南の島に灰が降る-グヌンアグンの噴火

1963年3月のバリ島グヌンアグンの大噴火の時、私はスラバヤ肥料プロジェクトのフィージビリティ調査チームの一員としてスラバヤ郊外トレテスの山上のホテルに居た。
 このサーベィチームは、兼松とメーカー、ジェネコンなどの代表10数人から構成されており、私は現地参加した。当時スタートしたばかりのメルセデスベンツのハイヤーを4台チャーターし、ジャカルタから陸路スラバヤ入りした。記憶は定かでないが、日曜日をはさみ往復の途中泊を入れてほぼ10日のスケジュールだったと思う。
 スラバヤ市内のホテルを拠点にサーベィを行ったが、土・日はトレテスのホテルで休養ということで、土曜日の午後、市内からトレテスに移動した。翌日3月17日の日曜日の午後3時頃、周囲が真っ暗になった。闇夜と同じ暗さである。やがて夕刻頃、真っ暗の中を音もなく灰が降ってきた。同行のチームメンバーから「南の島に灰が降る」との声があがった。その数年前に喜劇俳優の加東大介が著したニューギニア戦線での演芸分隊についての体験記の表題が「南の島に雪が降る」であり、同じタイトルで映画化もされていた。
 当時はテレビがなかったし、夕刊ももちろんなく、またラジオを直接聞いたわけでもないが、バリの火山が噴火したと伝わってきた。
 翌月曜日の朝は一面の灰景色であった。多いところでは5センチは積もっていたと思う。仕事の残りを仕上げるため、山から下りてスラバヤ市内に向かったが、車の行くところ灰神楽が舞い上がっていた。仕事を終えて、山のホテルに戻ったところ、山上は雨だったらしく、灰が洗い流されていた。
 翌朝、ジャカルタを目指し途中ボロブドゥルを見物、サラティガ泊まりの予定でトレテスを出発した。どのコースを通ったか覚えていないが、トレテスを下りたところでは積もっていた灰が、しばらく走行して山地から平地に景色が変わると、跡形もなく消えていた。風の向きで東部ジャワのジャワ海側の平野に降った灰もインド洋側の高い山に遮られて中部ジャワ方向には飛んで行かなかったものと思われる。
 グヌンアグンの灰に見舞われた体験談はここまでだが、このサーベィ旅行の帰りにはもう一つ難儀な体験をしているので、それをご披露して締めくくりたい。
 中部ジャワの平原に忽然とそびえ立つボロブドゥルの威容を初めて目にしたのは、この時である。サラティガなどというあまりなじみのない土地に泊まったのは、プロジェクト・オーナーの工業省がアレンジしてくれたためである。
 翌日は一路ジャカルタを目指すべく夜も明けやらぬうちに宿泊地を発った。夜明けのスマランの街をはるかに見下ろしながら走ったことを覚えている。
 炎天下、チャーター車の1台がエンジン不調となった。チレボン近くでもう1台が立木に衝突して走行不能となった。幸いにけが人は出なかったが、一行は3台に分乗せざるをえなくなった。エンジン不調車に合わせて走るため、スピードはがた落ちした。バンドンに入った時は、すっかり日が落ちていた。バンドンで夜食をとってから、プンチャック越えでジャカルタに向かった。高速道路はまだ開通していない時である。通常でも4時間はかかるところを5~6時間はかかったのではなかろうか。明け方やっとジャカルタに着いた。出発してから24時間以上の難儀なドライブであった。                                                終わり

  

















   1983年6月11日ジャワの皆既日食
 私は1983年6月11日、ジャカルタで皆既日食を体験した。1982年10月から翌83年の10月までの1年間、私は3度目のジャカルタ勤めをしていた。日食当日の6月11日は土曜日で半ドンであった。単身赴任の私は、土曜日の午後はゴルフをするのが通例である。その日は、同じ機械部の牧君を誘って、ジャカルタ郊外のサワンガンバル・ゴルフ場に出かけた。
 午後2時か3時頃だったと思うが、突然、「一陣の風」という表現がピッタリの風が吹いてきた。あたりがヒンヤリと涼しくなった。見上げると日食が始まっていた。まわりが次第に暗くなり、やがて完全に真っ暗になった。どの位の時間だったか忘れたが、その間、プレーは中止、牧君と2人のキャディとで、日食の進行を見守った。いわゆるコロナも見たはずだが、覚えていない。要するにゴルフをしていて、皆既日食を体験したということである。

















