お宝画像   
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1962年皇太子ご夫妻訪イ
ホステス役はメガワティ元大統領
戦前と1960年代のジャカルタ
1960年代絵葉書に見るジャカルタ 
Des Indesはデザーン 
マジャパヒット通りの今昔

保存されている植民地時代の建物

南満州鉄道株式会社の株券
幕末志士の群像
中村敦夫と共演
絵葉書になったテメロー橋 − 私がこの橋を架けました。
ありし日のワールドトレードセンターとグラウンドゼロ
 



 


















1962年皇太子ご夫妻訪イ

 私の兼松プラント部在籍時代の上司である羽根田豊さんとは、ジャカルタでも1960年代、70年代、90年代の3回のお勤めをご一緒しました。羽根田さんは1962年当時の皇太子夫妻訪イのおりの写真数葉をもっておられたので、ここにご紹介します。
 羽根田さんが持っておられた写真は、ご自分で写したものではなく、小遣い銭かせぎのインドネシア人カメラマンから買ったものです。当時のインドネシア当局は、防諜に極めて神経質で、飛行機がジャカルタ空港に近づくと、窓のシャッターをおろさせて、乗客に外の景色を見せないようにしていました。空港などは撮影禁止ですので、在留日本人がご夫妻を出迎えても写真は撮れませんでした。

 
 (1)  
   
 (2)
  
(3)

ホステス役はメガワティ元大統領
 1962年皇太子ご夫妻訪イの際の見聞記で、御夫妻に対してスカルノ大統領はホステス役を伴わず一人で対応されたと記していますが、
平成15623日、国賓として来日したインドネシア大統領と夫君のための宮中晩餐での「天皇陛下のおことば」の中に次ぎのような記事があるのをたまたま目にしました。

“私は皇太子であった1962年、父君のスカルノ大統領が国賓として我が国を御訪問になったことに対する答礼のため,昭和天皇の名代として、当時皇太子妃であった皇后と貴国を訪問いたしました。その時閣下は父君と共に、空港で私どもを迎えられ、皇后に花束を渡してくださいました。閣下は十代、私どもは二十代の時のことであります。”

 このことから、写真(1)(2)(5)で、スカルノ大統領に近い位置に居る156才の少女は若き日のメガワティ・スカルノプトゥリではないかと思い至りました。時により、父親のスカルノ大統領のホステス役を勤めていたのでしょう。
 ただ、スナヤン室内競技場でのインドネシア民族芸能の鑑賞の時は、大統領は一人で皇太子ご夫妻の間に座っていました。 

 注:1962年皇太子ご夫妻訪イの見聞記とは、「ジャカルタ・ジャパン・クラブ1991年7月号」に掲載の小文「天皇の訪イにあたって」のうち、下記の部分です。

”私が初めてジャカルタに赴任したのが、1962年1月で皇太子御夫妻の訪イは、その年の2月でした。当時は、在留邦人の数が少なかったので、かけだしの私でも、空港出迎え、スナヤンの室内競技場でのインドネシア民族芸能の鑑賞、大使公邸での在留邦人へのレセプションに出席させてもらい、皇太子と当時、美智子さんと親しく呼ばれていた妃殿下を目の当たりに見ました。ミッチーブームを巻き起こした皇太子と正田美智子さんの御結婚はその2年前でした。”
”皇太子は風邪に悩まされて顔色がよくありませんでした。対照的にスカルノ大統領はあから顔の嚇灼とした偉丈夫でした。御夫妻に対してスカルノ大統領はホステス役を伴わず一人で対応されました。デビさんのデビュー前というわけで、デビさんはその後、池田首相の訪イの時、初めて正式なホステスとして登場しました。”

メガワティ

メガワティ元大統領

 
 
4) 

(5)
 
 







































戦前と1960年代のジャカルタ
 私は、「ジャカルタ・ジャパン・クラブ1991年3月号」に、私が初めて赴任した1960年代のジャカルタの光景やオランダ時代の名残について述べた小文を「蘭印の地の散策」と題して発表しました。今手許に残っている古い写真とその写真についての記述を「蘭印の地の散策」から拾い出したのが下記です。 
 ホテル・インドネシアの前から独立広場に至るタムリン通りで、1962年当時もあった建物といえば、工事中のホテル・インドネシア、英国大使館、宗教省、バンク・インドネシア、今の鉱山エネルギ省の建物位だったと記憶する。 

