金婚式をジャカルタで − 2014年3月   
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        参考資料
       月刊インドネシア企業経営掲載文書 
 
 

バタビア追想:バタビア城に立つ(20101月号)

ジャカルタ懐旧旅行(2014年5月号)

「ジャワ探究」と「じゃがたら紀行(2014年7月号)

バタビア紀行(2014年8月号)

 
           その他   
 

鉄道院編纂『東亜英文旅行案内』

 
 
              
     
      

      
 
       
 



































 
 

金婚式をジャカルタで

 
   今年2014年3月5日から9日まで、私ども夫婦は金婚式を祝って、その昔、一時期を過ごしたジャカルタを、長女も加えた3人連れで訪ねました。家内と娘2人のジャカルタ生活は、1975年の4月から79年の8月までの4年半、長女は小3から中1、次女は幼稚園の年長から小4まで、日本人学校に通いました。ジャカルタ旅行の仔細については、「月刊インドネシア企業経営2014年5月号」に掲載の「ジャカルタ懐旧旅行」でレポートしている通りです。下記レポートの記事は、「ジャカルタ懐旧旅行」より部分的に引用しています。



 
  オバマ大統領が通った小学校   
    オバマ大統領が6歳から10歳まで通っていたメンテン第1小学校と住んでいた家です。  
 
     
   
 
   オバマの父はケニア人、母は白人で、留学先のハワイ大学で知り合って結婚したが、オバマが3歳の時離婚した母は、ハワイ大学に留学に来ていたインドネシア人ストロと再婚し、インドネシアに移住したとのことです。 


 
  日本人学校三代の軌跡  
  長女が通っていた日本人学校の校舎は、パッサルミングに今も残っていました。 
 
 
  現在の日本人学校はビンタロにあり、外観も内部もなかなかのものです。  
   
 
  構内に「ジャカルタ日本人学校」の3枚の表札が掛けられているのを目にしました。 
     
 
   上の写真左の一番新しい表札には貼り紙がついていませんが、真ん中の「日本国大使館付属日本人学校 ジャカルタ日本人学校」という表札の下の貼り紙には「テベット校舎 昭和四十四(一九六九)年より昭和四十七(一九七二)年まで」とあり、もう一つの「ジャカルタ日本人学校」の貼り紙は「パサールミング校舎 昭和四十七(一九七二)年より平成七(一九九五)年まで」とあります。テベット校舎については、まったく知りませんでしたが、大使館付属として日本人学校が発足したのが1969年ということに認識を新たにしました。私が、初めてインドネシアに赴任した1962年頃、商社の駐在員のほとんどは単身赴任でした。家族帯同の大使館職員の子弟はアメリカン・スクールに通っていたと思います。それが、1967年1月に制定・公布された外資法により、日本の製造業のインドネシア進出が始まり、日本人学校の設置が必要になったということでしょう。



 
  MONASよりの眺望   
   初めて、MONASに上りました。家内や娘たちの時代は、MONASは公開されていませんでした。上から見下ろすと、大統領官邸も含めてジャカルタ中心部が広がっていました。   
     
 


 
  タンジョンプリオクのプルタミナLPG基地   
   かって私が手がけたタンジョンプリオクのプルタミナLPG基地ものぞけたらと内心思っていました。パッサル・イカンからアンチョールを一回りして行ったタンジョンプリオクは、大型車両がひしめいて身動きがとれない大渋滞でした。戻りの車線に折り返すのにも一苦労でした。家内と娘から激しいコンプレィンを受けましたが、車列の隙間からのぞくLPGタンクの写真をなんとか撮れたので、それなりに満足しました。  
 
   
 

 
  カリブサールの跳ね橋   
    コタのカリブサールに架かるオランダ風の跳ね橋は、Jembatan Kota Intanと呼ばれています。  
    

 
  ファタヒラー広場とカフェ・バタビア   
    今回は、歴史博物館には入りませんでした。  
    

 
  パッサルイカンの哨楼と海洋博物館   
   初めて哨楼に上り、海洋博物館を見学しました。   
 
     
     
     