  















 ジャカルタでの家庭生活
 1962年1月の初赴任以来、4回通算12年ジャカルタ駐在員を勤めたが、そのうち1975年4月から79年8月までの4年半は家族と一緒に過ごした。この間、駐在員としての仕事がガス・水道・電気の施設や機器のサプライヤー業務である一方、家庭生活においてガス・水道・電気の利用を身近に体験した。例えば、日本では経験したことのない電気料金の支払いやプロパンガスの充填のためにガソリンスタンドに出向いたりした。

◎水との関わり:ジャカルタ浄水場建設・水道メーター納入を担当
 ジャカルタの古い浄水場の原水は、洗濯にも使われている市中を流れる川(東京のお茶の水のような川)より取水する。浄水場の取水口はビニールなどでごみ溜め同様、給水ポンプ場は一面洗剤の泡、市中の配水管は老朽のため、パイプ内に汚水が浸透。
 借り家の水道メーターが無届けで設置されていたため、盗水と見なされ、撤去されたことがある。井戸水があると言ったところ、日本水道コンサルタントの担当者から、大小便垂れ流しのため、井戸水の方がもっと汚いと言われた。
 これらは、ジャカルタのプロガドゥン浄水場建設の担当者であったために知り得た事実だが、今もって、家族に話したことがない。

◎電気との関わり:電力公社向けに変電所や送電線等のプロジェクト担当
 料金支払いが遅れると配電をストップされる。慌てて料金徴収所に出向いて、料金を支払い、停電を解除してもらう。
 ジャカルタ市内の電圧は、現在、110Vに一本化されているが、70年代の後半までは、220V110Vの2本立てであった。2本立ての電圧を220Vに統一するVoltage Change Projectで、兼松は台湾・大同社製のミニ・トランスを納入した。
 一般家庭でミニ・トランスを必要とする場合、日本と違って、利用者は自費購入しなければならない。私の家も高いミニ・トランスを買わされた。

◎ガスとの関わり:ジャカルタのLPG貯蔵施設・LPGボンベ・プラント建設を担当
 当時、一般家庭の煮炊きは灯油が主体だった。国策として、灯油に代わってプロパンガスの利用が奨励されボンベに詰められてガソリンスタンドで販売された。
 一時、LPGの供給が途絶えたことがあり、貯蔵・供給施設のサプライヤーの責任だと、知り合いの日本人駐在員の家族からコンプレィンを受けたこともあった。プルタミナの担当者からガソリンスタンドに口利きをして貰う余録もあった。
 *染色工場などはLPガスではなく、都市ガスが必要。チラマイ~チレゴン天然ガス・パイプライ
  ン建設に関わった経験により、天然ガスの利用可能性や立地などの面で複数の合弁会社設立の
  フィージビリティ・スタディに寄与。




























  地図に残る仕事-男のロマン
 「地図に残る仕事」という大成建設のコマーシャルがあります。
 私は、テレビで、このキャッチ・フレーズを見るたびに、その昔、”男のロマン”などと自己満足にひたった頃の記憶が呼び起こされ、何とも言えない共感を覚えるのです。

 大成建設の「地図に残る仕事」の一つ、デュマイ製油所建設プロジェクトには、私自身も参加し、今でも鮮明に記憶しています。
 商社の営業の仕事は、”売った・買った”のビジネスが一般的で、”作る”ことが仕事のプラント部隊は、時間がかかり、効率が悪いとの批判を受けて、肩身の狭い思いをしたこともありました。
 それでも、197080年代プラント輸出、資源開発、海外建設など重厚長大プロジェクトは時代の花形として、脚光を浴びたこともあり、東南アジアのドサ回りでも、”作る”という仕事に”男のロマン”を感じたものでした。
 絵葉書になったテメロー橋 私がこの橋を架けました。」などは、「地図に残る仕事」そのものでしょう。




























