15年ぶりのジャカルタ − 2010年5月 |
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| 天狗会 − Sentimental Journey to Jakarta 東京外国語大学インドネシア語科に入学したのは、1957(昭和32)年です。卒業年次はバラバラですが、同期入学の20人が在学4年間のクラス仲間です。「南友会」という同窓会組織はありますが、同期入学のクラス会は、当時の教授が亡くなったこともあって、数年来、途絶えています。まとまった形のクラス会ではないが、メンバー5人による「天狗会」という集まりがあります。「天狗」とは、新宿駅南口からほど近い居酒屋の名前です。 私以外の4人は、退官して現在は東外大名誉教授になっている佐々木重次君、エジプト石油開発を退任した大森通広君、佐世保重工OBの山寺嘉夫君、東レOBの原一弘君です。 天狗会の創設者は、2004(平成16)年暮れに亡くなった丸紅OBの中川肇君です。中川君は、定年の数年前に丸紅をやめて、アップル系列のコンピューター関連会社に移りました。勤め先は秋葉原でしたが、歩いても近い神田駅前の「天狗」に、我々を集めて飲みました。彼は山歩きが好きで、例年10月の連休にあわせて、1泊か2泊の山小屋泊まりのトレッキングを設定し、我々を招集しました。1988年から1995年まで、私はジャカルタと広島に在勤していたので、この間は不参加でしたが、1996年以降は、6回の山行に同行しました。 *(1)渋の湯から八ヶ岳の一つ天狗岳を経て松原湖、(2)檜枝又村から三条の滝を経て尾瀬ヶ原、 (3)谷川岳・一の倉沢から天神平、(4)三峯神社から雲取山を経て奥多摩湖、 (5)栗駒高原から乳頭温泉、(6)上高地から蝶ヶ岳 中川君は仕事がコンピュータそのものであり、佐々木君も専門家はだしにハードもソフトもこなせるのに対し、大森君と山寺君はまったくの機械音痴のため、中川君からのメールでの連絡を私が電話で取り次いでいました。大森君と山寺君は、私と同じ小田急沿線に住んでいます。時には、大森君と山寺君と私の3人で小田急沿線ハイキングをやりました。原君は、この間、ジャカルタと大阪に在勤のため、不参加でした。 中川君が体調をくずしてからは、山小屋泊まりのトレッキングはなくなりました。「天狗会」も、私が主宰するようになり、場所も新宿の「天狗」になりました。中川君が亡くなってからは、トレッキングも日帰りになりました。そのうち、逗子の実家にもどった原君も「天狗会」に参加するようになりました。 天狗会5人のうち、海外駐在は香港で、ジャカルタには出張だけだった山寺君を除く4人は、ジャカルタ在住・在勤の経験者です。一番新しいのが1998年から2004年まで駐在した原君です、私が初めてインドネシアに赴任したのは1962年1月で、もう48年前になります。北スマトラ石油開発協力(NOSODECO)にいた大森君と同時期の駐在でした。大森君の場合、NOSODECOがインドネシアから撤退してエジプト石油になってからは、インドネシアと縁が切れました。エジプトでは、通算10年のカイロ駐在を勤めました。ジャカルタには46年ぶりになるとのことです。 佐々木君の場合は、1970年台初頭、現在のODAの先駆けとなるコロンボ・プランにより、インドネシア大学日本語学科の教鞭をとる専門家として、奥さんを帯同、派遣されました。私は、1971年の出張の時、彼の家を訪ねました。その後、1988年から92年までの私の最後のお勤めの時、彼が出張で来イしました。可能な限りお手伝いしました。 佐々木君の来イと若干ずれていますが、原君が出張で来イした時には、東レと兼松が合弁会社を持っていた関係もあり、彼が私の事務所に訪ねてきました。 そういうことから、「天狗会」メンバーによるSentimental Journey to Jakartaをやろうということになり、2010年5月5日出発、5月11日帰着のスケジュールで行ってきました。 大森君と山寺君は、7日から9日まで、ジョグジャカルタに飛び、ボロブドゥルとプランバナンの遺跡を見てきました。他の3人はジャカルタにとどまり、時には一緒の行動もありましたが、それぞれ独自に行動しました。 ジェトロとIndomalco 独自の行動として、私の場合は、5月7日にジェトロ・ジャカルタ・センターを訪ね、塚田学氏と面談、最近のインドネシア情報や契約ベースでIndomalcoより情報提供を受けていることなどを伺いました。 また、7日は、古巣の兼松の現地法人PT.Kanematsu Trading Indonesiaの譲原靖之社長を表敬しました。兼松関係では、かって同僚であった斉藤康夫君、扇谷竹美君、角田和穂君の3人が現在もまだ、ジャカルタで働いているおり、旧交をあたためました。 翌8日には、Indomalco社が発刊している「月刊インドネシア企業経営」主幹の西見恭平氏と初めてお会いし、最新事情などを伺いました。当日は、同氏のブログ「ジャカルタ新旧あれこれ」に出てくる場所のご案内もしていただきました。 、 |
