ジャカルタ・ジャパン・クラブ会報

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1991年3月号 蘭印の地の散策
   
1991年7月号 天皇の訪イ
     
 












  蘭印の地の散策
 
戦前の日本では、今のインドネシアを蘭印と呼んでいた。和蘭領東印度の略である。
この蘭印時代の面影を色濃く残す建物や遺跡がジャカルタ市内や近郊に数多く見られる。第二次大戦ゆかりの地もそこここにあり、訪ねてみると新たな感慨を呼びおこす。

 私が兼松株式会社の駐在員として初めてインドネシアの地を踏んだのは、今を去る29年前の1962年1月、スカルノ大統領の全盛時代だった。当時の空港は、今、跡地開発が進められているクマヨラン空港だった。その後、私は、60年代に2年、70年代には家族とともに5年、80年代に3年、インドネシアの駐在を勤めた。そして今、90年代に4回目のお勤めをしている。

 この間、1969年から72年まで3年間、東京でプルタミナの子会社のファーイースト・オイル・トレーデイング株式会社に出向した。ファーイーストオイル出向当時、若かった私はファーイーストが住友商事と組んで進めていた中部スマトラのプルタミナのデユマイ製油所建設プロジェクトを担当した。20年たった今、奇しき因縁で私は又、そのデユマイ製油所の拡張プロジェクトの実現に注力している。

 商社マンとしての私の人生のほとんどはインドネシアにかかわったことになる。もっとも私は東京外語大のインドネシア語科の卒業だから、かくあるのは当然の結果だったとも言えるかもしれない。元々、歴史が好きだったこともあって、私は基本的なインドネシア史は心得ていた。特に、まだ小学校の低学年だったが、パレンバンの落下傘部隊に代表される日本軍の蘭印攻略の展開を新聞やラジオやニュース映画で身近にとらえた体験からジャワ島の戦跡には少なからぬ関心を持っていた。更に、ジャカルタに住むようになってからは、そこここに見られる蘭印時代の名残に興味を持つようになっていった。

 最近、高速道路が伸びてきたことから、遠出をした時、ちょっと足を伸ばすことにより、そういった歴史の地を訪ねる機会が増えた。あらためて本を読み直すなどすると、それが新しい発見となり新しい知識となった。私自身がかかわった仕事の思い出とからめてオランダ植民地時代を偲ばせる建物や景観あるいは、日本人ゆかりの戦跡をとりとめなく御紹介しましょう。

西ジャワの戦跡
1.日本軍のジャワ島への上陸はシンガポール陥落後の1942年3月で、西部ジャワのメラック海岸、バンテン湾、パトロール海岸の3カ所ともう一つ中部ジャワというよりは、ほとんど東部ジャワの州境近くにあるクラガン海岸の4カ所で実施された。東部のクラガンに上陸した日本軍はスラバヤに向かう部隊とジョクジャを経由してチラチャップを目指す部隊の二手に分かれて進撃した。
 私は1974年の暮れ、このクラガンとスラバヤの中間にあるトウバンの近くでセメントプラントを建てるプロジェクトを手がけ、日本セメントの二人の技術者のサーベイにお供したことがある。クラガンの海岸も走ったが、ジャワ島には珍しい砂浜海岸だったという記憶しか、今は持ち合わせていない。

2.このクラガンの上陸作戦に軍属として従軍したことのある押尾美喜造さんという人がいた。押尾さんは、戦前、後述する西嶋重忠さんの下でバンドンにあったトコチヨダというデパートで働き、戦後は東日貿易に入って一時、デビ夫人の世話役をしたこともあり、その後、兼松のジャカルタに長くいて先年亡くなられた。深田祐介の"神鷲商人"に出てくる東邦商事の尾高善夫のモデルが、この押尾さんである。また、この神鷲商人には、私のファーイーストオイル出向時代の上司で、その後、同社の常務になった高橋健二さんも、岩下商店の棚橋浩治として登場している。
 西嶋重忠さんとは、戦前、左翼思想のため、一高を退学処分されてインドネシアに渡り、トコチヨダの支配人になった人で、戦中は海軍嘱託としてスカルノやハッタと親交があり、独立宣言にも関係したといわれている。戦後は、北スマトラ石油の常務として活躍され、その後、兼松やブリッジストン・タイヤの顧問をされておられた。先年、インドネシア政府より功労者として勲章を授けられた。

