、3度目の訪問をした。ニューヨーク郊外イサカから終点のポート・オーソリティ・バス・ターミナルまで4~5時間、長距離バス・グレーハウンドに乗っての訪問だった。宿泊はグラウンド・ゼロに隣接するミレニアム・ヒルトン・ホテルだった。ホテルから見下ろして撮ったグラウンド・ゼロとグラウンド・ゼロ越しにホテル(右から三番目の建物)を映した写真が下である。 
 
 同時多発テロの影響は色濃く残っており、9/11事件(2001年)以前の1995年には内部見学ができた証券取引所は、この時は、武装警官とバリケードで厳しくガードされて近寄ることもできなかった。





























米国旅行で体験した珍しい事柄

 2004年の訪米では、初めてチケットレス・チェックインを経験した。この時の訪米は、ニューヨーク郊外イサカのコーネル大学でMBA留学をしている婿と娘を訪ねるためであったが、イサカまでは、ニューヨークJFK空港からシラキュースまでの国内線を利用しなくてはならない。
 国内線乗り継ぎのために、娘夫婦が手配したのはインターネットによるチケットレス切符であった。パソコンと英語を解さなくては、これを入手することができない。私は、一応両方をこなせるので、国内線カウンターで、チェックインを済ませるまではできた。
 ところが、シラキュース空港で預けた手荷物を引き取ろうとしたら、ロックしていたトランクがこじ開けられて、中身がはみ出ている状態であった。航空会社にクレームしたところ、TSA(Transportation Security Administration)の発行する"NOTIFICATION OF BAGGAGE INSPECTION"に基づくもので、不審物検査のためには、ロックを壊すことは許されているとのこと。
 その時は泣き寝入りせざるをえなかったが、後で気づいたことは、それではチェックインの時に警告あってもよかったのではないかということだった。 








 
 
 




































 

JFK空港で探知犬に摘発される
 1996年9月の訪米は、ニューヨークJFK空港で入国、乗り継ぎでボストンに入った。
 入国前だったか後だったか記憶は定かでないが、JFK空港内のホールで手荷物を床において、何かの順番待ちをしていると、税関吏が犬を連れて巡回してきた。麻薬探知犬だなと思いながら見ていると、床においた妻の機内持ち込み手荷物に手をかけて座り込んだ。
 税官吏から中身は何かと聞かれ、ハタと思い出したのが、ホテルに落ち着いたら食べようと妻が用意した梨だった。皮を剥いて切り身にしてプラスティック容器に納め、それを手荷物に入れていたのだ。
 "Pear"と答えると出せと言う。取り出したところ、一緒に来てくれと言われて別室に連れて行かれた。部屋には別な役人が座っており、報告を受けると、私から梨入り容器を受け取り、中身をゴミ箱に捨て、"OK"と言われた。生の果実は検疫対象で没収ということのようである。犬は果実探知犬とでもいうのであろうか。

 



























 











通話料を気にしてのインターネット・ローミング
サイトにアップしている記事を見直していたところ、「情報化社会におけるアドバイザー」というタイトルの記事に出会った。1996年頃とあるから、10年以上昔である。今の時期、あまりに陳腐化しているので、削除しようとして思い直した。この記事は、Windows 95で始まるパソコン普及の黎明期に書かれたもので、情報化社会の発展を研究するには格好の参考資料と考えたからである。IT(Information Technology)という言葉が知られるようになったのもこの頃である。
記事は、まず、デジカメが普及し始めたことに言及している。21世紀の早い時期にテレビはデジタル化されるとも書かれている。一番の傑作は、インターネットへのアクセスに電話回線を使っていることである。接続時間が長ければ、その分だけ通話料がかかる。通話料を気にしながら、インターネットにアクセスしていたのだなと今昔の感ひとしおである。

情報化社会におけるアドバイザー      (日付不詳、1996年頃?)
1.デジタル化とマルチメディア
 コンピューター技術とデジタル通信技術の発達で、あらゆる分野が大なり小なりデジタル化の波をかぶっている。最近ではデジタル・カメラが始まった。通信衛星を使ったデジタル多チャンネル放送はすでに本格化している。一般テレビのデジタル化は21世紀の早い時期である。
 NTTは、ISDN(Integrated Service Digital Network)と呼ばれる綜合デジタル通信網の整備を進めている。2000年をめどに現在のアナログ方式を全面的にISDNに切替える計画である。従来は電話、テレックス、ファクシミリ、データ通信などメディア別にばらばらに敷設されていた回線を光ファイバー・ケーブルで一本にまとめ、交換機もデジタル交換機に換える。このプロジェクトは、2000年をスタート年とするマルチメディア整備の一環であり、マルチメディアへの対応を主要目的としている。
 マルチメディアとは、従来のメディアが電報(文字)、電話(音声)、ファックス(静止画)のような単一機能であったのに対し、音声・文字・静止画・動画(ビデオ)の4つのメディアを同時に取扱う。双方向性があるカラーテレビのようなものと言える。移動電話、データ通信、画像通信の分野でマルチメディアが次々と誕生している。マルチメディアは第2の産業革命をいま各分野で引き起こしている。その先駆がインターネットである。

2.インターネット
  私のこれまでのパソコンの利用目的は主としてワープロであり、あとはデータベースと仲間内のパソコン通信であった。私がインターネットとインターネット経由の電子メールを始めたのは、つい半年前である。インターネットを商売に利用するまでに使いこなしている人なら何をつまらないと思われるようなことが、一つづつ斬新に感じている。
  私はトライしなかったが、クリントン大統領とモニカ嬢の不適切な関係についてのレポートにもインターネットでアクセスできるわけである。感心したことは海外のホームページにアクセスしてもKDDより通話料の請求がない。プロバイダーが払っているのだろうか。ユーザーの私が払うのはプロバイダーへの月額料金とNTTに払う通話料ということになる。
  先日、ある航空会社がマイレージ・サービスの期限延長をホームページで受付けると言ってきた。トライしたところ、1分で用が足りた。逆に通話時間がかかりすぎるというケースもある。パソコン・ソフトの新しいアプリケーションをホームページからダウンロードしようとして、残り時間4時間という表示であわてて止めたケースがそれである。結局は雑誌を買い付録についているアプリケーションをインストールした。
  本当に便利だと感じたことは、仕上げた原稿を電子メールに添付して送った時である。それまではフロッピーを持参するかコピーを撮ってファックスしていた。不安だったので到着とファイルを開けるかどうかを確かめる電話をしたのは蛇足だった。

3.インターネットへのアクセス
 情報化革命は貿易の世界でも急ピッチで進行している。私たちアドバイザーはこの流れに逆らうわけに行かない。少なくとも情報化社会がどういうものであるかを理解する義務がある。デジタル化、マルチメディア、インターネット、ホームページ、電子メールなどは専門用語ではなくて、現代社会の一般用語である。社会人の常識として捉えるとともに、貿易人としてインターネットの世界を知ることは必要である。貿易人たるものキーボードへのアレルギーは少ないのだから、アクセスは容易であろう。

                                以上






























春秋苑墓地
 高級公園墓地・春秋苑の正門まで、私の家から歩いて5分ほどである。門を入ると小高い丘があり、頂上に釣鐘堂が立っている。ここからの眺めはなかなかである。広い墓地の先からかなりの距離まで家並みが広がる。家並みが切れる稜線には、山々が連なる。西正面に高尾山と陣馬山、西南方向には富士山が丹沢山塊を前にしてそびえる。西北方向には、雲取山や武甲山などの秩父連山が一望である。礼拝堂の裏山はうっそうとした森である。後ろを見やると、新宿の高層ビル群が目に入ってくる。晴れた日には筑波山も遠望できる。
 私は、いつもこの景色を見ながら体操をする。時には、森の中の山道を通り抜ける。
 数年前、私はその春秋苑に小さな墓所を買った。墓石はまだ立ててない。妻や二人の娘には、私が死んで墓を立てる時、墓標を「海」にしてくれと言っている。私は昔から海が好きだった。私の誕生日が、戦前の海軍記念日であったことから、海軍兵学校に入ることを夢見た。海軍には入らなかったが、商社に入って海外勤めをするようになった。
 そんなことから、私は家族に、「死んだら、骨は海に撒いてくれ。」と言い続けていたが、墓を用意した今、せめて、墓標だけでも「海」にしてくれというわけだ。いろいろな墓標を見ているが、「海」という墓標は見たことがない。
 墓標といえば、春秋苑には、かなりに知られた人が眠っている。「春秋苑にある著名人の墓所」を手にして、墓地内を歩くこともある。