1950年代ジャカルタ地図
 
 ホテル・インドネシア前のロータリーと歓迎の像はすでにあったが、プレシデント・ホテルやヌサンタラ・ビルは着工すらしていなかった。ロータリーといえば、ホテル・インドネシアから独立広場までにタムリン通りはワヒッド・ハシム通りとクボンシリー通りに交差するが、それぞれの交差点にロータリーがあった。 
   
 ホテル・インドネシアより英国大使館方向を望む。  プレジデント・ホテルはまだ建っていない。 
 
 クバヨランからホテル・インドネシアまでのスディルマン通りは、アジア大会のために建設中のスナヤン競技場と、すでに出来上がっていたスマンギの立体交差を除いて、建物らしい建物は無く、今日のような摩天楼が競い立つ壮観は想像もつかなかった。  
   
 ワーテルロー広場、 現在のバンテン広場  クン総督像
 ヨーロッパにナポレオンが一時代を画した、1800年代初頭、バタビアの政治の中心はヴェルテフレーデンと呼ばれた今のバンテン広場の周辺地域に移った。バンテン広場とはボロブドゥル・ホテルの前にある広場で、オランダ時代はワーテルロー・プレインと呼ばれた。1814年、英国のウエリントンがナポレオンをワーテルローの会戦で破ったのを記念した広場である。
 この広場に面した今の大蔵省のビルが、オランダ植民地の政庁だった。大蔵省ビルは大理石造りの立派な建物で、隣の旧最高裁判所の建物と並んで立つ様子は、植民地統治のシンボルといった趣である。お隣のシンガポールでも、クリケット競技場のある広場を前にして政庁と最高裁判所が並び立っている。広場の一角にそびえ立つゴジック建築のカテドラル教会もよく目立つ建物である。    
 バンテン広場の中央には、鎖を断ち切った両手を高々と挙げて解放の喜びをうたっている青年の像があるが、古いオランダ時代の写真を見ると、このイリアン解放の像と呼ばれる銅像とまったく同じ場所に、一番上にライオンの像を置いた高い塔がある。ワーテルロー戦勝記念碑であり、ワーテルロー広場の由縁である。また、今の大蔵省ビルである旧政庁の入り口前にクン総督の像が立っている写真を見たことがある。現在は、こういった植民地時代の記念像はあとかたもない。
  また、オランダ時代の名残をとどめる町並みやゴッホの絵を想わせる跳ね橋が今もジャカルタの下町に残されている。
   
 カリ・ブサール   跳ね橋
1960年代絵葉書に見るジャカルタ
 15年ぶりのジャカルタ旅行を終えて、古いアルバムを整理していたところ、1960年代の絵はがきが出てきた。「Prapatan Modjopait」、「Hotel Duta Indonesia」と「Greja katholik」の3枚である。
 バンテン広場のカテドラルは、当時と変わらない外観を保っている。ホテル・ドゥタ・インドネシアは「Des Indesはデザーン」で書かれているように、今は、取り壊されてドゥタ・メルリン・ショッピング・センターになっている。 
    
 Greja katholik jang paling lama di Indonesia  Hotel Duta Indonesia

 運河を挟んでコタへ向かうガジャマダ通りとコタからのハヤムウルック通りが出会うマジャパヒットの様子は変わらないと言えば、変わってないが、ずいぶん変わったと言えば、たしかに大変わりしている。
 半世紀前の絵葉書のハヤムウルック通りとガジャマダ通りで目立つのは、緑の木立である。今回の旅行で見た運河沿いの町並みは、雑多な商店の連なりで、緑を感じさせるものはあまりなかった。  
 