3.東部のクラガンはさておいて日本軍が上陸した西部ジャワの3カ所は、いずれもジャカルタから車で2時間のところにある。水平線のはるかにスマトラがかすみ、火山の噴火で有名なクラカタウ島が浮かぶスンダ海峡に面したメラックは、スマトラのランポンとの間のフェリーの発着場があり、砂浜や水がきれいな為、海水浴場としても知られている。又、メラックは隣接のアニェルとともにクラカタウスチールを中心とする重工業と石油化学のコンビナートとして、目下、開発が進められていることからジャカルタに住む日本人にも比較的なじみのある場所である。
 このメラックと比較すると、ジャカルタからメラックに向かうメインロードから横道にそれて奧に入った古都バンテンは、日本人にとってはほとんど忘れられた存在である。事実、今は、カランカタウという名前のうらぶれた漁港にJICAが納めた浅海養殖の研究所がある他は、イスラム教徒には有名なモスクがあるだけである。しかし、このバンテンは、16世紀後半から19世紀の始めまで栄えたバンテン王国の王都であり、1596年、オランダ人が初めてジャワに上陸し17世紀始めにバタビアに移るまでオランダの商館のあった地である。
 日本の城壁に似た石垣に囲まれたバンテン王国の王城の遺構は壮大で往時を偲ばせる。昔、何か大きな建物があったと想像できる崩れた煉瓦塀が立ち並ぶオランダの商館跡は、夏草の中にひっそりと静まりかえっている。この商館跡の近くには中国寺院があり、線香の煙がただよっている。バンテン王国の遺跡は、この他にも一二あるが、現存するメスジッド・アグン・バンテンは由緒ある回教寺院として有名である。
     
 4.1596年、オランダ人が初めてジャワ島に上陸したバンテンの地に、1942年、日本軍も上陸した。現在のバンテンの町は漁船がもやう川が海に注いでいるだけで、河口の周辺はマングローブの生い茂った泥地の海岸なので、ここに日本軍が上陸したとは思えない。クラカタウ・スチールのあるチレゴンからジャワ海に突き出てバンテン湾を作っている半島の方向へ走ると海は見えないが、視界が広がる。しばらく行って舗装道路が切れた所にグナヌサ・ファブリケーターのヤードがある。グナヌサはインドネシアのローカル業者ながら、ここで石油リグを組み立てている。この辺りが日本軍の上陸地点だったのではなかろうか。バンテン湾上陸作戦の時、今村司令官の乗っていた輸送船が沈められ、今村将軍は泳いで、バンテン湾のどこかに上陸したという。当時を知っている人はまだ現存している筈だが、私はそれを確かめる手だてを知らない。

5.バンテン湾に上陸した部隊は、当時のバタビアを目指した。一方、メラックに上陸した部隊はセランからランカスビトゥンに南下して、当時はバイテンゾルフと呼ばれていた今のボゴールを目指した。バイテンゾルフとはオランダ語で「庭園の外」という意味で、現在の植物園と大統領別邸を一つにしていたオランダ時代の総督別邸の外の町という意を現している。
 私は、ランカスビトゥンからボゴールまでの道を走りきったことはないが、ボゴールから逆に走って、20分位の所にあるチアンペアという田舎町に行ったことがある。このチアンペアの町から大変な悪路の山道を上がったところに、サンスクリット語で書かれた碑文と足跡を印した大きな石碑がある。西暦450年頃、栄えたタルマネガラ王国のものだといわれている。又、ボゴールの町にジャラン・バトウ・トリスという所があり、そこにもチアンペアの石碑ほど大きくないが、結構な石碑が残されている。インドネシア語で、バトウとは石、トリスとは書くという意味だからバトウトリスは石碑と訳せる。

6.ジャワ島に日本軍が上陸したもう一つのパトロール海岸も、それがどこなのか正確には知らない。私はプルタミナのプロジェクトに関係してチレボンやインドラマユ周辺のバロンガンやジャティバラン、チラマヤといったプロジェクト・サイトを見て回ったことがある。バロンガンにはジャテイバラン原油の積み出し施設があり、今、又、プルタミナの新しい製油所の建設現場になっている。チラマヤにはオフショアの天然ガスを集荷してクラカタウ・スチールのあるチレゴンまでパイプラインで送り出すプラントがある。パトロールという名前の町も街道筋にあるが、そこからは海は見えない。上陸場所がどこだったかは判らないが、しかし上陸した部隊が戦い、そして連合軍が無条件降伏をした歴史的なメモリアルが残っている地がある。カリジャテイ飛行場である。
 高速道路をチカンペックでおりてプルワカルタの手前で左折しバンドンに向かう街道の途中にカリジャティという町がある。その周辺は国営農場のゴム林とかパームオイルの農園が連なっている為、飛行場があるなどまったく気がつかずに通り過ぎてしまうと思うが、道を一つ外して奧に入るとインドネシア空軍の基地がある。これがカリジャティ飛行場である。パトロール海岸に上陸した日本軍はバンドン要塞を目指してカリジャティ飛行場を押さえにかかり連合軍との間に激しい争奪戦を演じたという。そして、ここで和平交渉を行い調印した。今はインドネシア空軍のトレーニング・センターになっているが、戦中、日本軍も航空隊の訓練所に使ったという。
 この飛行場の一角に今村司令官とチャルダ・ファン・スタルケンボルグ総督及びテルボールテン蘭印軍司令官が会見した建物と部屋が、当時のままに残されて博物館となっており、かっての激戦を偲ぶ写真や新聞記事が陳列されている。夏草の茂る飛行場の片隅にはオランダ軍や日本軍のトーチカが朽ち果てて残っている。ジャワ島に残る第2次大戦の戦跡である。
     