   

寅さんと私とインドネシア

                                                      2005年10月27日
 アドバイザー仲間の安東さんが主宰する散策会は、興味深い企画が盛り込まれているので、時間の許す限り参加しています。10月の散策会は、いつもの神奈川エリアからはるかに越境して、千葉県市川から柴又までのコースでした。散策会の目玉は、市川在住の永井荷風が死の直前まで通い詰めていた大黒家の「荷風セット(カツ丼、上新香、味噌汁、酒一本で1,260円)」、「野菊の墓」ゆかりの地から江戸川を渡る「矢切の渡し」、寅さんでおなじみの「帝釈天」、柴又駅近くの参道を一寸入った居酒屋での打ち上げなどなどです。
            矢切の渡し                   帝釈天
   私は、寅さん映画48本の全てを見ています。もっとも映画館で見たのは1本だけで、残りはテレビかビデオです。寅さん映画にハマッタのは、88年から92年にかけての最後のジャカルタ勤めの時でした。独身寮で、同年配の同僚と鑑賞会を楽しみました。一時帰国の土産はきまって寅さんのビデオでした。帰国時には、柴又散策にも出かけました。その時、矢切の渡し船に乗らなかったため、心残りがしていたのですが、今回の散策で胸のつかえがおりました。
 寅さん映画の魅力は、水戸黄門の”この印籠が目に入らぬか”のセリフと同様、一目惚れのあげくの失恋というワンパターンにつきると思います。寅さんの晩年は、甥の満男の恋愛を応援する物わかりのいい寅さんになりましたが、寅さんはやはり「バカだなアイツ」の寅さんでないといけません。久しぶりに柴又にもどってもすぐ、オイチャンやオバチャン、タコ社長とケンカして「とらや」を飛び出すおなじみのシーンです。「とらや」といえば、途中から「くるまや」に屋号が変わりましたが。
 何で読んだか忘れましたが、そのころの東京-ニューヨーク往復JAL便のビジネス・クラスで上映される人気番組は「男はつらいよ」シリーズであり、エリート・サラリーマンは寅さんの気ままな渡世暮らしにあこがれているという記事がありました。この見方に、私はいささか異議があります。私はエリートでもないし、ニューヨーク航路ではなくて東京ージャカルタ便でしたけど、寅さん映画を見るサラリーマンの多くは、寅さんの気ままな渡世暮らしにあこがれているのではなくて、自分は寅さんほどにバカな生き方をしていないという優越感で映画を楽しんでいたと思っています。
 私自身は、サラリーマン人生の大半を東南アジアのドサ回りですごしてきたので、寅さんと相通ずるところがあり、寅さんが旅に出て歩く里山の風情やローカル線の無人駅のシーンになんとも言えない共感を覚えたものでした。
 もともと、私は東京外大のインドネシア語科の卒業で、学生時代のコンパで歌われた「流浪の旅」の”流れ流れて落ち行く先は北はシベリア、南はジャワよ”の歌詞に陶酔したものでした。歌詞に陶酔といえば、60年代のジャカルタでは「カスバの女」をもじって”ここは地の果てジャカルタよ”の悲壮感にひたりました。熱帯の夜空を眺めて「ラバウル小唄」にある”椰子の葉陰に十字星”を探し、いよいよ帰国の時は”さらばジャカルタよ、また来るまでは、しばし別れの涙がにじむ”と口ずさみました。
 とんだ落ちになりましたが、女房がけなすように、インドネシアと一緒にすごした私の人生は、寅さんの気ままな旅と同じだったのだと結んで終わりにします。

































   