 
   
 釣鐘堂からの眺め 北区からの眺め 
     
 新宿の高層ビル群を望む  裏山






緑ヶ丘霊園と東高根森林公園
 先日、久地の川崎市営緑ヶ丘霊園を歩いた。春秋苑よりも規模は大きく、東高根森林公園に隣接しているので、緑に恵まれている。桜並木の広い道路が縦断し、公園墓地として、整備されている。多摩丘陵の台地に位置して、眺望も開けている。昭和33年開苑の春秋苑に対し、緑ヶ丘霊園は、戦前の昭和18年に開園したとのことで、しっとりとした落ち着きがある。市営のせいか、春秋苑のように著名人の墓を売り物にしていない。






富士山を望む場所
 王禅寺見晴公園や春秋苑の釣鐘堂から望む富士山は、丹沢山塊の最高峰である蛭ヶ岳(1,671米)などの高い山に遮られて、7合目か8合目あたりの上の部分しか見られない。富士山からの距離では、生田よりも若干遠い日吉あたりからだと、丹沢山塊の西の切れ目と大山の間に富士山の位置が来て、結構、大きく見える。横浜駅近くのビルからでは、丹沢山塊はずっと北寄りになり、富士山は裾野近くまで見えてくる。鎌倉、逗子では、富士山への距離も近いが、ほとんど全容を江ノ島の上あたりに見せてそびえ立つ。
 
王禅寺見晴公園より富士を望む
 





























浄水場の見学
                                                             2010年3月1日
 自宅から歩いて6、7分のところに二つの浄水場がある。川崎市と東京都のもので長沢浄水場という。少し離れたところにも、潮見台浄水場と生田浄水場があるので、徒歩圏に四つの浄水場がある。
 川崎市出身の女優・藤村志保が何かに書いていたが、私が住んでいる川崎市多摩区、麻生区のあたりは、多摩丘陵地帯と呼ばれる地域だが、昭和30年代半ば頃までは、現在のように都市化されておらず、旧東海道川崎宿や川崎大師近くの住民は、この辺を「山」と呼んでいたという。私が初めてこの地域に移り住んだ昭和42年には、まだ里山の風情を残す場所が散見された。昭和29年完成の長沢浄水場はすでにあった。浄水場の建設地としては最適だったのだろう。ちなみに、生物兵器や風船爆弾の製造、中国戦線で使用されたという贋札の製造などで知られる陸軍登戸研究所は、現在、明治大学生田校舎になっているが、長沢浄水場に隣接といってもよい場所にある。明大から谷越えの丘の上には専修大学生田校舎があり、専大の隣は川崎カントリーと岡本太郎記念美術館や日本民家苑のある生田緑地公園である。
 私は現役時代、ジャカルタのプロガドゥン浄水場コタキナバルの上水道パイプ敷設、クワラルンプルの下水プラント、シンガポールのベドック下水放流管などのプロジェクトを担当した。そういうことで、上下水道にある程度の知識があり、関心もある。
 浄水場とは端的に言えば、取水した水の汚泥を沈殿させ、上澄みを濾過して得た水を配水する設備である。また、関東地方の住民が飲んでいる水の原水は、関東の1都6県のうち、神奈川県のみは、相模川水系である相模湖と津久井湖、山梨県の道志川を水源とする宮が瀬湖、酒匂川上流の丹沢湖という3つの水瓶から取水しているが、主として多摩川の水を利用している東京都も含めて、他の1都5県は、上水を利根川水系に頼っている。なお、箱根の芦ノ湖は、神奈川県にあるが、水利権は静岡県にあり、静岡県が深良水門から取水している。「箱根用水」と呼ばれている。私は、戦後間もない頃、箱根用水建設を題材とした「箱根風雲録」という映画を見たことを覚えている。
 さて、長沢浄水場を囲む鉄柵と金網に沿っている道は、私の散歩コースである。その中で小高い峠になっている場所からは、沈殿地など、浄水場のかなりの様子が見下ろせる。峠から少し下ったところでは、金網の間から、源水の取り入れ口と思われるこんもりした場所がのぞける。植え込みやポーチなどで整備され、ちょっとした公園という風情である。その場所と沈殿地を小学生が見学している光景を、時折、見かける。そのたびに、いつか、所内を見学させてもらう機会があればと思っていた。
 最近、沈殿地側の鉄柵に目隠しが取り付けられ、工事中の看板が立った。峠の上から見下ろすと、鉄柵に沿って、口径が2メートルもあろうかというパイプの敷設工事が進行している。気になったのが、パイプの材質である。遠くで見た感じでは、鉄製に見えない。さらばと言って、2メートルの口径の塩ビのパイプがあるはずはない。
 私は、ジャカルタ水道局に久保田鉄工(現クボタ)のダクタイル鋳鉄管を納めたことがあるし、コタキナバルの上水道管敷設プロジェクトでは、シンガポールのヒューム社から買い付けたヒューム管を敷設した。そんなことから、パイプの材質を確かめるべく、浄水場に問い合わせの電話をした。
 電話に出た浄水場の施設整備担当の山本さんによれば、パイプの材質はスチールだと言う。そんな会話を交わすうち、市民へのサービスとして浄水場の見学も可能のような感触だったので、頼んだところ承知してくれた。
 3月1日、家内ともども、浄水場を訪ねた。家内が浄水場見学などに興味を持ったのは、その昔、ジャカルタの日本人会婦人部のために、私がアレンジした古いオランダ時代の浄水場見学会に参加したことがあったからである。
 担当の山本さんより、神奈川県の水道状況と設備の概要の説明を受けた後、かねてから見たいと思っていた原水の取り入れトンネル口や濾過池を案内してもらった。大口径のスチールパイプを塩ビのパイプと見誤ったのは、ポリウレタンでコーティングしていたからだということもわかった。満足の行く1時間半の見学であった。
                                                           以上





 






















 






橋梁談合                  (2005年5月29日)

今、世間を騒がせている橋梁談合に、30年ほど前、私も立ち合ったことがあります。
立ち合ったと言っても、私たち商社の人間は、別室で行われる橋梁メーカーの実際の談合には参加して居ませんが。
いずれにせよ、今になってみると、珍しい体験なので、下記のようにノートしました。
現在、問題になっている公共工事への談合の設定は、橋梁メーカーのグループ幹事が行っており、官の関与はなさそうですが、30年前の海外工事の談合設定の場は、機械輸出組合の鉄骨橋梁部会でした。
各種輸出組合のメンバーはメーカーや商社ですが、組合の設立は輸出入取引法に基づいており、例えば、独立行政法人 日本貿易保険の包括保険の付保は、輸出組合の独占事業であるように、輸出組合は通産省(当時)のエージェントのような存在です。
私は、今回の談合事件で逮捕者を出した某メーカーと組んで受注したマレーシアの橋梁建設プロジェクトの担当者でしたので、あるときの鉄骨橋梁部会にそのメーカーの担当者と一緒に出席しました。
部会の議題は、言うなれば、これから行われる予定の海外橋梁工事の調整でした。
具体的なプロジェクトごとに、関心のあるメーカーが名乗りを挙げ、別室に移りました。
その都度、商社の出席者は、その場に待っていてくれと言われ待機させられました。
部会が終わった後、メーカー担当者から、あれはどこそこに決まった、あれはフリーコンペになったと報告を受けました。
なお、円借款プロジェクトの場合、JICA資金による事前調査を行ったコンサルタントがプロジェクト・コンサルタントに任命されるのが通例であり、それに協力したメーカーに優先権が与えれていました。
いずれも30年以上の昔の話であり、今の談合のやり方と違っているので、なんの参考にもならないし、差し障りも無いと思いますので、この場を借りて、発表致します。