 
   哨楼より見下ろしたバタビア城址と東インド会社造船所跡  
    哨楼から撮った写真の中に、道路を挟んで向かい側の白壁に“VOC Galangan”と読めるロゴ・マークをつけた植民地風の建物がありました。VOCとは、オランダ語のVereenigde Oost-Indische Compagnieの略称で、歴史上、「オランダ東インド会社」の名前で知られています。また、Galanganは、造船所を意味するインドネシア語です。つまり、この建物は、VOCの造船所の一部であったことになります。  
   
   
 
   上に示した古地図によれば、バタビア城の対岸に“Company’s Shipyard”と表記された一角があります。また、哨楼の上から撮った写真の一つに、カリブサールを挟んでVOC Galanganの対岸地帯を写したものがありました。木立に囲まれ、散見される民家の他は何も無く、かなり広い敷地になっています。私は、この地域一帯がバタビア城址と推測しました。   
 
   
  私の推測を確認する意味で、「ジャワ探究 − 南の国の歴史と文化」の著者井口正俊さんと「ジャカルタ新旧あれこれ」のオーナー西見恭平さんに幾つかの問い合わせメールを送りました。お二人の回答で分かったことは、お二人とも、カリ・ブサールとトンコル通りに挟まれたこのバタビア城址エリアをすでに何度も訪ねておられたということです。西見さんは、「月刊インドネシア企業経営2010年1月号」に「バタビア追想:バタビア城に立つ」という記事を著しています。この記事に掲載された写真によれば、木立で隠れた一帯は、草で覆われた運動場のような感じの広場になっています。DKIジャカルタとして、建造物を認めないのかもしれませんが、せめて史跡の看板くらいは設置してもよいと思います。西見さんは、出会った住民の一人に、城址について尋ねたのですが、まったく知らない様子だったそうです。(「月刊インドネシア企業経営」2014年8月号掲載の「バタビア紀行」より引用)



 
  シンガポールにて   
   3月5日から9日まで4泊の「ジャカルタ懐旧旅行」の帰途、3月9日にシンガポールにも立ち寄り12日まで滞在しました。今回初めて、マリナ・ベイ・サンズの展望台や高層ホテルの上からシンガポールの景色を見下ろす写真を撮りました。   
   
   
   
   
 
 














































 
 
               「ジャワ探求」と「じゃがたら紀行」
                                                  広沢 勉

 井口正俊著「ジャワ探求 南の国の歴史と文化」2013年10月10日 丸善プラネットより発行という単行本を手許に所持しています。著者の井口さんから謹呈されたものです。井口さんとは、インドネシア在住の皆さんには、なじみの深いブログ「ジャカルタ新旧あれこれ 」のオーナーの西見恭平さんから紹介され、昨年10月、3人で一杯やりました。西見さんのブログを見た井口さんが、「ジャワ探求」の執筆にあたり、西見さんに参考資料の利用と原稿の吟味を求めたことから、二人の交流が始まったとのことです。

 井口さんは、高分子化学が専門の工学博士で、日本アセアン科学技術協力高分子プロジェクトでバンドン工科大学に2年、定年後には研究員としてボゴール・ゴム技術研究所に3年在勤、オランダ・アイントホーフェン工科大学の特別研究員も勤められたそうです。井口さんは、「ジャワ探求」の刊行以前にも、2004年に徳川義親著「じゃがたら紀行」の英訳書「Marquis Tokugawa、Journey to Java」をバンドン工科大学より発刊しています。この英訳書は、井口さんが、1966年、バンドンで開催された国際研究集会の準備に参画した時、内外からの参加者にジャワを紹介するための資料として、「じゃがたら紀行」を部分英訳したものを基にしているとのことです。

 「じゃがたら紀行」とは、尾張徳川家19代目の徳川義親侯爵が大正10年にマレーとジャワ、昭和4年にジャカルタからボルネオ、セレベス方面を旅した時の道中記で、昭和6年に発行されました。この道中記で、著者は「トラ狩の殿様」の名前で知られるようになりました。「じゃがたら紀行」は、昭和55(1980)年、中公文庫により、原著を現代文に改訂・刊行されました。私は、この1980年版の「じゃがたら紀行」を所持しています。

