インドネシア向けプラント案件に対する輸出金融
従来機械設備の延払輸出商談では、国際協力銀行(JBIC)の輸出者に対する国内融資であるサプライヤーズ・クレディット(S/C)の利用が主流でしたが、昨今、フィリピンやロシアなどには、JBICより地場銀行向けに供与されるツーステップ・ローン方式がより利用しやすい状況になってきています。
しかしながら、かって、円借款によるツーステップ・ローンが供与されていたインドネシアには、現在、その類の仕組みはありません。
また、S/Cにしても、日本貿易保険の国別引き受け条件が、わずか12ヶ月のユーザンスしか認めていないため、結果的にJBICの融資期間も12ヶ月のみとなります。
なお、2008年10月より発足の新JBICによれば、S/C業務は廃止とのことです。
ゴア製紙工場跡地にハサヌディン大学工学部
2006年8月
円借款候補案件の一つとして、インドネシア政府より日本政府に要請されている「ハサヌディン大学工学部整備事業」の「案件形成促進調査(SAPROF=Special
Assistance for Project Formation)」を国際協力銀行がアナウンスしたことを、たまたま知った。
ハサヌディン大学は南スラウェシ州マカッサル市に位置しているが、今回の事業計画では、現工学部を4学部に拡張し、新キャンパスを旧製紙工場の跡地に移転するとなっている。旧製紙工場とは「日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定(1958年)」により、兼松が受注し建設したゴア製紙工場のことである。
1960年代、私はマカッサル製紙工場建設プロジェクトのジャカルタ連絡員を勤めた。完工し、施主の工業省に引き渡してからは、国営のゴア製紙工場となった。その後の修復プロジェクトの関わりや紙パルプ担当者との同行などで、何度か工場を訪ねた。少なくとも10年前までは、生産運転していたが、その工場が今、閉鎖され、跡地が大学キャンバスに変わると聞き、感慨を新たにした。
ゴア製紙工場の閉鎖ほどの驚きではないが、なじんでいたウジュンパンダンの名前がまた、マカッサルに戻っているのも、意外であった。1960年代、製紙工場建設に関わっていたころはマカッサルであった。2度目のジャカルタ勤めの1970年代、電力公社向け「ウジュンパンダン変電所建設プロジェクト」を受注し、毎週1度はジャカルタから建設現場に出向いた。その時のウジュンパンダンがまた、マカッサルになっているのである。聞くところによると1999年に当時のハビビ大統領によって改名されたそうである。
註:「ハサヌディン」は、かって、この地を支配していたゴア王国第16代の王様の名前である。ハサヌディン王は香料貿易の支配をめぐりオランダ東インド会社との戦争で破れた。オランダと戦った英雄として、大学や空港にその名をとどめている。
コア王国を滅ぼしたオランダは、この地にフォートロッテルダムを築いた。フォートロッテルダムの砦跡は保存されている。
会社経営を行う仕組み
1.株主総会
機能 最高の意思決定機関
種類 @定時総会:年1回。会計年度終了後遅くとも6ヶ月以内。 A臨時総会:定款にて規定。
権限 定款の蛮更、取蹄役・コミサリスの選任、配当の承認、年次決算報告等
2.コミサリス・コミサリス会
機能 取締役の方針を監督し、アドバイスを与える機関
人数・任期 人数:定款の規定により株主総会で決定。通常1〜3人。
上場企業は2人以上任期:定款にて規定
権限等 ・コミサリス会は株主に替わって会社経営の監督を行うす。
・権限:定款にて規定。取締役の解任権、業務差し止め権、取締役不在中の業務運営権等。
・外部に対する代表権はない。
3.取締役・取締役会
機能 会社の日常業務を行う必須の機関
人数:定款にて規定。1人とすることも可能。上場企業は2人以上
任期:定款にて規定
その他
・任期、権限、報酬等は定款により規定,(ただし、任期を終身とすることは法律で禁止)
・取締役会の1名を社長に選任.
・代表取締役は定款にて規定できるが、規定がない場合、全取締役が代表権を持つことになる。
また、代表権の有無に閏わらず、各取締役の対外的なコミツトは会社を拘束する。
コミサリスとは?