 






























 

愛国の花 - ブンガ・サクラ
 "愛国の花"という戦時歌謡があります。
 
  真白き富士の気高さを
  心の強い楯として
  御国(みくに)につくす女等(おみなら)は
  輝く御代(みよ)の山ざくら
  地に咲き匂う国の花

  インドネシアの初代大統領スカルノはこの歌が大好きで、自らインドネシア語の歌詞をつけて愛唱したそうです。私が初めてこの話を聞いたのは、1974年から79年までのジャカルタ駐在員の時、兼松ジャカルタ店の嘱託だった押尾美喜造さんという人からでした。
 押尾さんは、戦前からインドネシアで活躍し、戦後はスカルノと特殊関係にあった東日貿易という商社に入ってデビ夫人の世話役をしたこともある人でした。深田祐介の"神鷲商人"に出てくる東邦商事の尾高善夫のモデルが、この押尾さんです。
 押尾さんもこの歌が好きで、駐在員の夫人連を集めて、スカルノ作詞のブンガ・サクラ(サクラの花)を教えて合唱させたりしました。私たちは押尾さんが話すデビさんやスカルノのエピソードに感心しきりでしたが、一つだけ、私が異議を唱えたのは、訪イした皇太子ご夫妻の前でこのブンガ・サクラが歌われたという話でした。1962年2月の皇太子ご夫妻訪イの時、私は、ご夫妻のインドネシア民族芸能鑑賞の場に居合わせており、ブンガ・サクラが歌われたのではなくて、文部省唱歌「さくらさくら」が演奏されたことを知っていたからです。
 その後、1990年代、私の最後のジャカルタ勤めの時、ある会合で、このブンガ・サクラが皇太子夫妻の前で歌われたという話を小耳にしました。それもあって、私はジャカルタ日本人会の会報に「天皇の訪イにあたって」というタイトルでブンガ・サクラが歌われたという話は伝説だと発表しました。
 しかし、この伝説は、現在も生き続けています。友人の東京外大名誉教授・佐々木重次さんのブログにある「Miyoto akaino sarawa ketek(見よ東海のサラワケテ)」というページ(2002年9月11日付け)の中に次ぎのような記事が紹介されています。

 「愛国行進曲愛国の花」いずれも昭和12年生まれ,ternyata 私と同い年であった。 
 「愛国の花」追記:以下,「インドネシアの唄選集 (1)」からの引用である。
   BUNGA SAKURA (スカルノ作詞)
   Bunga sakura indah berseri-seri
   Di Nippon-lah tumbuhnya sudahlah pasti
   Bunga yang dipuja-puja oleh rakyat Nippon
   Melati di Indonesia kita puja pula
   Itulah satu tanda kita ASIA.
   1962年1月30日から2月10日まで皇太子ご夫妻は天皇の御名代としてインドネシアを訪問された。ボゴールに
   於てご夫妻は大統領夏の宮殿に宿泊。ミチコの名をつけた新種のらんを贈られたり,大統領による心からの歓迎
   に数日を心楽しく過ごされた。その折りスカルノ大統領によって作詞され1万人の小中学生を集めて殿下の前で
   うたわれたのがこのうたである。現在インドネシアに於て最も知られている日本の歌といえよう。

 またジャカルタ発のメルマガにも「インドネシアに残る日本軍歌」と題して、ブンガサクラを紹介し、次ぎのように結んでいました。

 この歌は、1960年代初頭、現在の天皇(当時の皇太子)がインドネシアを訪問した際、独立記念広場(モナス)で児
 童数千人が歌って、歓迎している。「ブンガ・サクラ」は、今も小学校の芸術の授業で使用されており、「愛国の花
 」を知らない日本の若者と対照的にインドネシアの若者の多くは「ブンガ・サクラ」を知っていたのだった。 

 最初の記事にある1万人の小中学生は、大げさすぎます。両殿下がスカルノ大統領をはさんで座り鑑賞したのは、屋内競技場でのインドネシア少年少女アンクロン合奏団の演奏ですから、せいぜい百人か二百人の単位です。場所もボゴールではなく、ジャカルタのスナヤン屋内競技場です。メルマガが述べている独立記念広場は、当時はまだ整備されていない野原でした。

佐々木さんと会ったとき、ブンガサクラが歌われたという話は伝説だということを話したら、文部省唱歌の演奏が自然だろうなといっていました。。
 それでは真相はどうだったかということで、「ジャカルタ・ジャパン・クラブ会報1991年7月号」の私の小文「天皇の訪イにあたって」の一部をご紹介します。

この秋、天皇陛下が訪イされると聞いています。昭和天皇は一度もインドネシアに来られたことがなかったので、日本の天皇としては初めての訪イになります。まさに歴史的な事件といってよいでしょう。
 天皇としては初めての訪イですが、今上天皇は皇太子時代、新婚3年目の美智子妃殿下とともにスカルノ大統領の時のインドネシアに来ています。1962年2月でした。
 滞在中、スナヤンの室内競技場でインドネシア民族芸能の鑑賞の夕べが催され、皇太子御夫妻とスカルノ大統領の前でインドネシア少年少女合奏団がアンクロンでサクラサクラを演奏しました。この演奏がいつのまにかスカルノ大統領の愛唱歌ブンガ・サクラが歌われたという伝説になりました。
 "真白き冨士の気高さを心の強い盾として・・・"で始まる"愛国の花"という戦時歌謡があります。この歌は戦時中のインドネシア人に受けて流行ったそうで、前の大統領のスカルノさんもこの歌が大好きで"ブンガ サクラ インダー ブスリスリ(桜の花が咲き誇る)"と自らインドネシア語に直して愛唱したそうです。
 この歌を民族衣装に身をつつんだインドネシア少年少女アンクロン合奏団が、皇太子御夫妻とスカルノ大統領を前にして歌ったという話は、話とすれば面白いのですが、その場に居合わせた私が聞いたのは、サクラサクラの演奏でした。それでも場内は水をうったようにシーンとしたものでした。ブンガ・サクラという歌をスカルノさんが好きだったという話に尾ひれがついていつのまにか皇太子御夫妻の前で歌われたという伝説になったのではないでしょうか。

 *アンクロン:・インドネシアの民族楽器 (竹製楽器)




ブンガサクラは歌われたようだ
 私は、「愛国の花-ブンガ・サクラ」で述べているように、1962年、当時の皇太子ご夫妻が訪イした時、ご夫妻の前で「ブンガサクラ」が歌われたという話は伝説と決めつけてきた。私の論拠は、「ブンガサクラ」が歌われたのではなく、文部省唱歌「サクラ」が演奏された場面を、私は、見て知っていたからである。
 しかし、ごく最近、訪イ時の両殿下は、ジャカルタに2日間滞在した後、大統領別邸であるボゴール宮殿に宿舎を移した。「ブンガサクラ」は、そこで歌われたと聞かされた。私は、それを否定する根拠がない。私はボゴールでどのようなことが行われたのか、まったく知らないのである。ジャカルタの独立記念広場(モナス)で児童数千人が「ブンガサクラ」を歌って歓迎したという話なら、絶対にありえないと言い切れる。なぜなら、1962年当時、広場中央の記念塔(モナス)は、まだ建設されておらず、広場全体は未整備の野原だったからである。
 両殿下の前で「ブンガサクラ」が歌われたという話を伝説と言っていた私が、あるいは歌われたかもしれないとチェンジマインドしたのは、先日、某テレビ局の皇室特番ディレクターと面談したことによる。
 ディレクターとの面談は、「愛国の花-ブンガ・サクラ」を読んだが、一度会って、話を聞きたいと、概略、次のようなメールが寄せられてきたことで、実現した。