昭和30年代と1970年代 
 丁度50年前の昭和37(1962)年1月10日、私は、初めての海外赴任のため、羽田空港を発った。帰国は、翌1963年の11月2日で、約1年10ヶ月のジャカルタ駐在を終了してからだった。赴任地のジャカルタへの到着は1月12日だった。当時のJALは、シンガポールまでの運航だったので、シンガポールからジャカルタまではガルーダを利用した。
 過ぎし半世紀を振り返り、感慨を新たにしたことは、就職や結婚といった人生のビッグイベントが、私の場合、1955年から64年までの昭和30年代に集約されていることである。浪人、大学入試と学生時代、商社への就職、初めての海外赴任、父親の死去、結婚、すべて昭和30年代の出来事であった。
 昭和45年から54年までの1970年代は、世界史的にも激動の10年であった。ニクソン・ショック(1971年)により、1ドル360円時代が終了し、日中国交が正常化された(1972年)。オイル・ショック(1973年)により、戦後の高度成長にブレーキがかけられた。1972年には、沖縄が返還された。大阪万博も1970年に開催された。
 1970年代は、私の商社マン人生にとっても特記すべき10年であった。商社マンは何十万もいるだろうが、ライバル他社が手がけるプロジェクトの担当者という経験をした商社マンは他にいないと思う。私はそれを1970年代初頭インドネシア石油ガス公社(プルタミナ)日本子会社への出向時代に経験した。また、1970年代の後半に当たる1975年から1979年までの4年半はジャカルタで家族と一緒の海外生活を経験した。
 
昭和20年代と“もはや戦後ではない”高度成長の昭和30年代
 昭和20(1945)年8月15日の終戦から数年間の日本は、焼け跡闇市時代とも呼ばれる混乱の時代であった。敗戦国の日本とドイツは、昭和23(1948)年夏のロンドン・オリンピックに参加できなかった。同じ年の11月、東京裁判でA級戦犯に対する判決が下された。やがて、湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞を受賞した昭和24(1949)年頃から、落ち着きを取り戻してきた。水泳の古橋広之進が世界記録を連発して、フジヤマのトビウオと呼ばれたのも昭和24(1949)年である。昭和24(1949)年は、プロ野球がセ・リーグとパ・リーグに分裂した最初の年である。また、大相撲は、現在の両国国技館ではなく、蔵前仮設国技館で開催されていた。昭和27(1952)年には、日本は、ヘルシンキ・オリンピックに復帰参加した。テレビ放送は、昭和28(1953)年に始まったが、機械の値段が高く、自宅でテレビを見られる家庭はわずかだった。当時、高校生の私は、街頭テレビで力道山のプロレス観戦、喫茶店で相撲見物をした覚えがある。
 昭和25(1950)年6月25日、朝鮮戦争が始まると、米軍による物資の買い付けにより、日本経済は朝鮮特需を享受するようになった。昭和26(1951)年9月には、サンフランシスコ講和条約が調印されて、日本は、被占領国の地位から独立を回復した。朝鮮戦争は昭和28(1953)年7月27日に休戦したが、朝鮮特需がきっかけとなり、昭和30年代からオイル・ショックが起きた昭和48(1973)年にかけての高度成長期が始まった。
 高度成長期、“もはや戦後ではない”という言葉が広く使われた。この言葉は、昭和31(1956)年7月に発表された経済白書(副題「日本経済の成長と近代化」)の結びに使われたもので、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指している。
 昭和30年代は、日本人の生活様式を一変させた時代でもある。団地と呼ばれる公団住宅の普及により、畳と和式トイレの日本式住宅が、ダイニングキッチンと水洗トイレを取り入れた洋風スタイルへと転換したのである。また、スーパーマーケットが、一般化するのも、この頃である。コンビニの場合は、昭和40年代まで待たねばならない。
 昭和30年代前半のビッグイベントは、昭和34(1959)年4月の皇太子と正田美智子さんのご成婚である。ミッチーブームという社会現象になった。石原慎太郎の小説「太陽の季節」も太陽族という社会現象を起こした。集団就職も、この頃の社会現象であろう。もう一つ、昭和31(1956)年5月に売春防止法が施行されて、昭和33(1956)年3月には、赤線地帯が消滅した。
 昭和34(1959)年、西ドイツのミュンヘンでのIOC総会で、1964年オリンピックの開催地として東京が選出された。これに向けて、数多くの建設工事が着手された。新幹線は、オリンピックの開会式(10月10日)に合わせて、昭和39(1964)年10月1日に開業した。首都高速道路の主要部分も整備された。
 




