Prapatan Modjopait 
 マジャパヒットから直線方向にハヤムウルック通りを写している左下の写真では、かなり高いビルが幾つも建っている様子がわかる。絵看板の多さも目につく。 
 最も目立って変わったのは、上の絵葉書正面右側の建物の外壁の色である。構造はほとんど変わっていないが、右下の写真にあるように外壁が朱色になっている。この建物は、Melati Hotelといい、ハヤムウルック通りがマジャパヒットでジュアンダ通りに左折する角にある。
   
 
 ハヤムウルック側のこのホテルと向かいあってガジャマダ通り側には郵便貯蓄銀行(BTN)の建物がある。絵葉書正面左側の木立の手前に見える建物である。当時と変わっていない。   
   
 
 
 
 マジャパヒット通りの今昔
 2008年2月13日付けのブログ「ジャカルタ新旧あれこれ」には「マジャパヒット通りのKlub Harmoni」というタイトルで、現在のマジャパヒット通りの写真が左下のように掲載されている。右下は、オランダ時代のマジャパヒット通りとブログに紹介されている今は撤去されたハーモニー会館が写っている写真である。
   
 ブログには、“マジャパヒット通りはムルデカ宮殿辺りからセクネグを通ってコタの入り口のジュアンダの橋の辺りまでの短い通りで、ここに昔ハーモニー会館があったが1985年に取り壊された。写真は撮りにくいが、通りの真ん中のセンターライン位までが昔の位置である。この会館は19世紀始め公式オープンしており、イギリス人とオランダ人の社交場で夜な夜なダンスパーテーなども開かれていたというから今となっては参加できないのが残念である。”と紹介されている。
 私は、ダンスパーティに参加したことはないが、1960年代、ちょっとした会食は、この会館ですることが多かった。会館が取り壊されたことの記憶はまったくない。
 



 保存されている植民地時代の建物
 「戦前・戦中・戦後のインドネシア石油事情」で、私は、"シェルは1966年にインドネシアから撤退したが、それ以前にシェルがオフィスにしていた建物は、1970年にはプルタミナの本社ビルになっていた。この旧シェルの建物は、なかなか趣きがあり、裏側に現在の高層の本社ビルが建った後もそのままに保存されている。また、戦中、日本軍の司令部にもなった重厚なスタンバックのオフィスも保存されて、現在、鉱業省エネルギ省ビルになっている。"と述べたが、現在も、これらの建物が昔のままに保存されているのか、自信がなかった。
 そこで、ブログ「ジャカルタ新旧あれこれ」の西見さんに調べてもらえないか、お願いしたところ、わざわざ出向いて、下の写真を撮って頂いた。
 インドネシアは独立後、オランダ資産の没収など強硬な政策を実施した。インドネシアとしては、植民地時代の制度やしきたりを否定するという姿勢は変えていないはずだが、由緒ある建物は保存というコンセプトは立派である。
 ひるがえって、かって日本が統治した韓国と台湾の場合、台北の旧日本統治時代の総督府は保存されているが、ソウルにあった旧総督府の建物は解体された。

旧スタンバック・オフィス

 独立広場の西南端から南に下るメインロードに入ってすぐのところに鉱業エネルギー省ビルがある。この建物は、エクソン・モービルの前身であるスタンダード・オイル系列のスタンバック(Standard Vacuum Petroleum Maatschappij後にPT Stanvac)のオフィスであった。また、戦時中は、この建物に日本軍司令部が置かれた。今村軍司令官の官邸は、独立広場の北側の現在の大統領官邸だったので、今村将軍は軍司令部まで広場沿いに馬で通った。
   
 
 旧シェル・オフィス
 
独立広場の東北端に向かい合って、プルタミナの本社施設がある。高層のプルタミナ・ビルは道路に直接面していない。道路に面して表側の位置にある建物は、かってロイヤル・ダッチ・シェルのオフィスだった。1966年にシェルがインドネシアにある全資産を共和国政府に売却し撤退した後、プルタミナがこの建物を本社にした。
 また、この建物は、1942年から1945年まで、日本軍政監部の事務所でもあった。
 
 プルタミナ旧館(旧シェル・オフィス)
   