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| 15年ぶりのジャカルタ 2010年5月5日夕刻、天狗会メンバーともども、ジャカルタ入り、スナヤン競技場パークに隣接するAtlet Century Park Hotelに宿をとりました。私のインドネシア出張の最後が1995年1月ですから、15年ぶりのジャカルタということになります。 15年ぶりのジャカルタの変貌は驚きでした。15年前もすでに高層ビルの建設は始まっていましたが、今回、目にしたのは、きらびやかな摩天楼の林立でした。スナヤン競技場の周辺は、目抜きのスディルマン通りは別として、裏側はゴルフ場で、めぼしい建物は何もなかったのですが、今は、道路の幅が倍になり、両側に洒落たショッピングモールを抱えたビルが軒を連ねているのです。 道路といえば、新しい立派な道路が数多く建設されて、便利になっているはずなのですが、それ以上に車が増えて、どこを走っても、大渋滞というのも変貌の一つです。 写真は、ホテルの窓より、スナヤン競技場の外苑越しゴールデン・トライアングルのビル街の遠望です。ゴールデン・トライアングルとは、スマンギの立体交差に隣接した新しいオフィス・センターで、15年前には存在していませんでした。 もう一つ、意外に思い、かつ、困惑したことは、トラベラーズ・チェック(TC)によるドルとルピアの交換が、極めて困難だったことです。2008年5月に1ヶ月の米国旅行をした際、シティ銀行にドル預金口座を開設しました。今回の旅行に当たっては、このドル預金を利用して、シティ銀行でTC(American Express Travelers Cheque)を組み、持参しました。ところが、空港の銀行は軒並み、TCによる交換を拒絶しました。一つだけ引き受けた銀行の交換レートは、同行の4人のドル・キャッシュの交換レートが、1ドル9,900ルピア前後であったのに対し、私のTCの場合は、1ドル9,000ルピアでした。 翌日、市内のシティ銀行に出向き、TCのドルをルピアに交換するよう求めたところ、口座を持っていなければ、応じないと言います。最終的には、三菱東京UFJジャカルタ支店で1ドル9,800ルピアほどで交換しましたが、それでも、American Expressに確認を求めるなど、手間がかかりました。 1988年から1992年までのお勤めの時は、東京本社よりの長期出張という社内ステータスの都合上、駐在員手当は本社からの駐在員への送金ではなく当時の東京銀行発行のTCを持参し、東銀ジャカルタ支店で、必要に応じ交換していました。今回ジャカルタでのTC交換の難しさは想定外でした。 |
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| ジャカルタ外語会 佐々木名誉教授のジャカルタ入りということで、5月6日の夜、ジャカルタ外語会の集まりがセットされていました。驚いたことは、写真で見る通り、出席者のほとんどが女性であるということです。私がジャカルタに在勤していた1990年台初頭までの外語会の会員は、駐在員夫人を除けば、男ばかりでした。それが、今や、約30人の会員の半数が女性とのことです。インドネシア人と結婚して在住している女性会員もほとんどが、仕事をしているようです。中には、日本の金融機関のジャカルタ駐在員事務所主席を勤めている女性もいました。 |
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| ジャカルタ墓地巡り ブログ「ジャカルタ新旧あれこれ」の西見恭平さんとは、メールのやりとりで旧知のような間柄になっていましたが、お会いしたのは、今回が初めてです。 私は、通算12年、ジャカルタに在住し、「蘭印の地の散策」などという小文を著しましたが、オランダ人の墓地であるプラサスティ墓地公園については、西見さんのブログで初めて知りました。西見さんの「プラサスティ物語 総括.」によれば、この墓地には、オランダ人以外にも、英国人のラッフルズ夫人の墓や日本軍の「廣安悌隊30勇士の碑」などもあります。 今回の旅行の目的の一つは、このプラサスティ墓地を訪ねることでした。西見さんにご無理を願い、5月8日、プラサスティ墓地を案内して頂きました。また、からゆきさんなどの日本人物故者のお墓が多く残されていて、お彼岸時期には、ジャカルタ・ジャパンクラブ主催の慰霊祭が行われるプタンブラン墓地も、プラサスティからさほど遠くないので、ここにもご案内いただきました。 なお、からゆきさんとは、漢字で唐行きさんとも書きます。19世紀後半、東南アジア各地に娼婦として売られて行った女性で、多くは島原や天草の出身者でした。からゆきさんが世に知られるようになったのは、1971年に山崎朋子が著した「サンダカン八番娼館」によるものと承知しています。 