“天皇、皇后は、今年(2009年)でご成婚50周年となることから、2時間の皇室特番を企画している。現在、陛下の体調が芳しく無く、それを皇后が支えているが、同じ様な状況が1962年1月インドネシア訪問時にもあった。当時の皇太子殿下が風邪をひかれたため、予定していたフィリピン訪問はキャンセルされた。美智子妃殿下は寝ずに看病されていたそうだ。支えあうお二人。それは今も昔も変わらない。ご成婚50周年の両陛下の足跡をたどるエピソードとして、1962年のインドネシア訪問時のことを取り上げたい。”

 ディレクターから、両殿下は1月22日、パキスタンに向けて日本を発ち、1月30日にジャカルタに到着、ボゴールとバリに滞在後、皇太子の体調不調のため、フィリピン訪問をキャンセルし、2月10日に帰国、ジャカルタ滞在は1月30日、31日の2日だけだったということを聞いた。
 私は、空港出迎え、大使公邸でのレセプション、民俗芸能観賞の夕べの三つの行事に参加していたことから、両殿下はジャカルタに3、4日は滞在していたと思っていたので、2日間だけの滞在と聞いて、意外に思った。メモ・ノートの類をもっていないので、日付の記憶はなく、ディレクターから、ジャカルタ滞在は1月30日、31日と聞いて、そうだったのかと認識を新たにした。両殿下は、ジャカルタからボゴールとバリに行き、ジャカルタには戻らず、バリから帰国した、インドネシアに入る前にパキスタンを訪問し、そこで皇太子は風邪をひいた、フィリピン訪問は風邪のためキャンセルした、訪イは、昭和天皇の名代として、パキスタン、インドネシア、フィリピンへの親善目的の一環であった、等々、いずれも話を聞いて初めて知った事実である。
 また、ジャカルタ滞在時はどこに泊まったかということが話題になった。ジャカルタで初めての近代的ホテルであるホテル・インドネシアは建設中だったので、私は、大統領官邸から車で15分位の距離で、閑静な住宅街の中にあって、在留日本人とのレセプションが行われた日本大使公邸ではなかったろうかと話した。
 ディレクターが私に聞きたかったことは、屋内競技場でのインドネシア少年少女アンクロン合奏団の演奏についてであった。両殿下はスカルノ大統領をはさんで座ったが、大統領の右側と左側、それぞれどちら側に座ったかと聞かれて、奇妙なことに、思い出せなかった。私の座った位置は、コートを挟んで丁度向かい側の席だった。
 また、レセプションに出席した在留邦人は約100人とのことだが、当時のジャカルタに居た日本人は何人位だったかと聞かれた。1958年に国交が樹立され、大使館が設置されたばかりの頃である。JALも乗り入れていなかった。大使館員と限られた企業の駐在員で、ほとんどが単身赴任なので、約100人という数字は当たっているのではないかと答えた。
 そのような話を1時間ほどして別れた翌日、また、次のようなメールが送られてきた。

“調べたところ、やはり1月31日、恐らく大統領官邸での晩餐会の後に、体育館で「踊りの夕べ」があり、両殿下とも出席され、アンクロンによる「サクラサクラ」の演奏をご覧になったようです。そして、2月2日の午前8時に小中学生がボゴール宮殿の庭で美智子さまの前で「ブンガ・サクラ」を歌ったようです。ちなみにジャカルタでの宿泊はヌガラ宮殿(イスタナ・ヌガラ)だったようです。“

私の目撃証言は確認されたわけだが、「ブンガ・サクラ」が歌われたという話は伝説という私の持論は取り下げて、「ブンガサクラは歌われたようだ」と変えざるをえなくなった次第である。
 また、両殿下のジャカルタでの宿舎は、大使公邸ではなく、大統領官邸の裏側にあるヌガラ宮殿(Istana Negara)という話は、納得が行く。ヌガラ宮殿も含めての現在の大統領官邸は、オランダ統治時代は、総督府官邸であった。独立広場側に面した大統領官邸は、執務の場所であり賓客との接見の場に使われている。大統領の家族は私邸に住み、ヌガラ宮殿は迎賓館というわけだ。ヌガラ宮殿は官邸敷地の裏側の通りに面しているが、裏側の通りとはいっても、オランダ時代からの由緒のある通りである。




1962年美智子妃とブンガサクラ
 先日、2階で仕事の電話をしていた私に、テレビの皇室番組を見ていた妻から、「これは、貴方が居たころのことではないか?」と声を掛けられた。電話をしながら1階におり、テレビを見たら、ボゴール宮殿が映されており、画面がモノクロに変わって、宮殿の庭いっぱいにインドネシア人小学生が集合していた。一転して、美智子妃殿下が映され、次に、小学生たちによる、「ブンガサクラ」の合唱が始まった。
 電話をしながらであったため、テレビの解説を充分に聞きとれず、前後の経緯は分からないが、皇太子は風邪のため、妃殿下のみが立ち会われ、「ブンガサクラ」を聞いておられたようだ。 いずれにせよ、“ボゴールに於てご夫妻は大統領夏の宮殿に宿泊。ミチコの名をつけた新種のらんを贈られたり,大統領による心からの歓迎に数日を心楽しく過ごされた。その折りスカルノ大統領によって作詞され1万人の小中学生を集めて殿下の前でうたわれたのがこのうたである。”は、事実であった。
 皇太子ご夫妻の前で「ブンガサクラ」が歌われたという話は伝説と決めつけていた10数年来の私の主張は、映像という決定的証拠を突きつけられて、もろくも撤回を余儀なくされた。この映像は、インドネシア人カメラマンによって撮影されたものであろうが、極めて感動的である。





1962年ジャカルタの日本人
 2009年4月10日は、天皇・皇后両陛下のご成婚50周年の記念日である。テレビ各局は様々な祝賀番組を組んでいる。この流れの中、1962年1月から2月にかけて、当時の皇太子ご夫妻訪イの際、ジャカルタに居合わせた私に、あるテレビ局からインタービューの申し入れがあり、先日、テレビ局で30分ほど、概略次ぎのような対談を行った。

質問:その頃、国民は、ご成婚をどのように受け止めていたか?
答え:ミッチー・ブームという言葉が広く流布されていたが、これにつきると言ってよい。
質問:ジャカルタでは、どのような行事に出席したのか?
答え:(1)空港出迎え、(2)大使公邸での在留邦人とのレセプション、(3)民俗芸能鑑賞会
質問:レセプションの時、言葉を交わすことはあったか?
答え:言葉を交わすことはなかった。観桜会、観菊会と同様、整列して直立している私の目の前を、両殿下は黙礼しながら
   、通りすぎた。美智子妃の色の白さが印象に残っている。
質問:皇太子は風邪をひかれていたが、どのような様子であったか?
答え:民俗芸能鑑賞会において、皇太子は、鼻や口許に常にハンカチをあてていた。顔色も非常に悪く、土色という感じで
   あった。

しかしながら、この対談は、編集の都合で、不採用になったとテレビ局から連絡が入った。
 通常、私は皇室番組を見ることはなく、まして、私の出番がなくなった番組では興味も失せて、当日は、チャンネル合わせもしなかったが、予定時刻になると、やはり、どのように編集されたか気になり、のぞいて見た。
 番組において、訪イ時の最大の出来事は、皇太子の40度近い発熱であり、これに対する美智子妃の献身的な奉仕が主要なテーマであった。
 画面では、まずフィリピン訪問を取りやめて帰国するという宮内庁の発表があった。次に、間近にあって両殿下の世話を担当したインドネシア外務省の元スタッフのインタービューがあった。このインタービュー場面を見て、なるほど、私の目撃談は、この証言には対抗できない、不採用はやむをえないと認識させられた。