コミサリス(Komisaris)は、オランダ商法の監査役(Commissaris)に由来します。かつて、オランダ在住のオランダ人株主は、自ら総会に出席する代わりに、自分の意をくんだ人物を監督のためにインドネシアに派遣しました。このような人物がコミサリスと呼ばれ、いわば株主代理人のような役割を持っていたのです。日本の会社法では監査役に相当しますが、日本の監査役よりも強い権限を与えられています。なお、1995年の会社法改正により、コミサリスの任命が強制となりました。
(資料出所:アセアンセンター)
デュマイ製油所建設と高橋さん
40年近い昔、1969年から72年までの3年間、私はインドネシア石油ガス公社(プルタミナ)の日本子会社ファーイースト・オイル・トレーデイング(FEO)に出向した。私の直属上司は、三井物産の業務部からFEOに移籍した高橋健二さんだった。
高橋さんは東京工業大学電気科卒業のエンジニアだが、英語とインドネシア語に堪能で、物産が吸収合併する前の木下産商のインドネシア・ビジネスの推進役だった。深田祐介の“神鷲商人”に描かれている3人の日本人の1人、“岩下商店の棚橋浩治”は、高橋さんがモデルである。
高橋さんの言葉は非常に重みがあった。有名なイブヌ・ストオ総裁が君臨する親会社のプルタミナでも高橋さんの見解は尊重された。ストオ総裁の懐刀で、プルタミナの各種プロジェクトのコーディネーターであったティルト・ウトモさんや製油局長のスダルノさんの信頼も絶大であった。
プルタミナの幹部もさることながら、日本では商社・メーカー・エンジニアリング会社の関係者はもとより当時の通産省(現在の経済産業省)や大蔵省(現在の財務省)のお役人からも信頼されていた。通産省の関係部課と商社連合との合同会議の席上、通産省のキーマンで輸出保険課の係長だった伊王地さんが「高橋さんはなんと言っているか?」と口にしたことを今でも覚えている。
FEO の大株主には関西電力をはじめ電力会社やガス会社が名前を連ねていた。インドネシアでLNGを生産し輸入する大プロジェクトがまもなく始まろうとしていたが、このLNGプロジェクトにも高橋さんが大きな役割を果たした。現在の国際協力銀行の前身である日本輸出入銀行(輸銀)もプルタミナ向け融資案件が続くことから、高橋さんを相談役のように遇した。
FEOに入って高橋さんとの最初の打ち合わせの時、高橋さんは私にバースタームを知っているかと質問された。兼松に入社して8年目、2年の海外駐在員歴を持っている私だったが、バースタームという言葉は知っていても、あやふやな答えしかできなかった。高橋さんは「貿易の基本を勉強した方がよい。」とコメントされた。これが契機で、私は貿易実務の参考書に親しむようになった。今日、曲がりなりにも貿易コンサルタントを名乗れるのは、このことあってである。
高橋さんの下で私は、FEOが住友商事と組み石川島播磨重工と大成建設をサブコントラクターとして進めていたプルタミナのデユマイ製油所建設プロジェクトを担当した。中部スマトラのマラッカ海峡に面したデユマイは木材の積み出し地であり、また隣接のミナス油田でカルテックスが採掘するミナス原油の積み出し港でもある。
プルタミナの取り分のミナス原油を精製する目的のデユマイ製油所建設プロジェクトの契約金額は、政治的配慮で設定した2,768万米ドルだった。1ドル360円時代、換算して100億円をわずかに下回る2,768万米ドルとしたのである。
現物決済方式 − ローサル重油
デユマイ・プロジェクトの特色は、現物決済方式であった。プルタミナは、原油を蒸留して取り出したガソリンと灯油を国内に供給する一方、国内での利用が少ない残渣油(重油)を返済に充てるという方式である。この返済重油の硫黄留分(サルファー・コンテンツ)が非常に小さいため、通産省は、資源開発と認定して製油所プラントの輸出を承認した。
当時、社会問題となった大気汚染公害の原因が火力発電の燃料である重油に含まれる硫黄分であったため、原油と重油のサルファー・コンテンツは非常な関心を持たれていた。
デユマイ製油所で精製されるミナス原油のサルファー・コンテンツはゼロ・コンマなにがしという低い数値であり、残渣油であるミナス重油でも1コンマなにがしである。ちなみにアラビア石油が開発して日本に輸入していたカフジ原油の硫黄留分は3コンマ以上である。ローサルのミナス重油は、直接燃やさず希釈用に使われた。
この現物決済という資源開発方式を制度化した人は、通産省重工輸出局の小田さんという事務屋さんであった。アラビア石油、北スマトラ石油開発、アラスカパルプは当時の代表的な国家プロジェクトだが、実務面の流れは小田さんにより整備された。資源開発をからめたプラント類の輸出の場合、小田さんをパスすれば、輸出承認(E/L)の取得は問題なかった。
標準決済方法と標準外決済方法 − ニューヨーク・ファイナンス
1970年代の外為法のコンセプトは、原則禁止であった。輸出も輸入も許可・承認が必要であったが、L/C決済は、「標準決済方法に関する省令」により「標準決済方法」と呼ばれ、E/Lなしで輸出ができた。プラント案件は延べ払い決済になることが多く、その場合は「標準外決済方法」と呼ばれ、通産省重工輸出局にE/Lを申請し取得するのが通例であった。延べ払い決済の場合、商社は輸銀の「輸出金融」を利用するが、「輸出金融」を受けるためには、通産省輸出保険課が扱っていた「輸出保険」の付保が必要条件であった。「輸出保険」には、船積み前のリスクをカバーする「普通輸出保険」と船積み後の代金回収リスクをカバーする「輸出代金保険」があり、いずれの保険も付保しなければならないが、特に延べ払いの場合には「輸出代金保険」が不可欠となる。(今日、「輸出保険」は「貿易保険」となり、独立行政法人 日本貿易保険が取り扱っている。)
1960年代から70年代にかけてのインドネシアは膨大な対外債務を抱えて支払いが滞る案件が多かった。通産省はインドネシア向け輸出案件の輸出保険の取扱いを停止し延べ払い取引に対するE/Lを発給しなかった。インドネシア向け延べ払い輸出が困難な状況下で、比較的金額が小さい輸出案件を実行するために商社はニューヨーク・ファイナンスという方式を考え出した。商社の米国法人がインドネシアの輸入者と延べ払い輸出契約を結ぶ一方、日本の商社とはL/C条件で買い契約を結ぶ。米国法人の仲介貿易により、日本の商社はインドネシア向け輸出を「標準決済」で実行できた。この場合、「普通輸出保険」は付保できるが、代金回収リスクをカバーする「輸出代金保険」を付保することができず、従って、輸銀の「輸出金融」が利用できない。商社のオウン・リスクによるオウン・ファイナンスである。