   懐かしのメロディー
 私は音痴だが、懐メロは大好きである。
 懐メロの中でも、「ラバウル小唄」は格別だ。戦時に生まれ育った私たちは、ラジオから流れる戦時歌謡にごく自然に親しんだ。昭和19年頃、"さらばラバウルよ"で始まるこの「ラバウル小唄」はずいぶんと流行った。
 昭和20年春、私は、親許から離れて群馬県の水上温泉に学童疎開した。国民学校、今の小学校3年生だった。幼い子供たちは、親許に帰りたい、早く水上にサヨナラをしたいという切ない思いから、"さらばラバウルよ"ではなく"さらば水上よ"と合唱した。
 「ラバウル小唄」の歌詞に"椰子の葉陰に十字星"という一節がある。私が初めて赴任したジャカルタも、ラバウルと同様、椰子の葉陰に十字星がキラめく熱帯である。なにかの折りにつけて、"さらばジャカルタよ、また来るまでは"と口ずさんだものである。
 "さらばジャカルタよ"と同様、インドネシア風にもじったのが、「スンダ海峡夏景色」である。「津軽海峡冬景色」の存在は、1974年から79年までのジャカルタ駐在員時代、公私ともに親しい先輩の羽根田さんが出張で来イした時、日本ではカラオケというものが流行りだした、よく唱われている歌に「津軽海峡冬景色」があると聞いて、当地では「スンダ海峡夏景色」ですね、と名付けたのである。アドバザー仲間の吉川秀夫さんも、1970年代後半サウジに駐在していたが、私と同様、「津軽海峡冬景色」を「ホルムズ海峡砂景色」ともじったそうだ。
 高校も大学も会社も違うが、50年以上もの付き合いの須長哲夫君は早稲田出身で、酒を飲むと口にするのが、「人生劇場」の”義理と人情のこの世界”、私は”あんな女に未練はないが、なぜか涙が流れてやまぬ”だった。
 「ラバウル小唄」は別として、私にとってインパクトのあった懐メロは、「南国土佐を後にして」と「長崎は今日も雨だった」である。
 学生時代、北陸を一人旅した時、巷に流れていたのがペギー葉山が唱う「南国土佐を後にして」だった。当時は、歌謡曲の類を馬鹿にしていたのだが、この歌のメロディーと歌詞は、私の脳裏に染みこんでしまった。
 「長崎は今日も雨だった」の場合は、1971年1月、6年ぶりにジャカルタに出張した時、スカルノ時代には無かったキャバレーがあり、台湾から来たというコーラス・グループが唱っていたのが、この歌である。ジャカルタにキャバレーがあり、そこで日本の歌謡曲が歌われているなど、まったく思いもよらなかったので、インパクトは大きかった。
 話は飛ぶが、海外にいて、しみじみとした思いにかられる代表的な歌は、文部省唱歌「故郷」であろう。聞いた話だが、ソ連時代のモスクワで、「寺内タケシとブルージーンズ」が公演した。そのころ、日ソ間で何かトラブルがあり、剣付き鉄砲をもった兵隊が監視する中での公演だったそうだが、出し物の一つとして「故郷」が演奏された時、聴衆のほとんどを占める日本人は涙したという。
 「星影のワルツ」が世に出たのは1968年とのこと。その頃は、東京在勤だったが、歌謡曲にほとんど関心がなかったせいで、そんな歌があることも知らなかった。それが、業務部門から営業部に戻った1973年、近くの喫茶店で同僚数人と打ち合わせをした時、ジュークボックスから途切れることなく流されていた曲がこの歌である。その後、1979年に家族とジャカルタを去る時、長女が飼っていた犬を置いて行くことになった。”別れることはつらいけど、しかたがないんだ、君のため、別れに星影のワルツを唱おう”という歌詞は、愛犬と別れる娘の心情そのものだった。
 最近、仕事で何度も蘇州に出張している。もっとも、出向く所は「蘇州夜曲」で唱われている蘇州とはおよそかけ離れた殺風景な工業団地である。寒山寺や世界遺産になっている蘇州古典庭園を観光したのはたった一度である。それでも、初めて目にした蘇州旧市街の風情は「蘇州夜曲」の歌詞とメロディそのものと感じ入った。
 中国ものでもう一つ、「何日君再来」は、和訳の「いつの日君帰る」でも知られた戦時歌謡だが、子供の時は知らなかった。50年前、ジャカルタに赴任する前に耳にし、その歌詞とメロディに、そこはかとない感傷を覚えたのである。戦時歌謡と言えば、中国戦線に出征した兵士たちに最も好まれたのが、「誰か故郷を想わざる」だそうだ。「故郷」と同じで、遠い地にあって望郷の想いにかられるというのは、日本人の心情に合うのであろう。
 私の懐メロは、いうなれば演歌の類である。一つだけ、演歌でないのがある。私は、1982年から83年にかけて、マレーシア領ボルネオの日本鋼管コタキナバル水道管敷設工事現場事務所に出向した。日本鋼管(現在のJFE)からは、所長以下6人のスタッフが派遣されており、1戸建てを借りて共同生活をした。その中で一人、歌のうまい人がおり、いつも唱っていた歌が「青春時代」であった。当時はメロディーや歌詞にさほど惹かれたわけではないが、年を取り昔を振り返ることが多くなってから、この歌と「高校三年生」が「私の懐メロ集」に加わった。
 もう一つ、谷村新司の「」も「私のナツメロ集」に加えたい。先日、新高輪プリンスホテルのディナーショーに呼ばれて、初めて生の「」を聞いたが、昔から、私は“われは行くさらば昴よ”という一節が好きだった。また、10数年前、セレベスのメナドに出張し、会食した時、私の同行者がバンドの演奏に合わせて見事に歌い上げたのが「」だった。