 あれから、50年近い年月を経て、その状況を知る者はごく少数である。大使館員などの同伴子弟は別として、当時の在留日本人で最も若い世代は、今、70才を超えている私の年代である。皇太子ご夫妻訪イの状況を覚えている当時ジャカルタに居住していた日本人は、現在、どれだけ生存しているだろうか?また、それをウェブに載せている者は数えるほどもいないと思う。私は、メモ・ノートの類は残していないが、初めての海外赴任の直後であり、両殿下を目の当たりに見るというインパクトは強烈だったので、50年近くたっても鮮明に記憶しているのである。
 1960年代初頭のジャカルタに居住していた日本人は限られていた。日本の製造業がインドネシアに進出するようになったのは、1970年代になってからである。
 1962年当時、ジャカルタに事務所を構えていた日本企業は、13乃至14の商社と東京銀行、トヨタ、国策会社の北スマトラ石油開発(NOSODECO)、合弁のBank Perdaniaを持つ大和銀行といったところだった。ホテル・インドネシアは建設中だったので、大成建設からもスーパーバイザーが派遣されていたと思うが、工事事務所は請け負った木下産商の名前だったはずである。JALはシンガポールまでで、直行便が入ったのは、1962年後半か1963年になってからだった。新聞やテレビの支局もなかった。日本大使館にしても、日本とインドネシアの国交が樹立された1958年に創設されたばかりで、現在の場所ではなく、古くからの住宅街であるメンテン地区の普通の住宅であった。日本人は、領事や書記官合わせて10人いたかどうかであった。大使館員の多くは、家族同伴だったが、商社の駐在員はほとんどが単身赴任だった。従って、ジャカルタ在留の日本人は、大使館関係者と各社の駐在員合わせても、100人に満たなかったと思う。
 当時、いわゆる総合商社は、三菱商事、三井物産、関西五綿といわれた丸紅飯田、伊藤忠商事、東洋綿花、日綿実業、江商、それに住友商事、日商、安宅産業、岩井産業、兼松の12社であった。ただ、安宅は、当時、ジャカルタに事務所を構えていなかったはずである。木下商店は、鉄鋼や機械に強く、スカルノ大統領-岸信介-木下商店ラインとも言われるほどの政商で、NOSODECOにも株主商社として影響力があったが、まもなく物産に吸収された。特異な存在は、スカルノ大統領とデヴィ夫人との関係に関わった東日貿易だった。社長の久保正雄は、岸信介、児玉誉士夫ともつながりがあったと言われている。
 東京銀行は、駐在員事務所で営業はしていなかった。トヨタも駐在員事務所で、トヨタ車を輸入販売するPT Astra Internationalをサポートしていた。日本企業の合弁第1号が大和銀行が出資したBank Perdaniaだった。
 駐在員の中には、戦前・戦中にインドネシアで活躍し、国交樹立後、賠償などのビジネスが活発になるにつれ、新たに採用されて赴任という人が多数いた。また、かなりの数の元日本兵が残留しており、そのうち、何人かは日本企業に勤めていた。元日本兵は、インドネシア人女性と結婚し、インドネシア国籍になっているのが、通例であった。
 私は、東京外語大インドネシア語科の出身で、言葉の関係で、入社間もないうちにジャカルタに赴任した。今、当時のインドネシアに関係した日本企業や日本人について小文を纏めていて、関わった同窓の先輩の名前がずいぶんとヒントになったことに気づいた。
 例えば、Bank Perdaniaについては、大和銀行から派遣されていた内田さんが同窓の先輩だったから承知しているのである。また、戦中からインドネシアに関わり、当時、インドネシア国営商社のCTCに勤めていた木村さんは、毎日新聞の奥源造さんや日産自動車の村井さんとともに、私の在学時の教授であった伊東定典さんと同期であった。木村さんは麻雀が好きで、兼松の独身寮によく見えられた。兼松はNOSODECOの株主商社として、NOSODECO向け日産自動車の製品の一部を扱っていたので、村井さんが出張で来イすると、兼松がアテンドすることが多かった。夜になると、木村さんと村井さんは一緒に兼松寮に食事と麻雀に来られた。ある時は、出張で来イされた奥源造さんと3人で来られたこともあった。当時のジャカルタには、新聞やTVの支局はなかった。奥源造さんのようなインドネシア通の記者だからこそ、出張で飛んで来て、単独で取材ができたのだ。
 NOSODECOには、私の学友の大森通広君も赴任しており、彼の寮が兼松寮から歩いて3分の距離なので、食事と麻雀で、入り浸りのように兼松寮に出入りしていた。兼松の所長の井上剛さんは、陸軍中将のご子息であるが、NOSODECOのジャカルタ事務所代表の大町さんは、明治の詩人 大町桂月の息子さんであった。
 1970年代に飛ぶが、2度目のジャカルタ勤めの時、仕事の関係で、親しくお付き合いしていた東京電力のエンジニアリング会社TEPSCOのジャカルタ代表の福留さんは、有名な福留繁提督のご子息であり、東京海上の代表だった大久保さんは、大久保利通の流れで、奥さんは皇太子妃候補であったという。
 大分経ってからだが、兼松がホンダと合弁会社を持ったこともあって、私は、インドネシアにおけるトヨタ、日産、ホンダの活動の歴史をある程度承知している。1962年当時、駐在員事務所を置いていたのはトヨタのみで、その時の駐在員の松浦さんという人は、私と同じ時期、兼松の駐在員であった辛島さんの親類だった。松浦さんとトヨタ本社との関係については、まったく知らない。
 深田祐介の小説“神鷲商人(ガルーダ商人)”は、デヴィ夫人とスカルノ大統領について、詳しく描いているが、この小説で重要な役割を担う登場人物のモデルになった2人の人物を私はよく知っている。一人は、木下商店出身の高橋健二さんであり、もう一人は東日貿易の嘱託であった押尾美喜造さんである。高橋さんは、小説では“岩下商店の棚橋浩治”という名前で、押尾さんは、“東邦商事の尾高善夫”という名前で著されている。

 
































プルダニア銀行の回想(創立三十周年記念側面史)
 知人の金融マンである石井研一さんから「プルダニア銀行の回想(創立三十周年記念側面史)」(1989年発行)という本(非売品)の寄贈を受けた。
 プルダニア銀行は、現在の「りそなプルダニア銀行PT.Bank Resona Perdania)」だが、この本が発行された1988年当時は、「りそな」はまだ、存在しておらず、旧大和銀行が親会社だった。この本の発行者も「大和プ銀会」となっており、石井さんも旧大和銀行出身である。
 この本を読んで、プルダニア銀行の操業は1958年2月ということを知った。1988年に30周年を迎えたのを機に本を発行することにしたとある。
 石井さんも執筆者の一人に名前を連ねている。また、1960年代初頭と1970年代後半、ジャカルタで同時期駐在した同窓の先輩の内田進三さんも世話人の一人である。
 1958年は、日本とインドネシアの関係にとって記念すべき年である。この年、日イ平和条約が調印されて、日本とインドネシアの国交が始まった。賠償協定も締結されたメモリアルな年に、プルダニア銀行は操業を開始したのだが、言い換えれば、日イ関係がスタートしたからこそ、操業が認められたとも言える。
 私は、小文「1962年ジャカルタの日本人」で、"日本企業の合弁第1号が大和銀行が出資したBank Perdaniaだった。"と記している。
プルダニア銀行が合弁第1号であることを確認したく、石井さんに、資料をお願いしていたことで、この本の寄贈を受けたわけだ。ところが、ざっと目を通した限りでは、合弁第1号という記事が見当たらない。なぜかということを考えて、はたと思い当たったのが、インドネシアの外資法が施行されたのは、もう少し後だと言うことである。正確には、外国投資法(Law No.1/1967 on Foreign Investment)は、1967年の制定である。つまり、プルダニア銀行は、外資法に基づく合弁会社(PMA)ではないのである。もちろん、現在のステータスはPMAであろうが。
 「プルダニア銀行年表」を見ると、正式開店の2年前、1956年に普通銀行としての営業許可証が交付されている。1958年に正式開店した後、1964年に銀行民族化の政令が公布され、既存の外銀支店は軒並み閉鎖された中で、プルダニア銀行の存続は日イ政府間交渉の課題だった由。また、別な資料には、1959年、民間銀行の新規設立が禁止されたともある。
 スハルト時代になり、1967年、外資法、さらに、銀行基本法が制定され、外銀に対しても門戸が開放されたことで、プルダニア銀行もPMAになったものと推定する。
 この本を読んで、再認識したのは、プルダニア銀行の当初の出資者に「石原産業」が入っていることである。年表によると、創業の1958年、大和銀行は石原産業の持ち株を折半する形で合弁に参加したとある。現在、りそなプルダニア銀行には、石原産業の名前はない。
 化学品メーカーの石原産業は、戦前、マライ半島において鉄鉱山を経営した。創設者の石原広一郎は、国家主義的活動のため、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監されたこともある。
 この石原産業と石原広一郎について、私は学生時代に承知していた。東外大インドネシア語科に石原産業の求人もあった。