  「日本兵ここに眠る」の碑    
     
 バタビア散策
 オランダ植民地時代、ジャカルタはバタビアと呼ばれていた。1619年、オランダの東印度会社がジャヤカルタと呼ばれていたこの地に本拠を置いた時、オランダの一地方の名前にちなんでバタビアと改めた。バタビアという名前は、約300年の間続いたが、1942年、日本が軍政を施いた時、ジャカルタという名前を復活させて、それが今に至っている。
          
1.私が初めてジャカルタに赴任した1962年1月当時の兼松の事務所は、コタのジャラン・コピ51番地にあり、その建物は今も変わらず残っている。駐在員は所長以下、私も含めて4人で、全員が今も兼松の単身赴任者のメスになっているクバヨランバルのジェンガラ寮に住んでいた。
 クバヨランバルからコタまでの道筋は、今と同じスデイルマンからタムリンを通り、ムルデカ広場の西側ムルデカバラットを通り抜けて行ったのだが、その景色は一変した。
 クバヨランからホテル・インドネシアまでのスディルマン通りは、アジア大会のために建設中のスナヤン競技場と、すでに出来上がっていたスマンギの立体交差を除いて、建物らしい建物は無く、今日のような摩天楼が競い立つ壮観は想像もつかなかった。
 クバヨランバルはメンテンと並ぶ高級住宅地で、戦前に設計され戦後すぐに完成されたと聞いており、1962年当時すでに今の景観は出来上がっていた。ただ、クバヨランバルの入り口にある火を掲げる青年の像は無かった。ちなみにプルタミナが寄贈したこの銅像は一世を風靡したプルタミナの元総裁イブヌ・ストオをモデルにしていると言われており、事実その風貌はストオさんに似ている。
 タムリン通りは、私の来るちょっと前に貫通したとかで、それ以前はプレシデント・ホテルやサリ・パシフィック・ホテルの裏をタムリンと並行して走っているハジ・アグス・サリム通りがメインロードだったという。この通りは戦前ジャラン・サバンと呼ばれ、今でもその方が知られている。
 ホテル・インドネシアの前から独立広場に至るタムリン通りで、1962年当時もあった建物といえば、工事中のホテル・インドネシア、英国大使館、サリナ・デパート、宗教省、バンク・インドネシア、今の鉱山エネルギ省の建物位だったと記憶する。ちなみに、ホテル・インドネシアとサリナ・デパートは日本の賠償で建てられたものである。
 ホテル・インドネシア前のロータリーと歓迎の像はすでにあったが、ヌサンタラ・ビルやプレシデント・ホテルは着工もしてなかった。ロータリーといえば、ホテル・インドネシアから独立広場までにタムリン通りはワヒッド・ハシム通りとクボンシリー通りに交差するが、それぞれの交差点にロータリーがあった。
     
 ホテル・インドネシアより英国大使館方向を望む    プレジデント・ホテルはまだ建っていない。
 2.オランダ時代、今の独立広場は、オランダ語で、ロイヤル広場という意味のコーニングス・プレインと呼ばれていた。独立広場の周りの建物は、大統領官邸や象の彫刻とジャワ原人の化石で有名な国立博物館など、今も蘭印時代の面影を残したものが多いが、広場そのものは考えられないほど大きく変わった。
 29年前、モナスは立っておらず、真ん中から放射状に走る4本の広い道路も、今の見本市会場や遊園地も無い雑草の生えた原っぱだった。現在のムルデカ・バラット通りは、片側4車線の広い道路が上下2本中央分離帯をはさんで走り、その中央分離帯の真ん中にも丈の高い大木を並木にしたプロムナードが通っている。1962年当時のムルデカ・バラット通りは、国立博物館側の4車線だけで、今の中央分離帯の内側には人の群がる警察署があった。私はここで指紋登録をした。
 ムルデカ・バラット通りには国立博物館の他、国務大臣府、国防省、昔はプルタミナの財務部と北スマトラ石油が入っていた今の福祉調整大臣府など戦前からの建物が残っている。この福祉調整大臣府の建物は蘭印時代は日本領事館だったと聞いている。独立広場の南側のムルデカ・スラタンの方はあまり憶えていないが、鉱業エネルギー省の建物は変わっていないし、米国大使館もそのままだったと思う。
 独立広場の北側のムルデカ・ウタラは目立たないが、かなり変わった。大統領官邸と隣接の衛兵詰め所やモスクはそのままだが、大統領官邸の向かって左側の官房長官府庁舎と右側の最高諮問会議院のビルは、この10年位の間に建てられたものであり、官房長官府と最高諮問会議院の公園のような庭は、ごく最近、整備されたものである。官房長官府の広い敷地のムルデカ・ウタラ通りに面した所には、つい先だってまで民間のオフィス・ビルが1軒立っていたし、今のマジャパヒット通りに面した所は、ハルモニーと呼ばれ、戦前のオランダ人クラブが立っていたが、今はそれをつぶしてマジャパヒット通りを広げた。
 最高諮問会議院ビルと、コタ方面から一方通行で入ってくるベテラン第3通りをはさんだ隣に新しく最高裁判所のビルが建ったが、ここには元プルタミナの国内調達局のオフィスがあって、私は70年代の駐在の時、よく通ったものである。