 高層のプルタミナ・ビルの壁に描かれているプルタミナの社章が左上の写真と右上のものとで異なっている。右側の竜の落とし子を表した社章が株式会社になる前のものである。 



 
独立広場と旧日本領事館
 現在の独立広場は、中央にトーチを象ったモナス(Monumen Nasional)と呼ばれる記念塔があり、モナスから4本の広い道路が放射状に走る整備された広場だが、1960年代には、モナスはまだ建っておらず雑草の生えた原っぱだった。
 現在、広場の西側には、丈の高い大木が並木になっている中央分離帯をはさんで片側4車線の広い道路が上下2本走っており、道路に並行して国立博物館など戦前からの建物が連なっている。1960年代には、広場寄りの4車線はなく、国立博物館側の4車線だけであった。今の中央分離帯は広場側の歩道だった。その様子がうかがえるのが、左下に示す19世紀末の写真である。向かって左が広場側である。  
   
 国立博物館を中心として立ち並ぶ官庁の一つが、上右側の写真の福祉調整大臣府である。この建物は蘭印時代の日本領事館だった。1960年代は、プルタミナの前身のプルミナのオフィスであり、北スマトラ石油開発が入っていた。
 1958年の日イ平和条約により、蘭印時代には領事館だけであったジャカルタに初めて、日本大使館が開設された。私がジャカルタに赴任した1962年当時の日本大使館と領事館の所在地は、現在も外国公館が多いイマンボンジョル通りだった。その後、1970年前後に今のタムリン通りに移った。  






































 
 幕末志士の群像                                              
 幕末の頃、撮影された写真とそれについての解説文を知人から頂いた。まさかと思われるような人物群像なので、ホンモノであれば、きわめて貴重な写真である。      

追記:写真を展示するとすぐ、友人の東京外大名誉教授の佐々木重次さんから、コメントが入った。私
   は、初めて見る写真でビックリ感心したのだが、この写真は「フルベッキ写真」と呼ばれてお
   り、真偽について諸説あるとのこと。
 
   なお、ついでながら、この写真を撮ったと言われる長崎の上野彦馬は、佐々木さんの奥さん・
   信子さんの曾祖父に当たる由。

 
幕末志士の群像(解説文)
 つい最近、滋賀県八日市市内の旧家から若い頃の西郷隆盛の肖像写真が見つかり話題を呼び、つづいて青森県八戸市でも八日市のものとソックリの写真が発見されている。

 
 ところが最近になってまた新たな幕末の古写真が発見され、これまでの史実に明らかにされていない幕末動乱の舞台裏の出来事にライトを当てる新資料として好事家の関心を惹いている。話題の古写真は西郷隆盛、大久保利通、坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文、大隈重信、桂小五郎、大村益次郎をはじめとする当時一流の志士たち三十一名が一堂に会している珍しいものだ。


 これまでの史料に残されていない一枚の古写真が物語る歴史的背景には興味深いものがある。問題の写真が撮影されたのは慶応元年二月中旬から三月十八日までのある日。慶応元年といえば徳川幕府も末期症状を呈し始め、最後のあがきのように第二次長州征伐、参勤交代復帰命令、長州にいる京都の五公卿を江戸に.移送する件などの命令を次々に下して時勢に逆らうように衰微していく葵の権威を必死になって支えていた頃である。

 薩摩藩の最高司令官西郷隆盛は幕府の命令に対し、この五公卿は皇政復古には重要な人物であり朝廷に復帰させ日本の統一にあたらせるべきだとして、これらの事件に対処すべく新たに各藩の勤王党の連合を秘かに計画したのであった。
西郷の特命をうけた大久保利通、吉井友実などの志士が諸方を遊説して回わり、集結場所を決めるために慶応元年一月二十七日、大久保等は長崎に上陸したのであった。各地方で国事に奔走する勤皇の志士たちを一堂に集める計画は通信機関のない当時としては想像を絶する難事であったにちがいない。