輸出保険と輸銀融資
デユマイ・プロジェクトの場合、住友商事のオウン・リスクによるオウン・ファイナンスとするには金額が大きすぎた。輸出保険を付保し、輸銀の融資を受けることが、会社の審査を通る必須条件であった。ここで、前述の通産省重工輸出の小田さんの諾否にすべてがかかった。小田さんにより、本件は日本にとって必要なローサル重油の開発輸入であると認められ、E/Lが発給されることになった。必然的に輸出保険の付保が可能となり、輸銀の融資が受けられることになった。輸銀の融資は、資源開発案件であるため輸出金融ではなく輸入金融であったことも特色である。
FEOが住友商事と並んでプルタミナとの契約の当事者になったのは、プラント代金の返済は、FEOを通じて日本に輸入される重油を充てると明記されていたことによる。住商にとってFEOは契約上のパートナーであったが、それ以上に高橋さんが担当部長であったことはラッキーであった。当時、住商プラント部の課長で後に常務となった小泉さん、担当者の川畑さん、中山さん、石油部の金子さんは、間断なく高橋さんのアドバイスを求め、プロジェクトの遂行に対処した。
重油タンクの不当沈下と応急措置
デユマイ製油所の建設で、もっとも大きなトラブルは軟弱地盤の上に建てた重油タンクが沈下現象を起こしたことであった。工事を担当した大成建設が採った処置は、中身の重油をチャーターしたタンカーに積み替え、タンク本体をコロに乗せて移動した後、ビルの基礎工事さながらに基礎パイプをうちこんで地盤を固めた。この話を伝え聞いた部外者の間では、タンクが傾いたという噂になった。
プルタミナ・プロジェクトは花盛り
デユマイ製油所建設プロジェクトが通産省をパスしたことで、各商社はそれぞれのプルタミナ向けプロジェクトをデユマイ方式に準じて、いずれもFEOをパートナーとし、FEOが輸入するインドネシア産原油なり重油を返済に充てるというスキームをうちたてた。
もっとも早くスタートし、機が熟さず流産してしまったが、アラビア石油・伊藤忠・東洋綿花・FEO・日揮コンソーシアムによるカフジ原油とミナス・ブレンド重油の交換プロジェクトがあった。アラビア石油がカフジ原油を処理する製油所をプルタミナに供与する見返りとして、カフジ残渣油にミナス重油をブレンドした重油を引き取るという構想であった。
デユマイ・プロジェクトの完工が近づいたころになって、4件のデユマイ方式プロジェクトが通産省に提出された。住友商事・FEOのデユマイ製油所増設、物産・丸紅・FEOのチラマイ〜チレゴン・天然ガス・パイプライン、三菱商事・FEOのチラチャップ製油所原油パイプライン、東洋綿花・FEOの北スマトラ石油向け資機材供与の4件である。通産側は重工輸出・小田さん、輸出保険課・伊王地さんを中心として、業務課、石油課など8つの関係課がチームを結成し、各商社と調整を行った。
一番の問題点は、小田さんのいう現物決済方式とは、プラント機器を輸出することで原油なり重油が生産され、それが日本に無為替輸入されて返済に充てるという方式だが、現実には輸出するプラント機器と返済原油なり重油は直接つながっておらず、単にFEOが輸入する原油の売上げ代金の一部が充当されるというものであった。結果的には、4案件とも現物ではなく外貨で返済という形で承認された。
アルンとボンタンのLNGプラント建設プロジェクトの具体化は、私が兼松に戻った1972年以降だが、始めにFEOに話を持ってきたのは、後に日商岩井の副社長になる海部八郎さんであった。海部さんとFEO東社長が姻戚関係にあったこともあるが、やはり高橋さんのノーハウを頼ってのアプローチであった。
私は、FEOの実務担当者として高橋さんの下で充実した仕事をさせてもらった。メモ・書類のたぐいは現在全く持っておらず、このレポートは記憶だけを頼りに纏めたものである。言い換えれば、それほどにこの仕事にうちこんでいたわけだ。高橋さんは、その後FEOの常務、関係会社の社長を勤めた後、引退された。私は、今でも時折お会いしている。
終わり
西嶋重忠さんについて
2007年5月9日
西嶋重忠さんが、昨年暮れ(2006年12月9日)、95歳で亡くなったことを聞きました。謹んでご冥福を祈ります。
西嶋さんに最後にお会いしたのは、1991年4月30日、成田空港の待ち合わせラウンジで奥様も御一緒でした。御夫妻は独立宣言に関わった日本人の証言を求めるというインドネシア人グループの招待で訪イするとのことでした。
西嶋さんは、戦前、左翼思想のため、一高を退学処分されてインドネシアに渡り、バンドンのトコチヨダの支配人を勤められ、戦中は海軍嘱託としてスカルノやハッタ、独立後の初代外相で「インドネシアの独立と革命」を著したスバルジョ等と親交があり、独立宣言にも関係した人です。戦後は、北スマトラ石油の常務として活躍され、その後、兼松やブリッジストン・タイヤの顧問をされました。
スバルジョ(著)・奥源造(編訳)「インドネシアの独立と革命」(龍渓書舎)を読むと、西嶋さんがインドネシア独立運動に重要な役割を担っていたことがうかがい知れます。同書の参考資料には、西嶋さんが戦犯容疑で逮捕された時の「西嶋重忠陳述書」まで例示されています。また、米国人のジョージ・S・カナヘレが著した「日本軍政とインドネシア独立」にも、西嶋さんとのインタービューで得た証言が随所に引用されています。
西嶋さんご自身も主査として、早稲田大学社会科学研究所(編)「インドネシアにおける日本軍政の研究」(紀伊国屋書店)を刊行していますし、1975 年に「証言インドネシア独立革命」(新人物往来社)を著しています。
*戦時期にはジャワ軍政監部企画課で軍政の中枢にあり、1965年の「九月三〇日事件」当時、駐イ
ンドネシア大使であった斎藤鎮男氏が書いた「私の軍政記」(ジャワ軍政記刊行会)では、“海軍
武官府の民政関係者は、佐藤信英、吉住留五郎、西嶋重忠等の諸氏のような旧来のインドネシア
民族運動関係者が多く、異彩を放っていた.....前田武官とその一部部員は、逐次インドネ
シア社会に深く食い込んでいった。”と言及していますが、それ以外に西嶋さんの名前は見当たり
ません。
利子・配当・ロイヤルティ・技術指導料 − 非居住者がなぜ源泉徴収されるのか?