3.独立広場の東側では、目下、高架鉄道の工事が進められており、古くからあったガンビル駅も、今は取り壊された。まだ地上を走る鉄道に沿って広場の東側にあるムルデカ・ティムール通りには、メスジッド・イスティクラル回教大寺院やプルタミナの本社ビルを別にすると古い建物が結構残っている。
 ムルデカ・ティムール通りからボロブドゥル・ホテルのあるバンテン広場に向かう角に立つプルタミナの古い建物は、そのすぐ裏に立つ高層の本社ビルが建つまでの本社であり、更にその昔は、ロイヤル・ダッチ・シェルの本拠だった。他にも運輸省ビルとかイマニエル礼拝堂、電力公社のガンビル営業所などは、戦前からの建物である。イマニエル礼拝堂の裏側にあるパンチャシラ・ビルはオランダ時代の議事堂であり、インドネシア共和国最初の国会議事堂だった。
 プルタミナと運輸省ビルの間にある軍の施設は、1965年の9.30クーデターをひっくり返した戦略機動予備隊司令部(コストラッド)で、スハルト大統領は、9.30事件当時、コストラッドの司令官をしていた。
 9.30事件といえば、タマン・ミニ・インドネシアの近くで、ハリム空港の裏手に当たるロバン・ブアヤに6将軍殉難の記念公園がある。9.30事件当時、ハリムは軍用飛行場で空軍はスカルノを擁してクーデターを支援する動きをしていた。この頃の国際空港はクマヨランで、その後、現在のチェンカレンが開港するまでハリムが国際空港となった。
 回教の総本山メスジッド・イスティクラルのある場所は、オランダ時代は、由緒ある公園で、ヴイルヘルミナ・パークと呼ばれた。オランダ人の男女が散歩している古い写真を見たことがある。
 ロイヤル・ダッチ・シェルと並んで戦前から勢力を振るっていたスタンバックの本社が、ムルデカ・スラタンの鉱業エネルギー省の建物で、戦時中は日本軍の司令部が置かれた。今村司令官は、今の大統領官邸から馬で通ったとか。大統領官邸は、日本軍政時代は、軍司令官官邸であり、蘭印時代は、オランダ総督官邸だった。

4.ホテル・インドネシア前のロータリーからマンダリン・ホテル方向に走る道路をイマンボンジョル通りという。イマンボンジョル通りは、きれいなグリーンベルトの中央分離帯を持ち、鬱蒼とした緑の見事な並木通りで、蘭印時代はオラニエ・ブルバードと呼ばれていた。正確な場所は忘れたが、1962年当時の日本大使館は、イマンボンジョル通りに面していた。
 このイマンボンジョル通りの途中に国家開発企画庁の建物があり、道路をはさんだ真向かいのタマン・スロパティ公園からイマンボンジョル通りと直角に走るティウク・ウマール通りや、ヌサンタラ・ビルの横から河に沿って走るスタン・シャリル通り、ヌサンタラ・ビルの裏から斜めにチキニ方向に走るサムラトランギ通りなどを抱えた地域をメンテンといい、戦前からの最高級住宅街である。スハルト大統領やイブヌ・ストオ元プルタミナ総裁の屋敷もこのメンテンの一角にある。
 イマンボンジョル通りは、少し行くとディポネゴロ通りと名前が変わり、鉄道の踏切を渡ってしばらくすると、チプト・マングンクスモ病院、インドネシア大学、セントカルロス病院といった蘭印時代の名残がうかがえる建物を見ることが出来る。セントカルロス病院には、私の妻が一時、入院したことがある。
 ディポネゴロ通りから右折してプロクラマシ通りに入り直進して、大通りを渡ってしばらく行くと、ボゴールとタンジョン・プリオク港を結ぶ幹線道路に出る。頭上にはジャカルタ市内からタンジョン・プリオクにつながる高速道路が高架で走っている。この幹線道路を右折してちょっと行くと、100年の歴史を誇るラワマングン・ゴルフ場がある。この地域にはオランダ人が楽しんだだろう競馬場のスタンドも残っている。ラワマングン・ゴルフ場の裏手にプロガドン浄水場がある。これは兼松が納めたもので、私も担当者の一人だった。プロクラマシ通りというのは、いうなれば独立宣言通りであり、デイポネゴロ通りからプロクラマシ通りに右折してしばらく行くと、スカルノとハッタの銅像が立っている記念公園がある。スカルノの自宅があった所といわれており、1945年8月17日、ここで独立が宣言されたのである。