私は、1981年から82年にかけてマレーシア領北ボルネオのサバ州コタキナバルに在勤した時、サンダカンに出張したことがあります。その時、からゆきさんの墓がある日本人墓地に行ったかどうか、覚えていません。覚えているのは、オランウータンの保護林に行ったことだけです。コタキナバルにも日本人墓地があり、当然、見ているはずですが、記憶は定かでありません。からゆきさんの墓で、はっきり覚えているのは、シンガポールの日本人墓地です。ここには、寺内元帥と二葉亭四迷の墓もありました。 西見さんには、プラサスティとプタンブランをご案内頂いたのですが、終わった後、一つ忘れていたのが、第2次大戦時のオランダ兵戦死者が眠るEreveld Menten Puloでした。翌日、原君と一緒に、メンテンプロのオランダ兵英霊墓地を訪ねました。この墓地も、初めて見るものでした。 十字架が立ち並ぶ英霊墓地として、もっとも知られているのはワシントンのアーリントン墓地です。私は、1996年にアーリントン墓地を見てきました。また、マニラにある米兵戦死者の墓地も訪ねています。 ジャカルタ墓地巡りで、一つ、発見したことは、プタンブラン墓地の日本人納骨堂に収められている骨壺の一つに大脇操夫妻の名前を見つけたことでした。大脇氏は、ジャカルタ日本人学校の校長で、私の娘が来イして日本人学校に通い始めた直後の1975年7月、ご夫妻ともども、交通事故で亡くなられたのでした。 |
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| プラサスティ墓地公園 | プラサスティ墓地 ラッフルズ夫人の墓 | プラサスティ墓地公園 | ||||
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| プタンブラン墓地・日本人納骨堂 | プタンブラン墓地・日本人物故者の墓 | プタンブラン墓地・中国人富豪の墓 | ||||
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| メンテンプロ英霊墓地正門 | メンテンプlロ英霊墓地 | メンテンプlロ英霊墓地 | ||||
| ジャラン・コピは兼松の故郷 今回の旅行で、私が一番確かめたかったことは、私が初めてジャカルタに赴任した1962年当時の兼松のオフィスです。西見さんのブログ「ジャラン・コピは兼松の故郷」にあるドリアンを売っている店の番地は確かに51番地になっていますが、この店ではありません。なぜ、51番地なのかというと、兼松が借りていた事務所の大家さんは、1階に事務所を構えていて、社名が番地の51(lima satu)と同じPT Lima Satuだったからです。ご案内いただいた直後の西見さんのブログにもあるように兼松のオフィスは、写真の右から2番目のシャッターで閉ざされた建物の2階でした。 |
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| 独立宣言起草記念館(Museum Perumusan Naskah Proklamasi) 西見さんにイマンボンジョル通りにある「独立宣言起草記念館」に案内して頂きました。 帰国後、NHKスペシアル「ジャカルタの一番熱い日」を見て、さらにスバルジョ(著)・奥源造(編訳)「インドネシアの独立と革命」(龍渓書舎)と増田与(著)「インドネシア現代史」を読み直して、認識を新たにしたことは、かって前田海軍少将邸であったこの記念館が、インドネシアの独立前夜、極めて重要な舞台であったということです。 |
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記念館(Museum Perumusan Naskah Proklamasi)の背景について、インドネシア語で次のように記述されています。 Latar Belakang: Gedung museum didirikan pada tahun 1920 dengan arsitektur Eropa dan menjadi Gedung Museum Perumusan Naskah Proklamasi tahun 1992, gedung ini menjadi museum karena gedung ini mempunyai nilai sejarah yang sangat penting bagi bangsa Indonesia dalam kaitannya dengan penyusunan Naskah Proklamasi. Pada saat penyusunan Naskah Proklamasi gedung ini adalah tempat kediaman Laksamana Tadashi Maeda di Jalan Meiji yang sekarang menjadi Jl. Imam Bonjol No. 1 Jakarta. 1920年にヨーロッパ様式で建設され1992年に博物館となったこの建物は、独立宣言の起草に関連してインドネシア民族にとって非常に重要な歴史遺産である。当時、日本風に明治通りと呼ばれていたイマンボンジョル通り1番地のこの建物は、前田精提督の居宅であった。 |