私は、ジェトロ・ホームページ掲載の貿易・投資相談Q&Aのうち、「海外での建設工事現場事務所への課税」、「海外向け機械輸出に伴う技術指導料の取り扱い」、「Withholding Taxについて」という案件の見直しを担当している。この3件のチェックをしていて思い出したのが、30数年前(1970年代)のプルタミナ向け建設工事プロジェクトに対するインドネシア国税庁の措置である。今にして、やっと、彼らの言わんとしていたことが理解できたのである。
プルタミナとの契約では、延べ払い金利の支払いと技師派遣に係わる費用をプルタミナが負担することが明記されていた。特に延べ払いの場合、貸し付ける方も銀行から金利を払って資金を借りている。当然、元利合計全額を受け取れるという認識であった。それが、金利受け取り分の20%相当が税金として天引きされると聞き愕然とした。「我々はインドネシアへの納税義務のない非居住者である。なぜ税金を徴収されるのか?」とプルタミナに問いただした。プルタミナは、国税庁の指図なのでコンプレインは直接国税庁にぶっつけてくれという。国税庁の説明は、法律に基づくものという姿勢を変えず、結局、クレームは拒否された。
今にして思えば、この法律とは、1959年制定、1970年改正の「利子、配当及び使用料に対する税法(1970年No.10)」を指しており、相手が非居住者であっても支払者のプルタミナは一定税率の源泉徴収義務があったのである。
その後、1982年3月に「日イ租税条約」が締結されたが、「利子、配当及び使用料に対する税法」は「協定の対象である租税」として明示されており、利子、配当、ロイヤルティ等の源泉徴収はお墨付きとなった。ただ、利子やロイヤルティの源泉徴収は10%を超えないとなっている。
なお、滞在日数が年間183日を超えない短期派遣の技術者などに関わる報酬や費用について、非居住者であることが証明されれば源泉税は免除される。
移転価格税制に関する国税総局長規則PER-43/PJ/2010およびPER-32/PJ/2011
インドネシア国税総局(DGT)は、2010年9月6日付で「特殊関連企業間取引への正常な商慣習の原則(独立企業間価格の原則)の適用に関する国税総局長規則(PER-43/PJ/2010)」を公布・施行した。同規則は、2011年11月11日付け「国税総局長規則PER-32/PJ/2011」により部分改定されている。
2010年9月6日付けPER-43/PJ/2010は、国税通則法(2009年No.16)、所得税法(2008年No.36)、付加価値税法(2009年No.42)およびインドネシア政府が各国と締結している二重課税防止協定(租税条約)に準拠している。ちなみに、「特殊関連企業間取引への正常な商慣習の原則の適用」というタイトルのインドネシア語は、“Penerapan
Prinsip Kewajaran dan Kelaziman Usaha dalam Transaksi antara Wajib Pajak
dengan Pihak yang mempnyai Hubungan Istimewa”である。“Prinsip Kewajaran dan
Kelaziman Usaha”が「正常な商慣習の原則」、すなわち「独立企業原則(Arm's Length Principle)」で、“Hubungan
Istimewa”は、“特殊な関係”という意味である。同規則(PER-43/PJ/2010)第1条第5項は、“Hubungan Istimewa”について、“所得税法(PPh)第18条第4項または付加価値税法(PPN)第2条第2項で規定されている関係”と定義している。PPh第18条第4項およびPPN第2条第2項においては、“特殊な関係”とは、持株比率が25%以上と定めている。また、国税総局長規則(PER-43/PJ/2010) 第1条第6項は、“Prinsip Kewajaran dan Kelaziman Usaha (arm's length principle/ALP)”について、“特殊関連企業間取引の条件と特殊な関係のない企業間の取引の条件は価格または利益において同等または範囲内であるよう調整する原則”と定義している。
一方の国に所在する企業が他方の国に所在する特殊関連企業に通常の取引価格と異なる価格でモノ・カネ・サービス等を提供した場合、その価格を「移転価格(Transfer
Pricing)」と呼び、「移転価格」と特殊な関係のない企業間で用いられる価格との差額を課税所得に算入する仕組みが、「独立企業原則(Arm's
Length Principle)」である。「独立企業原則」は、特殊関連企業との間の無形固定資産(ロイヤルティ)の利用・譲渡においても適用される。
なお、国税総局長規則(PER-43/PJ/2010)第1条12項は、移転価格算定方法として、「OECD移転価格ガイドライン」の第2章Bに規定されている独立価格比準法(Comparable Uncontrolled Price Method:CUP法)を取り上げている。
2011年11月11日付け PER-32/PJ/2011による主な改訂は、次のような点である。
(1)国内納税者間の取引にも税率悪用があれば適用する。
(2)内部比較データが付随的なものである場合 その内部比較データは納税者と特別関係を有する当事者との偶発的取引にのみ利用できる。
(3)取引対象範囲は限定しない、自明の事項として削除。