 




































 














































Des Indesはデザーン
 1960年代、ガジャマダ通り沿いにホテル・ドゥタ・インドネシア(Hotel Duta Indonesia)というホテルがあった。いかにも植民地風の造りであった。現在のDuta Merlinの場所である。
 オランダ時代、このホテルは、Hotel Des Indesという名前であった。戦前のバタビアを知っていた押尾美喜造さんによれば、Des Indesは、デス・インデスではなく、デザーンと呼んでいたという。
 なぜ、フランス式の発音なのか知らなかったが、西見さんのブログ「幻のホテル、Hotel des Indes」を呼んで、理由が推測できた。Hotel Des Indesは、フランス人の経営だったのである。そう言えば、フランス東インド会社の名称は、Compagnie des Indes orientalesである。
 


上の写真は当時の絵はがきからスキャンしたもので、裏面には次のような説明がインドネシア語と英語で記されている。

Hotel Duta Indonesia, bekas Hotel Des Indes Djakarta, Salah sebuah hotel jang terbaik di Indonesia.

Hotel “DUTA INDONESIA”, Djakarta, the former Hotel Des Indes …one of Indonesia’s best equipped and up-to-date hotels.




































1960年代初頭のジャカルタ地図











 TVドラマ - 不毛地帯
                                                            2010年3月11日
 山崎豊子の小説をTVドラマ化した「不毛地帯」(唐沢寿明主演)をシリーズの途中から見て、最終回まで見続けた。ずっと昔、小説を読み、主人公が伊藤忠商事の元会長瀬島龍三をモデルにしていること、日商岩井の元副社長海部八郎をモデルにした人物が登場することも承知していた。ただ、どんな筋書きだったかは、すっかり忘れていた。
 私が、このTVドラマを見始めたのは、全19話の第11話からで、第11話はフォーク自動車と千代田自動車の提携が不調に終わるというストーリーであった。最終19話で、千代田自動車とユナイテッドモーターズが提携したというエピソードがあった。昭和46年(1971)、伊藤忠の仲介によるいすずとゼネラルモーターズ(GM)の提携だとすぐわかった。見ていなかった第1話から第10話のあらすじは、シベリア抑留から帰国した主人公が商社に入社するいきさつと防衛庁への戦闘機納入を巡る駆け引き、インドネシアを舞台とする船舶ビジネスの顛末とのこと。
 第12話からは、イランの石油開発にからむ商社マンの活躍がテーマとなる。物語の時代背景は、1960年代後半から70年代にかけてで、私自身も、同じ頃、インドネシア石油ガス公社(プルタミナ)の日本子会社に出向し、石油関連プロジェクトに従事していたことから、物語の進展に少なからぬ興味を覚え、引き込まれて行った。もちろん、社内抗争や確執、家庭や愛人といった人間ドラマも物語の重要なファクターであることは承知しているが、私の場合、このドラマに惹かれたのは、商社活動の展開である。
 物語が描かれている時期、瀬島さんも海部さんも、その名前は広く知られていた。瀬島さんは、大本営参謀から、シベリア抑留を経ての転身で、海部さんは、40才そこそこで日照岩井の役員に昇進したことが、巷間に広く喧伝されていたのだ。海部副社長が、ダグラス・グラマン事件に係わって外為法違反・偽証の容疑で逮捕された事件は、1979年だから、もう少し後の話である。
 当時、伊藤忠とアラビア石油がプルタミナ向けにプロポーズしたプロジェクトに、私も関わった。一緒に仕事をした伊藤忠の担当社員から瀬島さんについて話を聞いたが、お会いする機会はなかった。海部さんとは、後に日照岩井が窓口となるLNG開発の計画段階で、面談の末席に控えたことがある。あの有名な海部さんかという思いだったことを覚えている。
 TVの物語は、イランの石油開発の展開であるが、伊藤忠は、イランの石油開発を手がけたことはないはずである。イランの石油で、もっとも知られているのは、昭和28年(1953)、出光興産の創業者である出光佐三が、石油を国有化し英国と抗争中のイランから、ガソリンと軽油を日章丸に積んで日本に持ち帰った日章丸事件である。英国アングロ・イラニアン社(BPの前身)の権益を国有化したのは、モサデク首相だった。アングロ・イラニアン社は日章丸の積荷の所有権を主張し、出光を東京地裁に提訴したが、最終的には、提訴を取り下げたため、出光側の勝利となった。石原慎太郎は、この事件を題材に「挑戦」という小説を書いている。
 私は、「資源開発」というテキストを著しているが、石油開発についての成功談は、なんと言っても、山下太郎のアラビア石油である。戦前、満州で活躍した山下太郎は、戦後、石油資源の獲得に奔走、1958年アラビア石油を創立、サウジアラビア、クウェートの両国から採掘の利権を獲得し、1960年、カフジ原油の採油に至ったのである。
 日章丸事件もアラビア石油も、TVドラマで描かれている物語の先駆けと言える。TVドラマ「不毛地帯」の舞台は、まさに、オイルショックの時代なのだが、オイルショックについて、まったくふれていない点、いささか物足りなさを感じた。
 もっとも、石油掘削成功の直後に、千代田自動車とユナイテッドモーターズが提携したという話なので、これをいすずとGMの提携に置き換えてみると、1971年の出来事なので、1973年のオイルショックはまだ起きていなかったと言える。
 最終19話は、主人公が石油掘削に成功しながら、綿花相場で大損を出した社長の退陣と引き替えに、自らも身を引き、最後は、雪のシベリアで、非業の死を遂げたシベリア抑留兵士の霊を弔うというシーンであった。
 ドラマの後半部分だけの鑑賞だったが、主人公とライバルを実在人物の瀬島さんと海部さんに置き換えてみると、ドラマに現わされた商社マンとしての活動は、海部さんの実績をモデルにしたといえるのではないだろうか?海部さんは、防衛庁への航空機納入とインドネシアのLNGプロジェクトを成功させた。瀬島さんの場合、伊藤忠の戦略参謀としての活動で会長にまで上り詰めた人だが、具体的な戦果は寡聞にして知らない。あるいは、いすずとGMの提携を主導したのかも知れない。
























































 



旧満州の汽車の旅-日露戦争と満州事変の跡を見る
                                     2006721
 7月8日から12日まで中国東北3省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)の大連・旅順、哈爾浜、長春、瀋陽をまわるツアーにアドバイザー仲間の安東さんと一緒に参加しました。
 出張でない海外観光旅行はいつも女房と二人連れですが、今回は、趣味の世界のツアーなので同行者を選ぶ必要があります。安東さんは「寅さんと私とインドネシア」でも紹介した通り、歴史散策という私と共通の趣味を持っている人です。ついでに言えば、二人ともインドネシア駐在員の経験者です。
  今回の旅行のテーマを、当初は「司馬遼太郎の世界を巡る」としたのですが、実際に歩いて「坂の上の雲」を実感できたのは旅順だけで、おしなべてインパクトがあったのは「満州国とラスト・エンペラー」でした。それから、移動がすべて汽車というのも初めての経験で、まさに「満鉄」の旅でした。「旧満州の汽車の旅- 日露戦争と満州事変の跡を見る」が適切なテーマでしょう。
 今回の旅行に当たって、私がもっとも見たいと思っていたのは、旅順の要塞跡です。10数年前、同僚が大連に出張した際、顧客から特別に旅順要塞跡の見学をアレンジしてもらったとのことで、数枚の写真を見せてもらったことがあります。その時から、機会があれば、是非行ってみたいと思っていました。その後に一般公開されるようになり、機会を伺っていた次第です。私はこれまで、煉瓦で構築されたその要塞を203高地だと思っていたのですが、実際に行ってみたら、それは東鶏冠山でした。203高地も東鶏冠山もそれに水師営の会見所も、戦前から日露戦争に関わる本や唱歌でおなじみであり、「坂の上の雲」が決定版だといえます。