 懐かしの名画
 私は東京の下谷根岸の生まれで、昭和19年までは根岸国民学校に通っていた。休日など、兄に連れられて浅草六区まで歩いて行き、映画を見た。当時の浅草には、ひょうたん池がまだ埋められずにあった。
 見る映画は当然、日本映画ばかりであり、エノケン(榎本健一)ものやアラカン(嵐寛壽郎)の鞍馬天狗だった。また時代を反映しての戦争映画も多く、今も記憶に残っているのが、「将軍と参謀と兵」、「マライの虎」、「ハワイマレー沖海戦」などである。「マライの虎」は、後年、山下奉文大将を指すようになったが、この映画の主人公は、マレーで床屋を営んでいた日本人の息子で、イギリスの策謀で妹を殺されて、盗賊となり、その後、マレー半島に上陸した日本軍に協力し戦死した谷豊という青年である。
 日本映画は、終戦後、ハリウッド映画が日本で上映されるようになってからは、ほとんど見なくなった。ハリウッド映画のスケールとスピードと迫力に圧倒されたからである。
 初めて見たアメリカ映画は、西部劇の「大平原」(1939)だった。馬に乗ったインディアンの大群が列車を襲撃する場面には、強烈なカルチュア・ショックを受けた。原題が「Union Pacific」の通り、鉄道建設をテーマとしており、完成した鉄道を「おおスザンナ」のメロディーにのって列車が走るラストシーンもインパクトがあった。
 ジョン・フォード監督、ジョン・ウエイン主演の「駅馬車」(1939)は、西部劇の最高傑作と言われている。ジョン・フォード監督の作品には人情味があり、私の心情と波長が合った。独立戦争当時の開拓劇「モホークの太鼓」、主題曲の「いとしのクレメンタイン」が印象深かった「荒野の決闘」、騎兵隊ものの「黄色いリボン」、米国士官学校の教官の物語である「長い灰色の線」、アイルランドを題材にした「静かなる男」が代表的である。
 ゲーリー・クーパーとグレース・ケリーが共演した「真昼の決闘」は物語の時間の経過と映写時間が同じという珍しいものだった。ゲーリー・クーパーとバート・ランカスター競演の「ヴェラクルス」は、メキシコが舞台の西部劇である。
 小学校の頃は、西部劇もさることながら、オリンピック水泳の金メダリストだったジョニー・ワイズミューラーの「ターザン」や凸凹コンビのコメディなどをよく見た。中学から高校にかけては、「海賊バラクーダ」とか「ロビンフッド」の系統が好みであった。ダニー・ケイの「検察官閣下」も記憶に残っている。
 最も映画に熱中したのは、大学生になってからである。日本映画はまったく見なくなった。ナチスの記録映画や格好のいい制服のドイツ軍が出てくる戦争映画を好んだ。フランス映画の「鉄路の闘い」のようなレジスタンスものもよく見た。チャップリンの「独裁者」もその一つである。
 「戦場にかける橋」(1957)を見たのは学生時代だが、「大脱走」(1963)は、社会人になってからだ。後年、家族とタイ旅行をした時、バンコックからカンチャナプリまで3時間ドライブして「クワイ川にかかる橋」を渡った。
 社会人になってから見た映画で、今も心に残るのは「心の旅路」(1942)である。ジェームズ・ヒルトンの原作を読んでいたが、たまたまテレビの放映で見ることができた。ヒロインのグレア・ガースンが魅力的だった。
 戦前の名画、例えば、クラーク・ゲーブル、ヴィヴィアン・リーの「風と共に去りぬ」(1939)やゲーリー・クーパー、イングリッド・バーグマンの「誰がために鐘は鳴る」(1943)などは、池袋人生座のような名画専門の映画館の3本立てでよく見たが、やがて、ほとんどはテレビを通して見るようになった。
 テレビで見たハンフリー・ボガード、イングリッド・バーグマンの「カサブランカ」(1942)のあるシーンは、非常にエモーショナルで、私は、時折、ビデオで見直すことがある。
 そのシーンとは、カサブランカのある酒場で、ドイツ軍将校のグループが唱う「ラインの護り」に対抗して、ナチスに追われた亡命者たちが、「ラ・マルセイユ」を高らかに合唱し、ドイツ軍将校の歌を圧倒してしまう場面である。


