日本における移転価格税制と比較して、インドネシアにおける移転価格税制は、原則は同じであっても、適用面で若干のズレがあることは否めない。日本では、租税特別措置法第66条の4第1項及び第68条の88第1項により、「特殊な関係」にある「国外関連者」の持ち株比率は50%以上と規定しているのに、インドネシアの移転価格税制では持株比率25%以上であれば適用対象になっている。
インドネシアでは近年まで、移転価格税制は十分に整備されておらず、無用な追徴課税や二重課税となるケースが多々あった。その理由として、多くの日系企業は日本側の観点からは、ある程度の移転価格リスク管理を行っていても、インドネシアの観点からは十分な移転価格リスク管理をしてこなかった事実があげられる。
国税総局長規則
上記、国税総局長規則「移転価格税制に関するPER-43/PJ/2010」および「PER-32/PJ/2011」は、インドネシア所得税法(2008年No.36)の施行細則という位置づけである。
PER-43/PJ/2010より少し早い2010年8月6日には、国税総局規則「国外納税者の過払い源泉徴収税の還付に関するPER-40/PJ/2010」も公布されている。PER-40/PJ/2010には、Form DGT3、Form DGT4、Form DGT5という3つの書式が添付されている。Form DGT3は還付請求の書式であり、Form DGT4は還付を請求する国外納税者から国外納税者に代わり還付請求手続きを行うエージェントに対する委任状の書式である。また、Form DGT5は、還付の請求を行う国外納税者の居住証明書の書式である。
通常の居住者証明の様式であるForm DGT1とForm DGT2を規定する「二重課税防止協定の適用についての事務手続に関する国税総局規則PER-61/PJ/2009」およびその改訂版である2010 年4 月30 日付け「PER-24/PJ/2010」も所得税法の施行細則である。また、「二重課税防止協定(租税条約)乱用の回避に関する国税総局規則PER-62/PJ/2009」と一部改訂の「PER-25/PJ/2010」も所得税法の施行細則である。
所得税法以外に外国人に関係する法律としては、「国税通則法(2009年No.16)」や「付加価値税法(2009年No.42)」があり、それぞれに国税総局規則がある。
インドネシアの所得税法(PPh) − 法人税法・個人所得税法・IDR税法を統合
インドネシアは、1983年にオランダ時代から継承されていた税制の改革を行った。「国税通則法(1983年No.6)」、「所得税法(1983年No.7)」、「付加価値税法(1983年No.8)」の3法が施行された。
1983年12月31日付け「所得税法(1983年No.7)」は、「1925年法人税法を改正する法律(1970年No.8)」、「1944年所得税法を改正する法律(1970年No.9)」及び「1959年No.12配当に関わる政令を改正する法律(1970年No.10)」を統合したもので、「1991年改正No.7」、「1994年改正No.10」、「2000年改正No.17」を経て、現行の「改正所得税法(2008年No.36)」(2008年官報No.133・付属説明書No.4893)になっている。
「1925年法人税法」と「1944年所得税法」は、いずれも独立前に制定されたものでオランダ語のordonanntie(政令)に由来するOrdonansiを用いて“Ordonansi
Pajak Perseroan 1925”と“Ordonansi Pajak Pendapatan 1944”と呼ばれていた。独立後、「1925年法人税法を改正する政令(1959年No.13)」や「1944年所得税法を改正する法律(1964年No.23)」など数次の改正を経て、「1925年法人税法を改正する法律(1970年No.8)」と「1944年所得税法を改正する法律(1970年No.9)」に至った。また、「1959年No.12配当に関わる政令を改正する法律(1970年No.10)」は、「1959年No.12配当に関わる政令」を1970年に法改正したもので、内容から、「利子、配当及び使用料に対する税法(1970年No.10)」とも呼ばれていた。
「1944年所得税法」での「所得」のインドネシア語は”Pendapatan”を用いていたが、1983年制定の「所得税法(1983年No.7」での「所得」は”Penghasilan”である。「所得税法」は、“Undang-undang Pajak Penghasilan”であり、Uu PPhと略して数字を付すと所得税法の条項を表す。例えば、PPh2は、所得税法第2条のことである。
PPh2は、課税対象となる「居住者」と「非居住者」を個人と法人に分けて定義している。「課税対象となる個人の居住者」は、インドネシアに住所を持つ者もしくは12ヵ月以内に183日を超えてインドネシアに滞在している者もしくは課税年度内にインドネシアに滞在しインドネシアに居住する意志を持つ者であり、「課税対象となる個人の非居住者」は、インドネシアに住所を持たず、滞在日数が12ヵ月以内に183日を超えない範囲の者で、恒久的施設を通じての事業活動によるものではない国内源泉所得を得ている者と規定されている。インドネシア国内源泉所得とは、(1)配当、(2)利息や借入金に対する保証料等、(3)使用料