 一方、長州から福岡の太宰府に移された五公卿は冷遇されていたためその窮状が鹿児島の西郷等に伝わり、西郷一行は二月中句、鹿児島を海路、太宰府に向う。いよいよ各藩の志士たち結集の秘密令が行き渡り、慶応元年二月中旬から三月十八日までの間に長崎に集結の号令をかけられた志士たちは西郷や勝海舟等と共に世界の情勢に明るいフルベッキ博士を訪問したのである。フルベッキ博士の見識と人物とに既にその門下生となった三十一名の当代一流の志士達は活発なデスカッションを行った。今後の日本の統一をどうすればよいか、皇政復古とはどういうことか、復古のあとに具体的な日本の経倫はどうあるべきかをフルベッキ博士たちは議論を展開したのである。この写真の中には薩摩藩の欧州行留学生の一部も入っており、また済美館の前身、仮語学所が慶応元年正月江戸町に建った記念と志士たちが結集した記念とを兼ねて長崎のプロカメラマン第一号の上野彦馬写真館に赴いてフルベッキ博士の愛嬢であるウイリアム・フルベッキも交えて和やかな雰囲気のうちに記念撮影された。

 この時、西郷隆盛は三十八歳、坂本竜馬三十歳、中岡慎太郎二十七歳共にこの二年後に京都近江屋で暗殺されるわけだ。また高杉普作二十七歳、桂小五郎三十二歳、岩倉具視四十歳、NHKドラマ「花神」のモデルである大村益次郎四十一歳、勝海舟四十二歳、といつた具合に後年、明治の元勲となった人物たちが幕末、生命を賭して活動している最中の彼らの風貌を良く伝えている。いずれの志士たちもいかにも実戦用らしい剛刀を手に携えている点にも動乱の当時の世情を物話っていよう。

 そもそもこの写真は明治二十八年に世に出たが当時はまだ慶応年間の政争の事情は関係者も政界に生存しているためもあってすべては明らかにされにくい状況にあったのである。そのために西郷隆盛、勝海舟も共に写っている事実は隠されていたのである。フルベッキ博士は滞日の記録として門外不出にしていた写真だったが、明治二十年代の宗教家で歴史家でもある戸川残花が強く要請した結果、フルベッキ博士より借り受けたものといわれている。〈写其提供=正岡岩三郎氏〉




慶応大学 高橋信一助教授の研究論文「フルベッキ写真の考察」 
 
フルベッキ写真が周知であることを知らなかったため、初めて見た時、これは大変な写真だと思った。ホームページに「お宝画像」を新設して、写真を掲載、目次にも麗々しく紹介した。そのうち、さほど驚くほどのものでないことがわかったので、トップページ目次からはずしたが、消去まではしなかった。
 かれこれ2年ほど、放っておいたところ、突然、慶応大学の高橋信一助教授から、“「お宝画像」を拝見しました。「フルベッキ写真」は慶應元年の撮影でなく、明治元年のものです。写っているのは佐賀藩士を中心とする致遠館の関係者です。”というメッセージとご自身の論文「フルベッキ写真の考察」のご紹介があった。
 高橋助教授が「慶應元年の撮影でなく、明治元年のものです。」と指摘されたのは、上記解説文にある記事のことである。
 私は、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」や「坂の上の雲」を読んで、幕末から明治にかけての時代背景やその他雑学的知識はある方だが、研究者である高橋先生の論文は、よくぞここまで調べられたものと感心してしまうほど見事なものである。学術論文としては文体も分かり易い。
 この「フルベッキ写真の考察」を私のホームページに紹介してよろしいかお尋ねしたところ、“多くの人に冷静に歴史の事実を考える一例にして欲しいと思っております。どうか広めてください。”とのご返事を頂いたので、茲許に紹介する次第である。(2007・1・11)  
 
 





































 中村敦夫と共演
                                                        2006年5月18日
 私は学生時代、中村敦夫と同じ舞台に立ったことがある。
 彼と私は東京外語大インドネシア語科の同窓で、外語祭の催し物の一つ、語劇の舞台だった。
彼は私より1級下の1年生だったが、その年の語劇の主役であり監督だった。そのころは中村敦夫ではなくて、本名の遠藤敦夫であった。彼は身長があり、野球部で1塁を守っていた。