  
 

















インターネットにおける著作権
 このホームページの「雑文集」に掲載している「寅さんと私とインドネシア」、「懐かしのメロディ」、「懐かしの名画」には、フランス国歌も含めて幾つかの歌曲が引用されている。当初は、引用している全ての歌曲について、曲名をクリックするとメロディが流れる仕組みにした。仕組みといっても、単に配信元のサイトにリンクを貼っただけで、サイトもしくは曲そのものには何の加工もしない。念のため、引用したリンク先のURLも注記した。
 記事の内容から、メロディは、どうしてもほしい。しかし、リンクさせて、曲を流す行為が著作権に抵触するのではないか、という不安から、いろいろ調べた結果、音楽著作権は、非常にシビアであり、さらに、娘夫婦からも削除すべきであると強く要請されたため、ほとんどの曲からメローディをはずさざるをえなくなった。
 ネット上の著作権を調べるにあたって、最初に見つけたのは次ぎの記事である。
”インターネットで第三者が自由にダウンロードできるものについては、そのリンク元(著作元)を明らかにすることで利用することが可能です。これが世界的に認められているインターネット著作権の見解で、このためGoogleなどの検索サイトが合法的に世界的なサービスを運営できる理由です。(不特定多数に向けて公開されている様々なホームページの情報をGoogleの保有する検索サーバに画像や文字情報を複製コピーして、それをユーザに検索利用させたり、検索集計結果の解析データを提供しても著作権違反ではない、ということです。)”
 一般的には、リンクとはホームページを他のホームページに結び付ける機能であって、リンク先のホームページの情報(著作物)を複製したり送信したりしなければ、リンクを貼ること自体は、著作権の侵害にならないという解釈が成り立つようである。
 インターネット百科事典であるWIKIPEDIAでも、”著作権法の解釈では文字情報の一部を引用し、出典を明らかにした上で質・量ともに十分なコメントを付記した行為が認められており、文芸分野において仲介業務を行っている日本文芸著作権保護同盟もこれを認めている”と記述している。しかし、WIKIPEDIAの解説は、”JASRAC の見解では一節の引用も許容できないとされた。”という記述に続いている。
 JASRACとは、社団法人日本音楽著作権協会(Japanese Society for Rights of Authors, Composers and Publishers)のことで、JASRACのサイトを見る限りでは、音楽著作権に対するJASRACの見解は、シビアである。
 JASRACのサイトにある「インターネットや携帯電話等 音楽利用の手引き」の「§1 ホームページ診断(あなたのホームページやサービスは許諾が必要?)」は、ホームページに掲載している音楽についての設問にNoであれば、許諾は不要、Yesであれば、次の設問に進み、最終的に許諾が必要か否かが決定されるとしている。ただ、JASRACの用意した設問は極めて限られており、音楽を流しているサイトにリンクを張っただけの場合でも、許諾は必要なのかを確かめたいのに、その類の設問は用意されておらず、いやも応もなく、”ここまでたどりついた方のホームページは、JASRACの許諾手続きが必要です。これ以降のご案内をご確認いただき、お手続きください。”という結論に導かされる。