(4)賃料及び不動産の使用に関するその他の所得、(5)役務の提供、事業活動に対する報酬、(6)賞金等、(7)年金、保険料等(8) 支店/恒久的施設(PE)の法人税引後利益、(9).スワップ・プレミアムとその他ヘッジ取引による所得などである。
法人の場合も、「課税対象となる法人の居住者」と「課税対象となる法人の非居住者」に分けられる。「課税対象となる法人の居住者」とは、インドネシアで設立、もしくは住所をもつ法人であり、「課税対象となる法人の非居住者」は、恒久的施設や支店を通じて事業活動をしている外国法人を言う。
また、PPh26は、非居住者の利子、配当、ロイヤリティ等のインドネシア源泉所得に対しては、居住者は、20%の税率で源泉税を天引き納付する義務があると規定している。一方、日イ租税条約において、居住者による非居住者への利子、配当、ロイヤリティの支払いに対する源泉税率は、10%と定められている。インドネシア所得税法は、「2000年改正No.17」で設けた32A条にて、租税条約が所得税法に優先することを規定した。これを受けて「二重課税防止協定の適用についての事務手続に関する国税総局長規則PER-61/PJ./2009」による「居住者証明 FORM-DGT」が制定された。
国税関係3法の最新版は、「国税通則法(2009年No.16)」、「所得税法(2008年No.36)」および「付加価値税法(2009年No.42)」である。
なお、インドネシアの最新の税務事情については、著名な会計事務所であるPricewaterhouse Coopers Indonesiaのサイトにある「インドネシア税務ポッケトブック2014年(日本語版)」は有益である。
日本―インドネシア租税条約 − 利子・配当・ロイヤルティと密接に関係
1982年3月3日東京で調印された「所得に対する租税に関する二重課税の回避及び脱税の防止のための日本国とインドネシア共和国との間の協定」は、英文で作成されており、英語のタイトルは「AGREEMENT BETWEEN JAPAN AND THE REPUBLIC OF INDONESIA FOR THE AVOIDANCE
OF DOUBLE TAXATION AND THE PREVENTION OF FISCAL EVASION WITH RESPECT TO
TAXES ON INCOME」である。
租税条約は、一般的には「OECDモデル条約」の様式を採用しているので、ほとんどの租税条約が、第一条「居住者に適用」、第二条「対象となる租税」、第四条「居住者(Resident)」、第五条「恒久的施設(Permanent
Establishment)」、第七条「恒久的施設を通じての事業所得」、第九条「関連企業」、第十条「配当(Dividends)」、第十一条「利子(Interests)」、第十二条「使用料(Royalty)」になっている。
租税条約第一条は、モデル条約も日イ租税条約も、“本条約は、締約国の居住者(resident)に適用する”とある。「居住者」について、第四条は、“住所、居所、本店又は主たる事務所の所在地等の基準により、当該一方の締約国において課税を受ける者(person)”と規定している。両締約国のいずれかにおいて、基準とすべき住所、居所、本店又は主たる事務所等が所在しない者は、その国の「非居住者」であり、非課税になる。
第五条「恒久的施設」と第七条「恒久的施設を通じての事業所得」は、“PEなければ課税なし”とする国際ルールの原点である。また、第九条「関連企業」は、租税条約締結国それぞれの「移転価格税制」の根拠になっている。
利子、配当及び使用料に対する税の取り扱いは、OECDモデル条約に準じて、日イ租税条約でも、第十条(配当)、第十一条(利子)、第十二条(使用料)において規定されており、締約相手国の受益者に利子、配当、使用料を支払う場合、一定税率の源泉徴収が認められている。
日イ租税条約において、「対象となる租税」を規定する第二条は、次のようになっている。
第二条
1 この協定の対象である租税は、次のものとする。
(a)日本国においては、
(T)所得税
(U)法人税
(以下「日本国の租税」という。)
(b)インドネシアにおいては、
(T)所得税(源泉徴収され又は予納されるものを含む。)
(U)法人税(源泉徴収され又は予納されるものを含む。)
(V)利子、配当及び使用料に対する税
(以下「インドネシアの租税」という。)
Article 2
1. The taxes which are the subject of this
Agreement are:
(a) in Japan
(i) the income tax
(ii) the corporation tax
(hereinafter referred to as "Japanese
tax");
(b) in Indonesia
(i) the income tax (Pajak Pendapatan)
(ii) the company tax (Pajak Perseroan) including any withholding tax, prepayment
or advance payment with respect to the aforesaid taxes
(iii) the tax on interest, dividend and royalty (Pajak Atas Bunga,
Dividen dan Royalty)
(hereinafter referred to as "Indonesian
tax").