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| 「独立宣言起草記念館」は「元日本大使館」 「独立宣言起草記念館」の外観を見て、私が初めて赴任した1962年代の日本大使館と思いましたが、展示されている説明を読むと、この建物は1961年から81年頃まで、英国大使館であったとあります。 メンテン地区のイマンボンジョル通りは、オランダ時代はオラニェ・ブルバードと呼ばれており、格調の高い住宅街です。現在も、外国公館が多数あり、1958年の国交樹立で新設された日本大使館も1960年代初頭、メンテン地区にありました。 |
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1960年前後のジャカルタ地図 日本大使館はメンテン地区に所在、 タムリン通りはまだ開通していない。 |
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| それでは、当時の日本大使館は、メンテンのどこだったか、「独立宣言起草記念館」と関連づけて、西見さんは、ブログ「独立宣言起草記念館と日本との関係」で、"多分ここは現在の日本大使館が完成するまで平和条約を結んだばかりの日本大使館に貸したという推定は出来ないだろうか?”と述べられています。 1962年当時、英国大使館は、ホテル・インドネシアの向かい側の現在の位置にあった記憶があります。西見さんのブログ「英国大使館の国章」の建物と、私の「1960年代のジャカルタ」で「ホテル・インドネシアより英国大使館方向を望む」の英国大使館は同じです。1960年代、英国大使館であったという記念館の展示説明は、西見さんの仮説である“英国大使館の所有で日本大使館が使用した”というように書き換えられそうです。 |
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英国大使館の国章 左上の白い建物が1960年代初頭の英国大使館 |
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| 現在の日本大使館のリニューアルは2003年ですが、タムリン通りの同じ場所にあって取り壊された旧館の建設は1966年ということです。それまで、コタ(旧市街)に事務所を構えていた日本商社の多くが、この大使館ビルに移って大使館と同居することになりました。この事態は官民一体の経済進出と批判され、そのため、多数の日本商社は、新設のヌサンタラ・ビルに移りました。 ヌサンタラ・ビルは隣接のプレジデント・ホテル(現ホテル・ニッコー)とセットで、木下産商・大成建設が受注し起工したのですが、木下が三井物産に吸収されたため、1972年に竣工して、多くの商社がテナントになった時の大家は物産の合弁でした。三井のビルに三菱商事がテナントになっているのは、世界中でヌサンタラ・ビルだけだと、商事の知人から聞いたことがあります。 このプレジデント・ホテルの7階からタムリン通りを挟んで向かい側の日本大使館に爆発物が打ち込まれた事件がありました。日本赤軍の犯行で容疑者は逮捕されました。1986年5月の出張の時の出来事でした。私は、同じプレジデント・ホテルの7階に泊まっており、部屋に戻るためエレベーターを降りると物々しい検問にぶつかりました。 |
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| ジャカルタの一番熱い日 「独立宣言起草記念館(Museum Perumusan Naskah Proklamasi)」を見てきたことで、ビデオに撮ってあるNHKスペシアル「ジャカルタの一番熱い日」を改めて見直しました。この番組は1991年8月12日の放映で、「シリーズ アジアと太平洋戦争第1回 ジャカルタの一番熱い日 インドネシア独立宣言」というタイトルです。 この番組の放映時、私はジャカルタに在勤中で、何も知りませんでした。その後、会社の先輩でジャカルタでも3度お勤めをご一緒した羽根田さんから、「西嶋さんが出ているよ。」というコメント付きで、ビデオを借りてダビングしたものです。ビデオを見て、歴史の証人である西嶋重忠さんなしには、この番組は作れなかっただろうなと思いました。 下の写真はビデオからスキャンした西嶋さんと前田少将、邸内の様子です。 |