5.インドネシア語でパッサル・イカンとは魚市場のことである。コタのはずれにパッサル・イカンと呼ばれる一角がある。ジャカルタ湾に注ぐ汚い河の河岸に雑貨を売る商店が連なっている。別に新しい魚市場が出来たので、今は魚を売っておらず、名前だけのパッサル・イカンである。市場の入り口には見張り台のような哨楼があり、年代物の艤装砲が置いてある。銃眼のついた古い大きな兵舎のような建物は海洋博物館になっている。この小さな漁港のような港が、16世紀の頃、スンダ・クラパ港と呼ばれインドネシア史にその名を印した。
 ヒンドウ教のパジャジャラン王国と同盟を結んだポルトガルはこの地に砦を築いた。1527年、イスラム教のデマック王国は、この地でポルトガルとパジャジャラン王国の連合軍と戦い勝った。スンダ・クラパは勝利の町という意味のジャヤカルタと改められた。ジャカルタの発祥の地はパッサル・イカンと言える。パッサル・イカンは、今、スンダ・クラパ記念公園として整備されている。

6.17世紀の始め、このジャヤカルタの地にオランダ東印度会社が本拠を移してバタビアと呼ぶようになった。パッサル・イカンからほど近いコタ駅のすぐそばにある今の歴史博物館を中心として、大川という意味のカリ・ブサールの両岸が、初期のバタビアである。その後、バタビアは南に伸びて行く。今のガジャマダ通りとハヤム・ウルック通りにはさまれた運河をモーレンフリート運河といい、両側の道路も併せた一帯をモーレンフリートと呼んだ。初期のバタビアにモーレンフリート周辺を加えた地域が、今のコタである。
 英語のシテイホールに相当するスタット・ハイスと呼ばれた今の歴史博物館には、18世紀前後のオールド・バタビアを偲ばす古い絵や地図が陳列されている。この建物には地下牢もある。
 ガジャマダ通りに面した国立古文書館は,18世紀頃のオランダ総督官邸だった。この古文書館を背景にして運河に浮かぶ船を描いた古い絵を見たことがある。またこの古文書館にはじゃかとらお春の手紙が残されていると聞いている。
 19世紀以降、行政の中心がコタからヴェルテフレーデンと呼ばれた今のバンテン広場の周辺に移って行ったが、それでもコタは金融と商業の中心として栄えた。コタ駅前の銀行街は、重厚でいかにも植民地風であり、カリ・ブサールの河岸の商館やジャラン・コピからパッサル・イカンにかけて軒を並べる古い倉庫群は、オランダ商人の活躍の名残であろう。カリーブサールにかかる跳ね橋はゴッホの絵にあるようなオランダ式跳ね橋であり、カリ・ブサールの両岸の景色はオランダの町並みを思わせる。
     
  カリ・ブサール      跳ね橋
 7.ヨーロッパにナポレオンが一時代を画した、1800年代初頭、バタビアの政治の中心はヴェルテフレーデンと呼ばれた今のバンテン広場の周辺地域に移った。バンテン広場とはボロブドゥル・ホテルの前にある広場で、オランダ時代はワーテルロー・プレインと呼ばれた。1814年、英国のウエリントンがナポレオンをワーテルローの会戦で破ったのを記念した広場である。
 この広場に面した今の大蔵省のビルが、オランダ植民地の政庁だった。大蔵省ビルは大理石造りの立派な建物で、隣の旧最高裁判所の建物と並んで立つ様子は、植民地統治のシンボルといった趣である。お隣のシンガポールでも、クリケット競技場のある広場を前にして政庁と最高裁判所が並び立っている。広場の一角にそびえ立つゴジック建築のカテドラル教会もよく目立つ建物である。
 大蔵省と広場の間を仕切って走る道路は、パッサル・スネンの交差点からまっすぐ来てパッサル・バルの入り口につながっている。もっとも今は、広場からパッサル・バルまでは、一方通行で車では直進できない。パッサル・バルの入り口の真向かいに国立劇場があり、その隣に中央郵便局がある。いずれも蘭印時代の建物である。向かいのパッサル・バルとの間に流れるチリウン河と並行して走る道路は戦前から郵便局通りと呼ばれている。 バンテン広場の中央には、鎖を断ち切った両手を高々と挙げて解放の喜びをうたっている青年の像があるが、古いオランダ時代の写真を見ると、このイリアン解放の像と呼ばれる銅像とまったく同じ場所に、一番上にライオンの像を置いた高い塔がある。ワーテルロー戦勝記念碑であり、ワーテルロー広場の由縁である。また、今の大蔵省ビルである旧政庁の入り口前にクン総督の像が立っている写真を見たことがある。現在は、こういった植民地時代の記念像はあとかたもない。
     