 井口さんは、本書の執筆に至った理由を「まえがき」で概略次のように述べています。
 “自らが英訳した徳川義親侯爵著「じゃがたら紀行」について、華族であり歴史学者であり自然科学者(生物学者)でもあった著者の卓抜な識見と緻密な洞察、ならびに訳者によって加えられた緒言、注釈などに関心を抱いた内外の友人達から勧められたこともあるが、ジャワに関する既存の出版物に、様々な意味で「飽き足らなさ」を感じたことも大なる理由であった。ジャワ島に居住した筆者の経験、書物を通して得た知識屡々ジャワを訪れて歴史遺跡等を調査した内容ならびに現地の友人および専門家と交した会話、更には旧宗主国であったオランダの友人の視点などを糧として、自らが選んだテーマに関して書下ろしたエッセイ数篇を束ねて、一般読者のための読物に留まらず、学究の人々の参考にも供せられるような本を著したい。”

 「ジャワ探求」は、混じり気なしの科学者が手掛けた歴史文化研究の書ですが、第1章で、“じゃがたらお春”を描写するのに、“赤い花なら曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に雨が降る 濡れて泣いてるじゃがたらお春 未練な出船の あ〜鐘が鳴る ララ鐘が鳴る”の歌詞で知られる戦前の歌謡曲を楽譜入りで引用するなど、決して学術書的な固い本ではありません。この歌の題名が「長崎物語」であり、「じゃがたら文」やお春について、多数の参考文献を基に詳述しています。出版社は、同書のキャッチフレーズとして、“西ジャワに遺る古代石碑や同地で15−16世紀に栄えた王国、8−9世紀中部ジャワにボロブドゥール等の寺院を建てた王国、10世紀以降東ジャワで育まれた詩歌やワヤン(影絵劇)等をテーマとし、それぞれの歴史が、時代々々の文学や伝承を交えて随筆風に口語調で綴られている”とコメントしていますが、まさにその通りです。バタビアと呼ばれたジャカルタの歴史については、私も若干の心得ありますが、去る3月、家内と長女とでジャカルタ懐旧旅行をした時には、「ジャワ探求」が格好の案内書になりました。おかげで、初めて、パサル・イカンの海洋博物館を見学し、哨楼に上ることができました。また、私は、かって、ボゴールから20分位の所にあるチアンペア近くに、サンスクリット語で書かれた碑文と足跡を印した大きな石碑を見に行ったことがありますが、これについても、本書は詳しく説明しているので、認識を新たにしました。

 一方、「じゃがたら紀行」は、「じゃがたら文」とお春について、“寛永の昔、幕府が切支丹宗を禁じた時、多くの宗門の人々を長崎から追放しましたが、その中にお春という少女がありました。異郷にあって日本が恋しく、せめてもの慰めに日本の木の種子を送ってくれるようにと、阿蘭陀の甲比丹に頼んで言伝けた文です。今、ジャカトラのその名をきけば三百年の昔、恨みを呑んでこの地に終った少女のことなど想い浮ぶのです。”と記述しています。徳川侯は、お春を“恨みを呑んでこの地に終った少女”と想定しています。西見さんのブログに、“昔からジャガタラ文とジャガタラお春はカラユキさんと混同し、女衒にかどわされジャカルタに流れてきた日本女の悲しい話だと思っていたが、”という書き出しのお春についての記事があります。私も、「長崎物語」のもの悲しいメローディと歌詞から、お春については、西見さんのコメントと同様の認識でした。ところが、西見さんのブログは、“島原の乱のあと幕府は1639年第5回目の鎖国令でプロテスタントとの子供までジャガタラに追放したがこの中に15歳のお春もいた。オランダ女性でここまで渡来する人も少なくこれら西洋人との混血の若き女性は総督以下歓迎で間もなくお春はVOCの若いシモンセンと結婚、アムスの香り高いバタビアのオランダ邸宅に土人の奴隷にかしずかれ72歳までの一生を遂げた実話である。”と続いており、じゃがたらお春は、悲劇の少女ではなかったようです。井口さんの「ジャワ探求」は、「お春の生涯」という章を設けて、悲話とする幾つかの文献を引用して詳述していますが、悲しい生涯を送ったとは書いていません。