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| この番組の最大テーマは、「独立宣言」の起草です。ビデオのナレーションは、次のように言っています。 「宣言 我々インドネシア民族はここにインドネシアの独立を宣言する。権力の移行その他に関する事項は適切な方法によって可能な限り短期間で実施されるものとする。 わずか5行、独立宣言としては、異例の簡潔さです。初代大統領スカルノと副大統領ハッタの署名、宣言地はジャカルタ、日付は終戦からわずか2日後の8月17日、続いて05年と書かれています。05年は、日本の皇紀2605年を指しています。」 |
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| Kami bangsa Indonesia dengan ini menjatakan kemerdekaan Indonesia. 番組において、モハメッド・ディアは、 Hal-hal jang mengenai pemindahan kekoeasaan d.l.l., diselenggarakan 「これは歴史だ。書き換えはできない。」 dengan tjara seksama dan dalam tempo jang sesingkat-singkatnja. と述べている。 Djakarta, hari 17 boelan 8 tahoen 05 Atas nama bangsa Indonesia. Soekarno/Hatta |
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| この宣言の起草のため、食堂の円テーブルをかこんだ人を、西嶋さんは、前田少将をはさんで右にスカルノとハッタ、左にスバルジョとご自身というように図示しながら説明されています。これに対し、元情報大臣で当時青年グループのリーダーであったモハマッド・ディアは、日本人は2階にあがって、討議に参画していなかったと証言しています。 増田与(著)「インドネシア現代史」(中央公論社)に引用されている西嶋さんのメモには、“食堂の円テーブルにスカルノ、ハッタ、スバルジョ、前田、吉住、西嶋の各氏が坐り、青年たちや独立準備委員会の代表たちは、広間や応接間を占領していた。ここで陸軍の斉藤鎮男、三好俊吉郎両氏が来邸を求められ、三好氏(軍政監部司政官)のみが来邸し、同じテーブルについた。”とあります。 *吉住留五郎:日蘭商業新聞の記者、インドネシア独立戦争で戦病死。東京愛宕の青松寺には、ス カルノが贈った碑がある。 また、番組は、宣言文中のpemindahan kekoeasaanを「権力の移行」と訳しています。 これについて、番組は、スカルノの独立宣言原案を研究するインドネシア大学歴史学科の分析を報じており、スカルノの原案にあったのは「委譲(penjerahan)」であり、日本が連合軍に対して「現状維持」を約束している立場を尊重して、「委譲」ではなく「移行(pemindahan)」を選んだとしています。 なお、前出の「インドネシア現代史」やスバルジョ(著)・奥源造(編訳)「インドネシアの独立と革命」(龍渓書舎)を読むと、どちらもpemindahan kekoeasaanを「権力の委譲」と訳しています。 西嶋さんは、インドネシア側より提示された「権力の奪取」という言葉については、日本人出席者が強く反対したことにより撤回されたと話しておられます。「インドネシア現代史」と「インドネシアの独立と革命」においても、青年グループのスカルニより提案された「権力の奪取」という言葉を、スカルノ、ハッタ等が却下したと書かれています。 |
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この番組で、もう一つ、印象的だったのは、インドネシア国歌「インドネシア・ラヤ」です。先日見た長編記録映画「セレベス − 海軍報道班員の報告」の中で「インドネシア・ラヤ」がBGMに使われているのに驚いたばかりでしたが、この番組によると、大戦に先立ち、日本は山田耕筰にこの歌の編曲を依頼しレコード録音し、これをインドネシア向けラジオで繰り返し放送したとあります。ビデオから収録した「インドネシア・ラヤ」のメロディをお聞き下さい。 |
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| 元「海軍武官府」の所在地 今回の旅行で訪ねた「独立宣言起草記念館」は、戦中の帝國海軍武官府だと思っていましたが、「ジャカルタの一番熱い日」を見ると、下の写真の通り、海軍武官府は別にあることがわかりました。現在の「独立宣言起草記念館」は、前田精海軍少将の公邸でした。 |
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![]() 独立宣言起草記念館 |