日イ租税条約が調印された1982年時点、インドネシアでは、オランダ時代に制定された「1925年法人税法」と「1944年所得税法」を基に改正した「1925年法人税法を改正する法律(1970年No.8)」と「1944年所得税法を改正する法律(1970年No.9)」及び「利子、配当及び使用料に対する税法(1970年No.10)」が施行されていた。1983年、この3法は統合されて、「所得税法(1983年No.7)」が1984年1月1日より施行された。
インドネシアが各国と結んでいる租税条約において、対象となる租税は、下記の(a)と(b)に大別される。
(a)は「所得税法(1983年No.7)」公布以前に両国間折衝があった租税条約の場合であり、(b)は「所得税法(1983年No.7)」が施行された1984年以降に折衝が始まり締結した租税条約において、対象とされる租税である。
「所得税法(1983年No.7)」公布以前に両国間折衝があった租税条約では、(a)の通り、「所得税法(1983年No.7)」の下での所得税、「1925年法人税法を改正する法律(1970年No.8)」の下での法人税、「利子、配当及び使用料に対する税法(1970年No.10)」の下での利子、配当及び使用料に対する税が対象となっているものが多い。1982年締結の日イ租税条約におけるインドネシアの租税は、(T)所得税(源泉徴収され又は予納されるものを含む。)、(U)法人税(源泉徴収され又は予納されるものを含む。)、(V)利子、配当及び使用料に対する税になっている。
一方、「所得税法(1983年No.7)」の施行後は、法人税と利子、配当及び使用料に対する税も所得税法の下で取り扱われるようになった。従って、1984年以降に折衝が始まり締結した租税条約においては、(b)の通り所得税1本になっている。ちなみに、現在は、「改正所得税法(2008年No.36)」(2008年官報No.133・付属説明書No.4893)が施行されている。
(a) In the case of Indonesia:
the income tax (pajak penghasilan 1984), and to the extent provided in such income tax, the company tax (pajak perseroan 1925), and the tax on interest, dividends, and royalties (pajak atas bunga, dividen dan royalty 1970).
(b) In the case of Indonesia:
the income tax (pajak penghasilan);
日米租税条約では、使用料は源泉徴収されない − 日イ租税条約との対比
日米租税条約(所得に対する租税に関する二重課税の回避及び脱税の防止のための日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の条約)は、2003年11月に30数年ぶりに改訂された。この改訂により、2004年7月1日から使用料や配当・利子課税が大幅に減免された。
特に、使用料は源泉地国免税の措置がとられている。租税条約において、使用料を規定する条項は、第十二条であるが、日米租税条約の第十二条と日イ租税条約の第十二条を比較対比すれば、自明である。
日イ租税条約では、例えば、インドネシアから日本の居住者に支払う使用料に対しては、日本で課税されるとなっている。一方、日米租税条約では、例えば、米国から日本の受益者に支払う使用料に対しては、日本でのみ課税とある。微妙な相違点は、日米租税条約における“一方の国のみでの課税(be
taxed only in that other Contracting State.)”に対して、日イ租税条約では、“一方の国での課税(be taxed in that other Contracting State)”と“only”が抜けている点である。また、それぞれの第12条で最も大きな相違点は、使用料の源泉徴収を認める日イ租税条約第十二条第2項に相当する条項が、日米租税条約第十二条にないことである。下記日イ租税条約第十二条第2項の意味することは、例えば、インドネシアから日本の居住者に支払う使用料は、日本での課税の他、インドネシアの法令に従って、使用料の額の10パーセントを超えない範囲で源泉徴収するということである。
第十二条
2 1の使用料に対しては、当該使用料が生じた締約国においても、当該締約国の法令に従って租税を課することができる。その租税の額は、当該使用料の受領者が当該使用料の受益者である場合には、当該使用料の額の十パーセントを超えないものとする。
2.However, such royalties may also be taxed in the Contracting State in which they arise, and according to the laws of that Contracting State, but if the recipient is the beneficial owner of the royalties the tax so charged shall not exceed 10 percent of the gross amount of the royalties.
インドネシア専科
2007年5月17日
「インドネシア専科」というサイトを検索した。
A.風土 B.地誌 C.歴史 D.政治 E.経済 F.社会 G.生活 H.文化という主要項目の他にも、リンク集、写真集、地図集、年表、インドネシア語辞書、と多岐にわたっている。どの項目も専門家はだしの解説で、まさにインドネシア百科事典ならぬ千科事典である。
冒頭にある著者の大槻重之さんのご挨拶を読んだところ、大槻さんは関西電力燃料部のご出身とのこと。「著者への連絡」アドレスも記載されていたので、「インドネシア専科」を拝読して、驚嘆した、今後も利用させて頂くとのメールを送った。そのメールの追記に、1970年代の初め、関電が大株主であったインドネシア・プルタミナの子会社ファーイースト・オイル・トレーディング社(FEO)に私が出向したおり、同僚だった関電燃料部からの出向者の桂さんの名前も付記した。