 「じゃがたら紀行」は、“旧バタヴィアは、朝晩厭になるほど食わされた馬鈴薯の故郷、いや馬鈴薯の名の故郷という方が適当かも知れない、旧名ジャカトラです。ジャカトラの名は、吾々にはかなりまた親しいもので、その名をきいた時、常に想い起すのはジャガタラ文のことです。”と記しています。“じゃがたら”もしくは“ジャカトラ”は、勝利の町を意味するジャカルタの古名“ジャヤカルタ”が訛ったのでしょう。オランダにかって住んでいた部族の名前に由来するバタビアは、「じゃがたら紀行」では、Bataviaのvからバタヴィア、「ジャワ探求」では、オランダ語の発音に近いバタフィアと表記されています。私は、一般的な日本人が一番慣れ親しんでいるバタビアを使っています。(完) 
    
 














































 
 
                         バタビア紀行 
                                              広沢 勉

 今年3月、私ども夫婦は金婚式を祝って、その昔、一時期を過ごしたジャカルタに長女も加えた3人連れで、懐旧旅行をしました。この旅行で、私は、初めて、コタのパッサル・イカンの海洋博物館の中を見物しました。また、入り口にある哨楼に娘と一緒に上り、2人で周囲の景色を写真に撮りました。帰国後、旅行中に撮った写真を整理していて、その中の一つ、哨楼から道路を挟んだ向かい側の白壁に“VOC Galangan”と読めるロゴ・マークをつけた植民地風の建物が写っている写真に興味そそられました。 

 VOCとは、オランダ語のVereenigde Oost-Indische Compagnieの略称で、歴史上、オランダ東インド会社の名前で知られています。また、Galanganは、造船所を意味するインドネシア語です。つまり、この建物は、VOCの造船所の一部であったことになります。私としては、造船所があったことを、今回、初めて知った次第です。ただ、VOC時代に、インドネシア語のGalanganを用いたロゴはなかったでしょうから、史跡を表すロゴだと思います。ネットで調べたところ、現在は、カフェ・レストランとして使われているようです。さらに、古いバタビア地図などを含めての手持ちの資料やネットで確かめたところ、私が、これまで認識していたパッサル・イカン周辺の位置関係を訂正する必要があることに気付きました。バタビア時代の地図では、カリ・ブサール河口の右岸に城が表記されていることから、かってのバタビア城は、海洋博物館よりもっと北寄りの現在のスンダ・クラパ港辺りと思っていました。両岸の突堤が海に突き出たカリ・ブサールの河口の様子は、古地図も現代の地図も、よく似ていますが、埋め立てにより、現在の河口は、バタビア時代よりも、ずっと北に移行しているのです。古地図によれば、バタビア城の対岸にVOCが位置しているので、現在のVOC Galanganが古地図のVOCを指すのであれば、かっての城の位置も哨楼より南側になります。折しも、娘から送られてきた写真の中に哨楼の上から撮ったものが数点あり、その一つは、カリ・ブサールを挟んでVOC Galanganの対岸地帯を写したものです。木立に囲まれ、散見される民家の他は何も無く、かなり広い敷地になっています。私は、ここがバタビア城址と推測しました。ただ、現代のジャカルタ地図でバタビア城址を表記しているものは皆無です。

 私の推測を確認する意味で、最近、お近付きになった「 「ジャワ探求 南の国の歴史と文化」の著者井口正俊さんと旧知のブログ「ジャカルタ新旧あれこれ」のオーナー西見恭平さんに幾つかの問い合わせメールを送りました。お二人の回答で分かったことは、お二人とも、カリ・ブサールとトンコル通りに挟まれたこのバタビア城址エリアをすでに何度も訪ねておられ、写真を撮っておられたということです。お二人の写真によれば、木立で隠れた一帯は、草で覆われた運動場のような感じの広場になっています。DKIジャカルタとして、建造物を認めないのかもしれませんが、せめて史跡の看板くらいは設置してもよいと思います。西見さんは、出会った住民の一人に、城址について尋ねたのですが、まったく知らない様子だったそうです。