    
     水師営会見所         203高地より旅順港を望む    東鶏冠山の要塞跡

 旧満鉄(南満州鉄道)の乗車体験は、まず大連から哈爾浜までの夜行寝台列車でした。哈爾浜から大連への復路は、満州の壙野をひた走り途中、長春と瀋陽でそれぞれ1泊しました。
 
     
     夜行列車の標識・大連-哈爾浜       寝台列車

  
   大連-哈爾浜   哈爾浜-(長春)秦皇島  長春-瀋陽     瀋陽-大連

 大連、旅順、ロシア人が建設した哈爾浜、満州国の首都だった新京
(長春)、かって奉天と呼ばれた瀋陽を見てきたわけですが、認識を新たにしたのは、瀋陽が清朝の古都であり、故宮と2代皇帝の墳墓である昭稜という二つの世界遺産があるということでした。

     
 
 瀋陽故宮は北京の故宮ほどの規模がなくやや物足りなさを感じましたが、昭稜の墳墓は方形の城壁の後に円形塚状に土盛りしたもので、初めて見るものでした。


    
        昭稜の方城               昭稜の墳墓
 
 長春では、ラストエンペラーで名高い満州国皇帝宣統帝溥儀のかっての皇宮が、現在「偽満皇宮博物院」として一般公開されており、満州事変から満州国建国に至る一連の史実に興味を持つ者にとっては、一見の価値があります。また、観光バスの車窓から見ただけですが、現在、地区共産党本部になっている旧関東軍司令部の建物も日本の城郭風で興味をそそられました。
 
   
      偽満皇宮正面            幼帝溥儀の像          旧関東軍司令部

 哈爾浜のロシア風建造物が建ち並ぶ、かってのキタイスカヤ(現在は中央大街)や日本植民地時代の建造物が立ち並ぶ旧大連広場(現在は中山広場)も是非見たいと思っていた場所でした。

    
    旧キタイスカヤ通り       旧松浦洋行      聖ソフィア教会
 
 パックのツアー旅行は、旅行社が必ず土産物店立ち寄りを組み込み、またこのコースではあってしかるべき場所がはずれ、どうでもよいような場所を案内するというような設定がされがちです。今回もその意味では、かなりの不満がありますが、妥協せざるを得ないでしょう。









 
 










戦時下の日本人の精神構造
 7月8日から12日まで、アドバイザー仲間の安東さんと大連・旅順、哈爾浜、長春、瀋陽をまわる旧満州の汽車の旅をした。旅行中、安東さんから聞いた「バラシュート降下したB29搭乗員への立川市民による集団暴行」を実際に目撃した話は興味をそそられた。
 立川高校出身の安東さんは、母校の立川高校教諭だった稲垣瑞雄の著書「石の証言」を読み、国民学校5年生の時目撃し、記憶も生々しい米軍航空兵への虐待事件が記憶通りの情景で描かれていることに驚きを感じたと、自らが発行している季刊誌「大倉山通信」に書いている。「大倉山通信」に記されている目撃記は次の通り。

5年生だったHA生は噂で近所の1年生の子と錦国民学校に駆けつけ、この「集団暴行」を目撃しました。目隠しされパンツ姿で後ろ手に縛られた若い兵士は錦国民学校の校庭に連れてこられ、バスケットの柱に十字に括り付けられ、並んだ市民から順に竹刀をバラした竹で背中を叩かれ、赤いアザを作り呻いたままでした。見ている内に同行の1年生の子が「もういい、帰ろう」と言いだし、当時、米兵への敵粛心がなかった訳ではないが、HA生も何か見て居られない気がして途中で帰って来てしまいました。”

私も学童疎開と空襲で自宅を焼け出されたという戦時経験をしている。東京裁判のA級戦犯に対する判決はラジオで放送されたが、"Death by hanging"というSentenceは今でも覚えている。またBC級戦犯が巣鴨拘置所から釈放される光景を高校通学の都電の窓越しに何度も見ている。鬼畜米英に対する敵愾心がどんなものかも記憶している。しかし、そういうことはごく一般的な経験であり、記憶である。安東さんの場合は、ショッキングな事件の目撃証人という極めて説得力のある経験をされたのである。
 パラシュート降下した俘虜に対する虐待・虐殺は日本各地随所で発生しており、それを題材とした戦記物は、大岡昇平の「ながい旅」、吉村昭の「遠い日の戦争」など多数ある。
 「ながい旅」は降下俘虜36人を国際法違反の無差別爆撃を行ったとして斬首刑にした責任を問われ、絞首刑に処せられた東海軍司令官岡田資中将の戦犯裁判の実録である。「遠い日の戦争」はB29の搭乗員の首を切り落とした青年将校の逃亡記である。いずれも軍人による戦争犯罪を題材にした小説であるのに対し、「石の証言」は民間人による捕虜虐待事件を描いた小説である。「ながい旅」、「遠い日の戦争」にも、民間人が降下兵を虐殺したという描写がある。
 これらの小説や実録が物語っているように、軍人と民間人とを問わず当時の日本人の米兵に対する憎しみは異常なまでに強かった。安東さんの証言もそれを裏付けている。また捕虜に対しては、日露戦争や第一次世界大戦で戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇した事実にもかかわらず、打って変わって非道な仕打ちをするようになった。
 有名な「戦陣訓」の"生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ"の一節からも伺われるように当時の日本人にとっては捕虜になることは死に値する恥辱であって、先進ヨーロッパ諸国伝統の騎士道や米国流ヒューマニズムによる"捕虜は英雄"という観念は想像もできなかったことであろう。
 「戦陣訓」とは、日中戦争(1937年勃発)が泥沼化しつつあった1941(昭和16)18日、東条英機陸相が公布した陸軍軍人としてとるべき行動規範を示した文書である。「戦陣訓」そのものは知らなくても、"生きて虜囚の辱めを受けず"の精神は、小学生の私でさえも記憶しているくらい、日本人の心に深く浸透した。
 この年(昭和16)128日には、マレー半島と真珠湾攻撃で第2次世界大戦が始まる。日本はジュネーブ条約(1929)を批准していなかったが、海戦と空戦の捕虜をジュネーブ条約に準拠して扱う旨、中立国を通じて交戦各国に知らせた。
 しかるに、開戦翌年の昭和17418日、ドゥリットル中佐による本土初空襲をうけて、陸軍は"国際法違反の無差別爆撃を行った敵航空機搭乗員は、軍律会議に附し、死または重罰に処す"という方針を打ち出した。
 注:「軍律会議」とは、広義の軍法会議であり諸手続は軍法会議に準じるが、原則として対象はゲリラやスパイを想定し
   ており、日本人は対象外であった。

 この軍布告は、軍人による降下搭乗員処刑の法的根拠になるわけだが、下級兵士や一般市民には、そのような布告やジュネーブ条約などは無縁の存在であっただろう。言えることは、「忠君愛国」、「滅私奉公」が国是の時代、赤穂浪士の吉良邸討ち入りに象徴される仇討ちが最高の美徳であり、敵兵への思いやりは臆病と誹られ、捕虜の斬首や銃剣で突き刺すなどの蛮行が男らしく勇気ある行為であった。
 旧日本軍における野蛮な精神構造の一例として、一人のエリート陸軍将校の言動を下記する。
 最後の殿様と言われた徳川義親が、南京事件に関する噂だとして次のような証言をしている。

 ”市民の大群が怒溝のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。その時、中支那方面軍情報參謀の長勇中佐が、機関銃を据えている兵士に、「あれを撃て」と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民だから、さすがに兵士は躊躇して撃たなかった。長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。驚いたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。”