折り返し、大槻さんから、桂さんが関電燃料部の部長の時に部下であった、LNGや石油ビジネスで多くのFEOの人とつきあいがあったとの返事を頂いた。同年代であり、畑としても共通するところが多いようだが、間口の広さと奥行きの深さには、とうてい及ぶところでない。
友人の佐々木重次東京外大名誉教授に、「インドネシア専科」というホームページは見事だと紹介したところ、「確かに大変な努力の成果で、有名なサイトです。」という返事をもらった。
ブログ「ジャカルタ新旧あれこれ」
2007年3月13日
友人の佐々木重次東外大名誉教授より、「君の趣味じゃないかと思うので,」というメッセージで「ジャカルタ新旧あれこれ」のアドレスが送られてきた。まさに私の感性にぴたりのブログである。毎日、Outlook Expressを開くのと同じほどにこのブログを見ている。
私は、世界遺産の旅とかどこそこ紀行などのテレビ番組があっても、自分が行った所でないとさほどの関心を持たない。それが知っている土地が出てくる番組だと集中してテレビ鑑賞をする。この「ジャカルタ新旧あれこれ」も同じである。なつかしいジャカルタのあの街この街を思い出させ、またかって読んだことがあるインドネシア史のおさらいをさせてくれる。
ジャカルタにご無沙汰してもう10年以上になり、紹介されている街も道も建物も知らない所が結構多いが、それでもだいたいあの辺だなと見当がつく。中には、そうか行っておけばよかったなと残念に思う場所もある。
作者の西見さんにコメントを送ったところ、この「ジャカルタ新旧あれこれ」は、かって私がジャカルタ日本人会の会報に寄稿した小文「蘭印の地の散策」が原点だという有り難いお言葉を頂いた。
同じ趣味人とはいえ、西見さんの造詣の深さは、とうてい私の及ぶところでない。だからこそ「ジャカルタ新旧あれこれ」を読むのが楽しみとなる。
「ジャカルタ新旧あれこれ」の特色として、通りの名前になっている独立戦争時も含めての歴史上の英雄の謂われを説明していることである。本当によく調べたものとただ敬服するばかりである。そんなある日のブログに「Sutan Syahrilとカナル・グレシック」という記事があった。スタンシャフリル通りは、駐在員事務所のあったヌサンタラ・ビルのすぐ近くであり、私の一家が借りた家の大家の住まいもありなじみのある通りである。そこから斜めに走るサムラトゥランギ通りについては、私も西見さんの真似ができるので、次のようなコメントを書いて投稿した。
コメント
スタンシャフリル通りのヌサンタラビル寄りに私の一家が借りた家の大家さんが居た。
そのスタンシャフリル通りから斜めにチキニ方向に走るサムラトゥランギ通りはメンテンの主要道路の一つである。通りの名前になっているサム・ラトゥランギ博士は独立準備委員会の主要メンバーであった。
話は変わるが、1962年から63年にかけて、私の学友である北スマトラ石油開発の大森通広君と私は、ジャカルタに駐在していた。クバヨランバルにあったお互いの宿舎は歩いて行ける距離なので、彼は毎晩のように私の寮にやってきた。私の寮には日本料理の上手なコックと麻雀メンバーがそろっていたからである。
1年ほどして、当時、北スマトラ石油の常務であった西嶋重忠さんの厳命で大森君はサムラトゥランギ通りのラトゥランギ未亡人の家に下宿させられた。西嶋さんは独立前夜、前田精海軍少将の顧問として大いに活躍した人でラトゥランギ博士夫妻とも親しかったという。
投稿 広沢 勉 | 2007/03/04 23:18:56
香料諸島(Spice Islands)とマラッカ
2007年5月11日
「ジャカルタ新旧あれこれ」に、「モルッカ諸島はマルク諸島」というタイトルのブログが掲載された。(2007年4月24日)
ブログによると、16世紀始め、ポルトガルがマレー半島のマラッカを占領し香料貿易の拠点としたが、その香料の産地は香料諸島と呼ばれるモルッカ諸島(インドネシアではマルク諸島と呼ぶ)で、香料諸島はやがてポルトガルを駆逐したオランダに統治されるようになったとある。
私は、1994年から95年にかけて、セレベスのメナド(メナドの海岸通りは、スラウェシ海に沈む夕日で名高い。また、狭い地峡の反対側はマルク海に面しており、ビトゥンというメナドの外港がある)を拠点として、マルク諸島からイリアンに至る東部海域の港湾調査と集荷の可能性をサーベイした。マルク諸島の島々のうち、セラム、アンボン、テルナテ、バチャンを訪ねた。空港のあるアンボンからセラム島にはスピードボートで往復した。テルナテには、サルタンの王宮が現存している。バチャン島は、テルナテから週2便のフライトしかなく、目的の真珠養殖の現場は、空港からボートでしか行けない場所だった。
ついでに言うと、イリアンはビアク島とソロンに足を踏み入れた。ビアク島では、日本軍玉砕の跡がそのままの状態で残されているのを見た。ソロンの空港もボートで往復するのだが、帰りの空港に渡るボートが霧のため、船頭が方向を失い、霧が晴れるまで漂流という経験をさせてもらった。
また、香料諸島には入らないが、セレベスのマカッサルには、仕事の関係で足繁く通った。マカッサルには、17世紀にオランダが築いたフォート・ロッテルダムという城塞跡がある。
マレーシアのマラッカとマルク諸島は、かっては、その遠い距離にもかかわらず、イスラム教と香料貿易によって、近い関係にあった。マラッカはヨーロッパと香料諸島を結ぶ要の位置にある。香料を求め、カトリックの布教を旗印にしたポルトガルは、アフリカを迂回しインド洋に進出し、1511年にマラッカを征した。ついで1512年、香料諸島に足がかりをつかんだ。
ポルトガルの首府リスボンの「発見のモニュメント」まえの広場には、大理石のモザイクの世界地図があり、大航海時代にポルトガルが進出した場所と西暦年が描かれている。私は、2002年4月、そこを訪れ、MolucasとTimorに 1512と記された部分を写真に撮った。ジャワの地名はなかったが、ジャワ島の位置にも1512と記されていた。Malacaの地名は写真に収まっているが、西暦年が枠外になったのは、今にしてみれば残念である。
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