 バタビアという表記について、私は本誌先月号に発表した小文『「ジャワ探求」と「じゃがたら紀行」』において、“「じゃがたら紀行」では、Bataviaのvからバタヴィア、「ジャワ探求」では、オランダ語の発音に近いバタフィアと表記されています。私は、一般的な日本人が一番慣れ親しんでいるバタビアを使っています。”と記述しました。引用した徳川義親侯爵著「じゃがたら紀行」は、大正10 (1921)年当時のバタビアについて、“今、バタヴィアというのはタンジョン・プリオ、バタヴィア、ウエルトフレデン、メーステル・コルネリスの四つの独立した市の総称です。”と著しています。タンジョン・プリオはさておき、バタヴィア、ウエルトフレデン、メーステル・コルネルスについては、説明の要があります。私は、昔、ジャカルタ・ジャパン・クラブの会報(1991年3月号)に載せた「蘭印の地の散策」という小文で、バタビア、ヴェルテフレーデン、メーステル・コルネルスについて、次のように述べています。

“17世紀の始め、このジャヤカルタの地にオランダ東印度会社が本拠を移してバタビアと呼ぶようになった。パッサル・イカンからほど近いコタ駅のすぐそばにある今の歴史博物館を中心として、大川という意味のカリ・ブサールの両岸が、初期のバタビアである。その後、バタビアは南に伸びて行く。今のガジャマダ通りとハヤム・ウルック通りにはさまれた運河をモーレンフリート運河といい、両側の道路も併せた一帯をモーレンフリートと呼んだ。初期のバタビアにモーレンフリート周辺を加えた地域が、今のコタである。”“ヨーロッパにナポレオンが一時代を画した、1800年代初頭、バタビアの政治の中心はヴェルテフレーデンと呼ばれた今のバンテン広場の周辺地域に移った。バンテン広場とはボロブドゥル・ホテルの前にある広場で、オランダ時代はワーテルロー・プレインと呼ばれた。”“バタビアの名残を今にとどめる地は、他にはタナアバンやジャティネガラがある。ジャティネガラは、日本人にはなじみのうすい地だが、昔はメーステル・コルネルスとオランダ風に呼ばれていたとか。”

 徳川侯が、バタビアを訪れたのは、大正10 (1921)年とのことですが、大正6(1917)年4月刊行の鉄道院編「東亜英文旅行案内(An Official Guide to Eastern Asia : Trans-continental connections between Europe and Asia) 第5巻東インド(Vol. 5 East Indies)」の“Part V. The Dutch Indies”にある“Batavia and Environs.”では、“バタビア市は、バタビアとヴェルテフレーデン(Weltevreden)および郊外のメーステル・コルネルス(Meester Cornelis)に分けられている”と記されています。掲載されている地図には、(オールド)バタビア、ヴェルテフレーデン、メーステル・コルネリスの他、モーレンフリート、ノールドヴェイク、レイスヴェイク等のオランダ風の地名とともに、タンジョン・プリオク、マンガブサール、グヌンサリ、ピントブサール、タナアバン、チキニ、パッサルバルなど今日に続いている地名が表示されています。カリ・ブサール河口周辺の埋め立ては進んでいて、ほぼ、現在の状態になっています。アンチョールは、埋め立て進行中という様相です。バタビア城址一帯は、オランダ語で“Kasteelplein”と表記されています。“Kasteelplein”とは、英訳すると“Castle Square”になります。

 この本は旅行案内書ですので、当時のバタビアにあったホテルやクラブを紹介しています。その中に、モーレンフリート(Molenvliet)所在のホテル・デス・インデス(Hotel Des Indes)とレイスヴェイク(Rijswijk)所在のハルモニー・クラブ(Harmonie Club)の名前が見えます。ホテル・デス・インデスは、現在のガジャマダ通り沿いにありました。共和国成立後は、ホテル・ドゥタ・インドネシアと名前を変えて営業を続けていましたが、1970年代初頭に取り壊され、跡地はドゥタ・メルリン・ショッピングセンターになっています。また、ハルモニー・クラブは、1985年にマジャパヒット通りの道路拡幅で取り壊されました。レイスヴェイクとは、ピントゥ・アイルの水門から大統領官邸の裏にあたるイスタナ・ネガラの前を通ってマジャパヒット通りまでのベテラン通りの古い呼び名であり、大統領官邸を中心とするムルデカ広場辺り一帯の地域を指します。レイスヴェイクは、エリート白人の居住地でした。