     
  ワーテルロー広場、 現在のバンテン広場     クン総督像
 8.ヴェルテフレーデンと呼ばれた地域には、パッサル・バルやボロブドゥル・ホテル、アルヤドゥタ・ハイヤット・ホテル、プルタミナや回教大寺院、カテドラル教会など、ジャカルタに住む日本人には比較的なじみがあって、すぐ頭に思い浮かべられる建物や場所がある。
 アルヤドゥタ・ハイヤットからグヌンアグン書店方向に行く道を走ると賑やかなパッサル・スネンに出る。パッサル・スネンからアンチョールに向かう大通りは、グヌンサハリといい、オランダ時代には、グローテ・ザイデル・ヴェッフと呼ばれた。英語に直すと、グレート・サザーン・ウェイになる。
 グヌンサハリ通りをしばらく行くとパッサル・バル方向から昔のクマヨラン空港に向かう郵便局通りと交差する。この交差点の角には、海軍司令部がある。郵便局通りと並行して流れてきたチリウン河は、この交差点で直角に曲がって、今度はグヌンサハリ通りに沿ってアンチョールの方向に流れて行く。
 アルヤドゥタ・ハイヤットから始まってパッサル・スネンでグヌンサハリ通りに入り、海軍司令部前で郵便局通りに左折して回教大寺院に至るまでが、ヴェルテフレーデンの南と東と北の境界線である。
 西の境界線はチリウン河である。チリウン河はアルヤドゥタ・ハイヤットの横からパンチャシラ・ビルの脇を通って、プルタミナを迂回して回教大寺院に突き当たり二つに分かれる。一つは、パッサル・バルの向かいにあるピントゥ・アイルの水門で曲がって、郵便局通りと並行して海軍司令部の方向へ流れる。もう一つは回教大寺院と鉄道線路の間を抜けて、ベテラン通りとジョアンダ通りにはさまれたチリウン運河に流れる。チリウン運河は、ハルモニーで直角に曲がって、ガジャマダ通りとハヤム・ウルック通りの間を流れてコタに至る。オランダ時代のモーレンフリート運河である。ガジャマダ通りとハヤム・ウルック通りも合わせて、モーレンフリートと呼ばれた。また、ベテラン通りはレイスヴェイク、ジョアンダ通りはノールドヴェイクと呼ばれていた。
 ピントゥ・アイルの水門から大統領官邸の裏にあたるイスタナ・ネガラの前を通ってハルモニーまでのベテラン通りの古い呼び名であるレイスヴェイク周辺は、19世紀の始め、当時の蘭印を支配していた英国人のスタッフォード・ラッフルズの命令で、エリート白人のみの居住地になったという。レイスヴェイクの一番端にハルモニーがある。ハルモニーの今の官房長官府のマジャパヒット通り際に立っていたオランダ人クラブの絵や写真は非常に多い。モーレンフリートからハルモニーの角を曲がってレイスヴェイクとノールドヴェイクに至る道筋は、オールド・バタビアからヴェルテフレーデンへの発展の道筋だったといえる。
 シンガポールを開いたことで知られる英国人のラッフルズが、この地にあったのは、19世紀の初頭、ナポレオン戦争が終わってしばらくの間、イギリスが蘭印を支配したからである。ラッフルズの妻は、ジャワで亡くなったが、それを追悼した碑がボゴールの植物園の中にある。

9.タンジョンプリオク港は、およそ100年前の1896年に完成した。ジャカルタからタンジョンプリオクへは、コタ駅からの鉄道があるが、グローテ・ザイデル・ヴェッフと呼ばれたグヌンサハリ通りがメインロードだった。グヌンサハリ通りは、アンチョールの前でコタから来る鉄道線路と並行する道路に突き当たる。ここから海岸づたいにタンジョンプリオク街道になる。私が初めてジャカルタに来た1962年当時、アンチョールの今の遊園地あたりは一面の干潟で埋め立ての最中だった。
 タンジョンプリオクの港にプルタミナのLPG貯蔵施設がある。各家庭が煮炊きに使っているプロパンガスは、ここのタンクに貯蔵されたもので、ボンベ詰めで市販されている。タンジョンプリオクからボゴールに向かう幹線道路をしばらく行った右側にホンダの自動車組立工場があり、その向かいにプルタミナのタンクヤードがある。タンクヤードの一角にLPGボンベの製造工場がある。LPGの貯蔵設備とボンベの製造工場は、兼松がプルタミナに納めたものであり、1975年から77年にかけて、私はその建設に従事した。又、ホンダの自動車組立工場には兼松も一役買っている。

10.ヴェルテフレーデンやコーニングス・プレインと呼ばれた今の独立広場からメンテンの辺りは、19世紀以降に形つくられた新しいバタビアであるのに対して、それ以前の17世紀から18世紀にかけての古いバタビアが今のコタである。コタは、又、チャイナ・タウンである。今も、中国寺院や廟がそこここに見受けられるし、パンチョランやグロドックは華僑の商店街であり、ピントウ・クッチルは繊維や雑貨の問屋街である。
 ガジャマダ通りがパンチョランの商店街にかかる手前の左側には、1965年の9.30事件の時、焼き討ちにあった中国大使館があり、長い間、廃墟となっていたが、中イ関係が復交した今、更地にして工事中である。ここに中国大使館が再建されるのかどうかは知らない。
 日本商社の事務所は、最近はスディルマンに多くなったが、それ以前はタムリンであり、さらに1960年代の終わり近くまでは、華僑との取引が多かったせいであろう、ほとんどがコタにあった。1960年代、賠償など政府関連のビジネスで官庁を訪ねるにしても、今と比べて車が少なかったので、コタから容易に独立広場周辺に出掛けられた。60年代、兼松は、当時のマカッサル、今のウジュンパンダンに賠償で製紙工場を納めるプロジェクトを進めていた。工業省が所轄で、当時は、ガジャマダ通りにあった。そのオランダ風の建物は、今も残っている。
 バタビアの名残を今にとどめる地は、他にはタナアバンやジャティネガラがある。ジャティネガラは、日本人にはなじみのうすい地だが、昔はメーステル・コルネルスとオランダ風に呼ばれていたとか。タナアバンからしばらく行ったスリピのプタンブナンの墓地には、からゆきさん時代からの日本人物故者の納骨堂があり、ジャパンクラブでは、毎年、供養の行事を行っている。