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| 武官府の位置について、スパルジョ(著)・奥源造(編訳)「インドネシアの独立と革命」(龍渓書舎)に、次のような記述があります。 "その事務所は、かっての王宮広場、当時のイカダ広場、そして現在は独立広場と呼ばれている地域の北側にあって、オランダ時代は庶民信用金庫、現在はインドネシア陸軍司令部となっている建物のなかにおかれていた。" “独立広場と呼ばれている地域の北側”ということで、現代のジャカルタ地図よりムルデカ・ウタラをローミングしたところ、”Former Indonesian Army Headquarters”というブロックがありました。スバルジョの言うインドネシア陸軍司令部であれば、ここに「海軍武官府」があったことになります。道路を挟んだ向かい側にイスティクラル・モスクがあります。 |
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| Former Indonesian Army Headquarters | ||||||
| その後、この記事を読んだ西見さんが、ブログで現在の陸軍本部の写真を送ってくれました。「ジャカルタの一番熱い日」で紹介された海軍武官府の建物と同じです。海軍武官府はここにあったことが確認できました。 |
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| Markas Besar TNI AD | ||||||
また、「「インドネシアの独立と革命」には、次のような記述もあります。 ”スカルノとハッタは、日本軍政当局の最高の責任者である軍政監と接触して、確実な情報を得ようと努めたが、徒労に終った。軍政監は、彼の事務所にはいなかった。この事務所は、かつてバタビア石油会社のビルだったが、そこには、スカルノとハッタに接見してくれる人物はいなかったのである。” 軍政監とは第16軍参謀長の山本茂一郎少将で、その事務所は軍政監部と称されていました。上記記事によれば、その軍政監部は、”かつてバタビア石油会社のビルだった”とありますが、バタビア石油とは、バターフセ石油会社(Bataafsche Petroleum Maatstchappij=BPM)のことです。 BPMは、蘭印における油田の開発や製油所など施設の操業・管理、製品の販売を行う目的で、ハーグに設立されたロイヤル・ダッチ/シェルグループの会社です。したがって、軍政監部が入っていたBPMのオフイス・ビルとは、現在のプルタミナ本社の道路側にある旧館ということになります。 |
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| 「ジャカルタの一番熱い日」よりスキャンした旧軍政監部と現在のプルタミナ 旧館 | ||||||
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| ジャカルタ地図の変遷 現在のジャカルタ地図とオランダ時代バタビアの地図を比較して、気が付くことは、独立広場より南の発展です。最も顕著な現れは、南北に貫通するタムリン通りとスディルマン通りが建設されたことです。 タムリン通りが開通するまでは、戦前はジャラン・サバンと呼ばれた現在のハジ・アグス・サリム通りがメインロードだったそうです。現在の地図上で、独立広場の南端からタムリンと並行してメンテン方向に南下している道です。 |
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| 1938年バタビア中心部 |
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| 私が初めてジャカルタに赴任した1962年1月時点では、タムリンもスディルマンも開通しており、スマンギの立体交差も完工していました。1962年8月のアジア大会開催に間に合わせるために仕上げたもので、スナヤン競技場もできあがっていました。タムリンとスディルマンの開通は、1959年もしくは1960年だと思います。 私が住んでいた兼松の単身寮は、クバヨラン・バルにあり、兼松の事務所は、コタのジャラン・コピにありました。したがって、クバヨラン・バルからコタまでは、スディルマン通り、タムリン通り、ムルデカ・バラット、ハルモニー、ガジャマダを通り抜けて行ったのですが、45分かかったか、どうかでした。 ムルデカ広場は、まだ整備されておらず、モナスもありません。モナスが今のような姿で立ち上がったのは、1970年代になってからです。 |