 1960年代初頭、私は、クバヨラン・バルの単身寮からコタのジャーラン・コピの事務所まで、マジャパヒット通りにあったハルモニー・クラブとガジャマダ通りにあったホテル・ドゥタ・インドネシアを見ながら、通勤していました。この頃、ホテル・ドゥタ・インドネシアは、第一級の名門ホテルの扱いで、絵葉書にも取り上げられましたが、1962年完成のホテル・インドネシアにその地位を譲り、取り壊わされたのです。私は、ホテル・ドゥタ・インドネシアの正面とチリウン運河を写した絵はがきを持っています。バタビア時代のハルモニー・クラブは、オランダ人とイギリス人の社交場で、夜な夜なダンスパーテーなども開かれていたとのこと。スカルノ治下の1960年代、夜な夜なのダンスパーテーはありませんでしたが、ちょっとした会食は、ここで行われるのが通例でした。私は、ハルモニー・クラブで行われた同窓会の写真を、今も、持っています。

 引用した鉄道院編「東亜英文旅行案内(An Official Guide to Eastern Asia : Trans-continental connections between Europe and Asia) 」とは、当時の鉄道院総裁後藤新平の発案により刊行された英文旅行案内書で、第1巻「満州・朝鮮」、第2巻「南西部日本」、第3巻「北東部日本」、第4巻「中国」、第5巻「東インド」で構成さています。第5巻「東インド」は、“Part I. Philippine Islands”、“Part II. French Indo-China”、“Part III. Siam”、“Part IV. Malay Peninsula”、“Part V. The Dutch Indies”により成り立っており、かっての蘭印については、“Part V. The Dutch Indies”に記述されています。この本の復刻版も現在、刊行されていますが、“Part V. The Dutch Indies”だけでも、\29,800と結構な値段です。(完)

 

 
 


















































 
 
  鉄道院編纂『東亜英文旅行案内』第5巻[東インド−フィリピン、仏領インドシナ、蘭領インドシナ、海峡植民地]
“Vol.5: East Indies. including Philippine Islands, French Indo-China, Siam, Malay Peninsula and Dutch East Indies”
 

 
 
   鉄道院の初代総裁であった後藤新平が企画・刊行した『東亜英文旅行案内』は、「満州・朝鮮」(1913年10月)、「南西日本」、「北東日本」(1914年7月)、「中国」(1915年4月)、「東インド」(1917年4月)の5冊よりなり、復刻版は、各巻それぞれ3万円近い値段である。全5巻のうち、第5巻「東インド」編が、“An Official Guide to Eastern Asia v.5”というタイトルで、コーネル大学のサイトに公開されており、蘭領インドシナを紹介する目次は下記である。 
 
   Part V. The Dutch Indies.  
   Map of Java  
   Chapter II. General Remarks on the Dutch East Indies.  
   Map of Batavia  
   Route XXVI. Batavia and Environs  
   Route XXVII. Batavia to Bandoeng  
   Map of the Botanical Gardens at Buitenzorg  
   Route XXVIII. Bandoeng to Tjibatoe and Garoet.  
   Map of Soerabaja  
   Route XXIX. Soerabaja.  
   Route XXX. Boroboedoer and Dieng Plateau  
   Route XXXI. North Coast Line. (between Batavia and Soerabaja.)  
   Map of Semarang  
   Map of the Environs of Tosari and Malang  
   Route XXXII. Eastern Part of Java  
   Route XXXIII. Bali and Lombok.  
   Route XXXIV. Sumatra. The Eastern Coast.  
   Map of the Environs of Padang  
   Route XXXV. Dutch Borneo.  
   Route XXXVI. Celebes.