                           終わり
 











 天皇の訪イにあたって - 再び昔話
 この秋、天皇陛下が訪イされると聞いています。昭和天皇は一度もインドネシアに来られたことがなかったので、日本の天皇としては初めての訪イになります。まさに歴史的な事件といってよいでしょう。
 天皇としては初めての訪イですが、今上天皇は皇太子時代、新婚3年目の美智子妃殿下とともにスカルノ大統領の時のインドネシアに来ています。1962年2月でした。
     
 滞在中、スナヤンの室内競技場でインドネシア民族芸能の鑑賞の夕べが催され、皇太子御夫妻とスカルノ大統領の前でインドネシア少年少女合奏団がアンクロンでサクラサクラを演奏しました。この演奏がいつのまにかスカルノ大統領の愛唱歌ブンガ・サクラが歌われたという伝説になりました。
 私はこのジャパンクラブ会報の3月号に"蘭印の地の散策"と題した拙文を載せて頂きましたが、その中で今申し上げたブンガ・サクラの伝説と、同じ1962年のアジア大会で打ち上げた花火のエピソードが抜けていることを、今度、私のところの新任支店長として赴任した羽根田から指摘されました。
 内輪話ですが、羽根田は私が最初のジャカルタに赴任した62年当時も先任駐在員で居りましたし、その後、70年代にもお互い二度目のお勤めで一緒でしたので、そんな昔話を知っているというわけです。
そういうわけで1962年皇太子御夫妻訪イの時の目撃談とアジア大会の花火の打ち上げの顛末を御紹介させて頂こうとまたまたペンをとった次第です。
 ついでながら3月号に載せて頂いた拙文にも思いがけない後日談がありましたので、御披露させて頂きます。

第一章
 3月号が出たすぐ後、4月始めに私の義父が千葉大工学部で教授をしていた時の教え子(82才)が46年振りにバタビアの懐古旅行にやって来て兵隊当時住んでいた地に連れて行ってくれと頼まれました。当時の日本軍の兵器廠の隣で、近くには鉄道線路と川が流れていたというだけが手がかりでした。
 例の3月号を見せたところ結構古い地名を憶えていましたが、肝心の兵器廠の場所は判りません。いくら私がジャカルタの地理を知っていても、これだけは当時を知っている人に聞かないことには探しようがないので、先輩方に聞きまくり、回り巡って夕暮れ時、ジャテイネガラ近くのその地にたどり着きました。82才の老人の目にやどる涙に気が付き、これはまさにセンチメンタル・ジャニーだなと思いました。当時の日本軍の兵器廠は今もインドネシア陸軍の兵器廠として使われていました。
 次にレバラン休暇で日本に行き、その帰り成田空港の待ち合わせラウンジではからずも3月号で御紹介した西嶋重忠さん御夫妻にお会いしました。御夫妻は独立宣言に関わった日本人の証言を求めるというインドネシア人グループの招待で訪イするところでした。この西嶋さん御夫妻の訪イについては新聞や翻文館の記事で報道されていたので御承知の向きも多いと思います。
 その後あるカラオケバーに行ったところ、20年前プルタミナのデユマイ製油所建設で一緒に仕事をした住友商事の中山さん、内原さん、中西さんに会い、内原さんから私の書いた日本軍のジャワ島上陸作戦のくだりについて一部誤りを指摘されました。
 以上の皆さん方はいずれも長い付き合いの人たちですが、まったく面識のないアセアンセンターの中島慎三郎さんという方からある日突然、謹呈として中島さんの著作5点を添えた上で私の文を面白く読みました、続けて下さい。というお手紙を頂きました。中島さんに紙上を借りて御礼を申し上げます。