 新学期になり、姿を見かけなくなったので、彼の同級生に「遠藤はどうしたんだ?」と尋ねたら、「俳優座に行きました。」という返事が返ってきたことを覚えている。もう一つ、木枯らし紋次郎で売り出すちょっと前、サスペンスものだったと思うがテレビの画面に彼が出ているのを見て、「あっ遠藤だ。」と声に出したことを思い出す。
 昭和33年の語劇の記念写真、前列中央の伊東教授の左に座っているのが彼である。私は教授の後ろに立っている。
 
    
     舞台に立つ私                   左から2人目が中村敦夫、右2人目が私
 
 ちなみに昭和32年、インドネシア語の語劇は写真入りで新聞に取り上げられた。切り抜き記事の写真に写っている3人のうち右側が私である。この切り抜き記事の新聞が何であったかは覚えていない。
 
 
半世紀たって同窓会で中村敦夫に再会 
   
 先日(平成18122)、東京外大インドネシア語科の同窓会である南友会が日本工業倶楽部会館であった。中村敦夫が講演するということもあり、出席した。巧みな話術で、新著「ごみを食う男」の宣伝や、市川昆監督のリメーク作品「犬神家の一族」に出演した話を披露した。また最近は、仏教研究に励んでいるとのことで、仏教とヒンヅー教の差異についての話には興味をもたされた。上の写真は、ほぼ50年ぶりの再会をホームページに取り入れたく、並んで撮ってもらった。

 
 







































 私のアルバム
 有名人のアルバムはさておき、普通の人のプライベートなアルバムというのは、あまり興味あるものではない。滅多に見直されることはなく、死蔵というか、書棚に埋もれたままの状態が通常である。
 その中で、私の手許に1枚だけ残っている「学童疎開」の記念写真は、私としても大事な写真であるが、戦時記録写真として保存されうる珍しい写真ではなかろうか。学童疎開の記念写真1枚だけでは寂しいので、その昔、私も陸上競技選手だった証拠写真をいくつか並べて公開する。
 おりしも中部ジャワ大地震でプランバナンの遺跡が崩壊したとのニュースが舞い込んだ。30年前、家族と訪れたプランバナンの写真も付け加えた。                                                                
 
学童疎開
陸上競技の選手だった。
プランバナン寺院遺跡
 












































 学童疎開
 学童疎開とは、戦中、激化する空襲をさけて、東京をはじめとする大都市の国民学校生徒を学校ぐるみ安全な地域に移住させたことをいう。私は、昭和20年春 板橋第七国民学校3年生の時、群馬県水上温泉への集団疎開に参加した。
 
 後列最右端が私、後方の建物は宿舎の奥利根旅館 





























 
陸上競技の選手だった。
 私は、高校、大学とも陸上競技部に所属し、一応スポーツマンの部類に入る。ただ私の高校と大学はいずれもきわめてリベラルな校風で、運動部といってもいわゆる体育会系とはほど遠く同好会と言ってもいいくらいだ。それでも、小石川高校陸上競技部で一緒だった桜井孝治君はローマ・オリンピックの三段跳びに出場し、現在も日本陸連の強化委員長だ。
 桜井君は1962年、ジャカルタで行われたアジア大会にも出場したが、そのアジア大会のために打ち上げる花火をアテンドした私とジャカルタで再会した。この経緯は、1991年、私がジャカルタ日本人会の会報に書いた小文「天皇の訪イにあたって」の第3章に述べている。 
 
  
    1962年ジャカルタ、前列中央が桜井君、右が私    高校生活最良の一瞬、運動会ではヒーロでした。   
 


 東京外語大でも陸上競技部でした。 
  
    ハードルをやっていました。         仙石原での合宿、右から2人目が私
 




























 プランバナン寺院遺跡
 津波で壊滅的被害にあったアチェーには足を踏み入れたことはなかったが、今回、大地震に見舞われた中部ジャワのジョグジャカルタ周辺は、出張や家族旅行で何度も訪れた地である。仏教遺跡のボロブドゥールは幸いに無事のようだが、ヒンズー教の遺跡プランバナン寺院は崩壊したと聞いている。
 
 インターネットで取り入れた上の写真ほど立派ではないが、30年前、家族で訪れた時の写真を見つけたので、下に紹介する。趣が若干異なっているが、30年の間にかなり整備されたのではなかろうか。