 南京大虐殺に初めて疑問を投じた鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』(昭和47)にも、長参謀が「捕虜を始末せよ」という命令を発したという記述があり、さらに長中佐が関東軍の参謀時代、満州の炭坑で人手が足りないと聞くと、自分で奥地に出かけていって、徴発した男の家を目の前で焼き払い、里心を失くさせ働かせようとしたという逸話が載っている。なお、『「南京大虐殺」のまぼろし』では、「捕虜を始末せよ」という命令はあったが、数千人の捕虜の射殺は、命令に従っての虐殺ではなく、偶発的に起こった暴動によるものとなっている。
 また、東京裁判で検事側証人となり裏切り者と誹られた田中隆吉元少将も、長参謀から「無断で各部隊に、捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した」という話を聞いたと回想録「裁かれる歴史―敗戦秘話」に書いている。「裁かれる歴史―敗戦秘話」には、”大量虐殺は軍隊の統制ある集団的行為を以てするにあらざれば絶対に不可能であるのみならず、この軍隊の統制ある集団行為は上司の命令に依ってのみ始めて実行に移すことが出来るからである。”とも書かれている。
 戦前・戦中の日本人に国際感覚が欠如していたことは間違いない。島国のため外国人との接触がほとんどない日本人が、いわゆる島国根性になるのはさけられなかったであろう。
 日露戦争や第一次世界大戦で戦時国際法を遵守し捕虜を厚遇したのは、欧米先進国へ抱くコンプレックスの裏返しと言える。戦前の日本人は、英国や米国に対するのと同じほどに、"アーリアン民族の優秀性"を唱え、ユダヤ人を排斥する"世界に冠たるドイツ"に強いあこがれを持っていた。(戦前にドイツ留学をした義父の話。)
 日清戦争、日露戦争、第1次大戦と勝ち進んだ日本の軍部は、神州不滅と思い上がり、国民に独善的で神がかりな精神主義を強制する。曰く"大和魂"、曰く"撃ちてし止まん"。日本人の精神構造はゆがめられ、より偏狭となって行く。
 昭和初期、関東軍が満州事変を起こした。中国人をチャンコロと蔑視して満州国を建国し、さらに日中戦争へと進む。当時の日本兵の精神構造であれば、南京大虐殺もあり得る事実であろう。そして安東さんの目撃した「バラシュート降下したB29搭乗員への立川市民による集団暴行」となるのである。
                                終わり






















 



長編記録映画「セレベス - 海軍報道班員の報告
 アドバイザー仲間の安東さんから、成人の日で休日の2010年1月11日(月)午後、川崎市民ミュージアムで「セレベス海軍報道班員の報告」(177分)という当時のインドネシア戦線、セレベス島の記録映画の映写会があるとの連絡が入った。
 当日は、別件予定が入っていたが、この機会を逃がすと、二度と鑑賞のチャンスは巡ってこないと考え、アポ先に時間のやりくりをお願いし、承諾を得たことで、長編記録映画「セレベス」を堪能した。
 戦時下のセレベスの記録映画ということで、映画館で見る劇映画の前座に上映されるニュース映画の集合版とイメージしていたが、部分的にニュース映画は組み入れられていても、映画の目的は、新たに日本の占領地となったセレベス島がどのような土地であり、住民の様子や習俗などを内地に紹介する目的の文字通りの記録映画であった。制作は、ニュース映画専門の社団法人日本映画社で、セレベス海軍報道班員だった秋元憲氏が1年がかりかけて撮影し、自ら編集し、語りをいれた、上映時間ほぼ3時間という大作である。2004年に秋元氏の息子さんが、可燃性フィルムで残されていた父の遺作の、この記録映画を川崎市民ミュージアムに寄贈したので、ミュージアム側はこれの不燃化処理をおこなって、このほど完成したという。不燃化と同時に改善を試みたであろう画質、音質ともに、非常に良好に修復されていた。  
 映写会は、2部制(ともに有料)になっており、1部でこの長編記録映画「セレベス」が上映され、その後、2部では、戦時中のニュース映画4本が上映された。1本のニュース映画は、3項目か4項目で構成されているが、その中にたとえば、「セレベス奇襲作戦落下傘部隊初活躍」のように、それぞれに、セレベスに関連する項目が含まれている。上映時間は50分程度であった。
 私は、セレベスには、マカッサルとメナドにずいぶん通った。マカッサルでは、竹パルプを原料とする製紙プラント建設と変電所施設建設という二つのプロジェクトを担当した。メナドは、定年間近だったが、海運会社の集荷のF/Sで、メナドを拠点として、その昔、香料諸島と呼ばれた地域・海域を踏査した。そういうことから、マカッサルやメナドの風景を画面で見て懐かしみたいと思ったのである。実際に、画面に映るマカッサルの町並みとロッテルダム砦の様子は懐かしかったが、意外だったのは、メナドの海岸通りが、この当時は、まだ建設されておらず、ただの浜辺にすぎなかったことである。
 マカッサルやメナドへの出張は、数日単位のため、行動範囲はごくは限られていた。だから、この記録映画に映されている場所のほとんどは、行ったことがない。この映画の撮影班は、1年がかりで、たとえば、秘境といわれるトラジャのような奥地にまで踏み込み、死者を断崖の洞窟に葬る風習を映像に残している。また、ある地域の住民の結婚式では、お祝いに多数の水牛を殺すことが習わしだとして、その様子を撮影している。その意味で、この映画は貴重な映像資料である。
 もう一つ、この記録映画が極めて貴重な映像資料であると言えるのは、インドネシアにおける日本の軍政がどのようなものであったかを窺わせる様子が随所に映し出されている点である。
 インドネシアにおける軍政は、三つの地域(ジャワ、スマトラおよびセレベス等その他)に分割して陸海軍が軍政(海軍は「民政」と呼称)を実施した。海軍管轄のセレベスでは、マカッサルに「民政府」が置かれた。
 インドネシアにおける日本の軍政の根幹をなすものは、住民への皇民化教育だった。たとえば、「皇居遙拝」である。私は、ジャカルタの様子を映している戦時中のニュース映画の中で、「皇居遙拝」の光景を見たことがある。
 この記録映画には、広場での日本国旗の掲揚式や小学校での「愛国行進曲」の合唱の場面がある。また、「日本兵に対する最敬礼」のシーンが何度も映し出されている。オランダの婦女子を隔離収容している村で、オランダ人の子供が走行している撮影車に最敬礼している様子のナレーションが、「敗戦国民にはなりたくない。」であったのは皮肉である。
 この映画は当時の日本の国策に沿って制作された。オランダの圧政からインドネシアを解放し、住民はこぞって日本軍を歓迎し、大東亜共栄圏の建設に協力しているという設定である。しかし、日本国旗の掲揚を住民に仰がせるということは、住民にとっては、為政者がオランダから日本に変わっただけで、これを圧政からの解放とは言い難い。
 住民と言えば、この映画では、住民を原住民と呼んでいる。土人と言うよりはましかもしれないが、住民に対する日本軍政の目線は上から見下ろしていたと窺い知れる。
 この映画を見て意外に感じた事実がある。私は「インドネシア」という呼称の定着は、独立後と思っていたのだが、この映画では、はっきりと「インドネシア」が使われている。また、現在のインドネシア国歌「インドネシア・ラヤ」がBGMで流されていたのには、いささか驚かされた。
 もう一つ、当時まだ国民学校にも入学していなかった私だが、軍歌「空の神兵」が広く歌われたこともあり、パレンバンへの落下傘部隊降下については、よく覚えている。一方、メナドへの落下傘部隊降下については、インドネシアに関わるようになって、戦記物などを読んで知ったものである。「セレベス奇襲作戦落下傘部隊初活躍」などというニュース映画があったことは、今回の映写会で初めて知った。
 なお、2010年1月現在、同ミュージアムで再上映の計画はないが、現所有者としての川崎市民ミュージアム(044-754-4500)は、現在、著作権の関係で外部と協議中の部分があるので、これがクリアーすれば、個人は困るが、然るべき団体(インドネシア関係者の団体など)になら、フィルム貸し出しも可能になるだろう、ということである。