第2章
"真白き冨士の気高さを心の強い盾として・・・"で始まる"愛国の花"という戦時歌謡があります。この歌は戦時中のインドネシア人に受けて流行ったそうで、前の大統領のスカルノさんもこの歌が大好きで"ブンガ サクラ インダー ブスリスリ(桜の花が咲き誇る)"と自らインドネシア語に直して愛唱したそうです。
 この歌を民族衣装に身をつつんだインドネシア少年少女アンクロン合奏団が、皇太子御夫妻とスカルノ大統領を前にして歌ったという話は、話とすれば面白いのですが、その場に居合わせた私が聞いたのは、サクラサクラの演奏でした。それでも場内は水をうったようにシーンとしたものでした。ブンガ・サクラという歌をスカルノさんが好きだったという話に尾ひれがついていつのまにか皇太子御夫妻の前で歌われたという伝説になったのではないでしょうか。
 私が初めてジャカルタに赴任したのが、1962年1月で皇太子御夫妻の訪イは、その年の2月でした。当時は、在留邦人の数が少なかったので、かけだしの私でも、空港出迎え、スナヤンの室内競技場でのインドネシア民族芸能の鑑賞、大使公邸での在留邦人へのレセプションに出席させてもらい、皇太子と当時、美智子さんと親しく呼ばれていた妃殿下を目の当たりに見ました。ミッチーブームを巻き起こした皇太子と正田美智子さんの御結婚はその2年前でした。
 皇太子は風邪に悩まされて顔色がよくありませんでした。対照的にスカルノ大統領はあから顔の嚇灼とした偉丈夫でした。御夫妻に対してスカルノ大統領はホステス役を伴わず一人で対応されました。デビさんのデビュー前というわけで、デビさんはその後、池田首相の訪イの時、初めて正式なホステスとして登場しました。

第三章
 同じ年、アジア大会が開かれました。
 この大会は政治的にもめて、大会後、主催国のインドネシアはIOCを脱退して、新たに新興国競技会という意味のガネフォを結成、翌年、ジャカルタで大会を開催するなど波乱を巻き起こしました。
 当時のスカルノ大統領は、ナサコムという民族主義、宗教、共産主義の協力体制を基本とした政策をとっており、外交的には、北京ーハノイージャカルタ枢軸を結んで反米的な姿勢をとっていました。アジア大会を開くにあたっても、意識的に台湾とイスラエルに招待状を出さずボイコットしました。
 これに対してインドから出ていた組織委員長が、本大会はアジア大会と認めがたいと発言したため、インドネシア国民のインドに対する反感が激しく高まり、開会式にインド選手団が行進するとブーの罵声が競技場をつつみました。閉会式直前のイベントはサッカーの決勝で、これはインドと韓国の間で争われましたが、場内は韓国への声援一辺倒でした。(どちらが勝ったかは忘れました。)
 この大会の日本の陸上競技選手団のキャプテンは三段跳びでローマ・オリンピックにも出た桜井孝治君でした。桜井君と私は小石川高校時代、陸上競技で一緒に三段跳びをやっておりました。高校生の東京大会で、私が簡単に予選落ちするのを後目に、桜井君は優勝、次いで南関東大会でも優勝、インターハイに出ても優勝と全国レベルになりました。高校卒業後は、早稲田を経て日立製作所に入社してローマ・オリンピックに出場、アジア大会にはエースとして来イしたものでした。
 このアジア大会の為に、今のプルタミナ、当時のプルミナは花火一式を兼松から買いました。日本から二人の花火技師が来イし、開会式、中日、閉会式と3回に分けて花火を打ち上げました。私はその担当者でしたので、アジア大会中ずっと競技場に出入りしており桜井君に会いました。高校時代の競技仲間が思いがけないところで、異なった立場で再会したというわけで、そんなことから陸上競技選手団の全員を兼松のジェンガラ寮に呼んで日本料理でもてなしました。ジェンガラ寮のコックは中国人でしたが、日本料理を上手に作ることから当時の日本人社会では評判でした。
         
 前列中央が桜井君、右が私。  水泳会場     記念トロフィー  
  打ち上げの兼松側の担当が私だったのに対して、プルミナ側はスダルノ大尉という軍人でした。非常に誠実な人で、花火技師の一人がカメラを盗まれると弁償までしてくれました。この時から10年ほどして、私がプルタミナの子会社のファーイーストオイルに出向して、いろいろなプロジェクトを担当するようになって、伝わって来たプルタミナの製油局の責任者の名前にスダルノという名前がありました。あのスダルノさんかなと思っていたところ、ある日、来日されました。やはり花火のスダルノさんでした。
 スダルノさん自身も、花火打ち上げをメモリアル・イベントとして記憶されており、何かある度、大勢の前で、私と一緒に花火を打ち上げたと披露してくれて、私として大いに面目をほどこしました。1970年の万博には、私が御案内し、足を伸ばして水島のコンビナートの見学に行ったこともありました。
 スダルノさんはプルタミナの製油局の理事から鉱業エネルギー省石油ガス総局長になられ、今はコンサルタントをやっておられます。
 花火打ち上げは盛大でした。開会式の後、スナヤンの今のゴルフの練習所で、まづ打ち上げを行いました。夜空にきらめく花火は、当時のインドネシアの人にとって、おそらく初めて見るものではなかったでしょうか。打ち上げの後の仕掛け花火には拍手大喝采で、終わった後、取り囲んだ群衆は兵隊の阻止にもかかわらずどっと押し掛けて、まだこれから後使う予定の何十本もの筒をあっという間に持ち去られてしまいました。花火屋さんは、困った困ったと半泣きで、この時、カメラを盗まれました。道具をあらかた持って行かれたので、後の打ち上げに支障ないか心配しましたが、なんとか中日と閉会式にも打ち上げを成功させました。忘れられない思い出です。
                                            
                                終わり