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| 右に表示の地図は、1927年当時のバタビア中心部です。 現在のバンテン広場、当時のWaterloo Pleinの周辺に次のような建造物が集まっているのが窺えます。 21.."Concordia" Military Society 22. Department of Finance called the "Big" or "Witte Huis" 23. Statue of Jan Pieterszoon Coen 24. Supreme Court 25.."Star of the East" Lodge 26. Catholic Church 27. Major General Michiels Memorial 28. Battle of Waterloo Memorial 29. Aceh Monument in Wilhelmina Park 30. Frederik Hendrik Citadel |
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| ボゴール植物園 最終日の5月10日は、夜行便のチェックイン・タイム午後8時まで、十分すぎるほどの時間があることから、タクシーをチャーター、5人そろって、ボゴール植物園の見学に出向きました。 ボゴール植物園に入ったのは、1975年に家族と一緒のジャカルタ生活を始めた時以来35年ぶりです。植物園見物といっても、熱帯植物にさほどの知識も興味もないことですから、植物園中央にある池の畔で有名な蓮を見て、鉄柵越しに大統領別邸を眺めるというだけでした。 今回は、農園を営み、キノコ博士という異名を持つ大森君が、日本語を多少たしなむガイドを雇っての見物でしたので、初めて、熱帯植物の群生林の中を歩きました。新知識は、熱帯の竹林は、日本の竹林とは、大変な違いがあるということでした。インドネシアでは、何十本の竹が根元で一つに密集するので、日本のように竹林の中でチャンバラをするようなことはあり得ないと言うことです。 今回の旅行では、ジャカルタの3つの墓地巡りをしたのですが、ボゴール植物園の中の熱帯林の中にも古いオランダ人の墓地がありました。また、これは誰でも知っていることですが、園内には、ラッフルズ夫人の追悼碑があります。今回は、プラサスティ墓地で夫人の墓を見ていることから、関連づけができました。 もう一つ、大森君の雇ったガイドが大統領別邸を指さし、「1962年にアキヒトが泊まった。」と言いました。さらに、「自分たちは、日本の歌を合唱した。」というので、「ブンガサクラか?」と尋ねると「愛国の花だ。」との答え、さらに「愛国の花を知っているか?」というので、「真白き富士の気高さを、」と口ずさんだところ、「心の強い盾として、」と後を追ってきました。ブンガサクラがボゴールで歌われた事実の生き証人でした。 昼食は、ボゴール在住の佐々木君の教え子がセットした市内の中華料理店でとりました。 ジャカルタへの帰り道で、激しいスコールにあいました。かなり長い時間、降られ続けたということは、だいたい、スコールは、ボゴール方向からジャカルタへ進むのですから、我々はスコールと道連れだったということになります。 |
ボゴール植物園正門 |
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| 植物園中央の蓮池 蓮池越しに大統領別邸を臨む | ラッフルズ夫人記念碑 | |||||
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| 天狗会ジャカルタ旅行後日談 5月のジャカルタ・ノスタルジー旅行以来の天狗会を9月30日に持ちました。 佐々木君によると、天狗会メンバーの訪イの後、しばらくして、佐々木夫人の信子さんも単身で訪イし、ジャカルタ外語会の女性メンバーと交流したとのこと。信子夫人は、大阪外大インドネシア語科の出身ですが、東外大大学院の研究科課程を修了しており、ジャカルタ外語会の女性たちとも、よく知っている間柄です。 信子夫人が佐々木君に伝えた話では、懐かしい佐々木先生との歓談の場になるはずのジャカルタ外語会に居合わせた老人たちは、彼女たちにとって、まったく意味不明のジャマな存在だった由。 なるほど、彼女たちにとって、我々は同窓の先輩かもしれませんが、これまで何の接点もないし、話を聞けば、およそ興味のない古くさい昔話、言うなれば、我々はキモイ・オヤジ連だったのでしょう。 私は、「寅さんとインドネシアと私」の中で、次のような小文を書いています。 ”私は東京外大のインドネシア語科の卒業で、学生時代のコンパで歌われた「流浪の旅」の”流れ流れて落ち行く先は北はシベリア、南はジャワよ”の歌詞に陶酔したものでした。歌詞に陶酔といえば、60年代のジャカルタでは「カスバの女」をもじって”ここは地の果てジャカルタよ”の悲壮感にひたりました。熱帯の夜空を眺めて「ラバウル小唄」にある”椰子の葉陰に十字星”を探し、いよいよ帰国の時は”さらばジャカルタよ、また来るまでは、しばし別れの涙がにじむ”と口ずさみました。” この心情は、天狗会メンバーに共通していますが、彼女たちにとっては、理解の外なのでしょう。 |
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