 また、「参照の多いFAQ」にある“ホームページやブログで音楽を使いたいのですが”という質問に対しても、“音楽に限らず、ホームページや携帯電話などネットワーク上で著作物を利用する場合は、事前に著作権者の許諾を得ることが必要です。JASRACが著作権を管理する楽曲であれば、JASRACの許諾を得ていただくこととなります。”と回答している。
 さらに、「インターネットなどでの音楽配信(非商用)」にある“他のサイトに置いてあるMIDIデータにリンクを張って、自分のホームページのBGMにした場合、著作権の手続きは不要だと聞いたのですが ”という問いあわせには、“MIDIデータを掲載しているサイトの運営者はもちろんのこと、あなたご自身も許諾手続きが必要です。たとえそのMIDIデータを作成・アップロードしたのが他の方であっても、リンクを張ることによって、ご自身が運営するサイトを構成するコンテンツであるかのように表示する場合は、ご自身で掲載するのと同様に、許諾が必要な利用となります。”との回答である。
 
*MIDI(Musical Instrument Digital Interface):
電子楽器の演奏データを機器間でデジタル転送するための規格。物理的なインターフェース、通信プロトコル、データ形式、ファイルフォーマット (Standard MIDI File : SMF) などからなる。また、MIDIを搭載した機器(MIDI楽器、MIDI音源)やデスクトップミュージック(DTM)のことを指してMIDIということもある。(出典:WIKIPEDIA)

いかなる状況においても、歌曲を利用する場合は、著作権者の許諾が必要というのが、JASRACの公式見解である。おりしも、JASRACとGoogle傘下で動画投稿サイト最大手のYouTubeは、YouTubeサイトでの音楽著作権の利用許諾契約を結んだというニュースがあった。この利用許諾契約に伴い、ユーザーはJASRACの管理楽曲を二次利用した動画を作成して、そのつどJASRACに許諾申請することなく投稿可能になったとのこと。YouTubeにリンクを張って、メロディを取り入れることは違法でないと解せないだろうか?この状況の変化を、JASRACは、どのように対処しているのだろうか?

 
YouTubeにリンク
 JASRACのサイトでYouTubeに関連する記事を検索したところ、「インターネットなどでの音楽配信(非商用)」に「動画を伴う配信」という項目があり、“動画投稿サイトのタグ貼り付け機能を利用して、自分のホームページに貼り付けたい”という質問があった。これに対するJASRACの回答は、次のようになっている。
“YouTube、ニコニコ動画、Ustreamなど、JASRACと許諾契約を締結している動画投稿サイトにアップロードした動画を、いわゆるタグ貼付・埋込の方法で外部のサイトに貼付けて利用する場合は、別途、外部サイトの運営者において、許諾手続きが必要となります。
ただし、外部サイトが、個人が広告収入を得ずに運営するホームページ、ブログなどの場合は、動画投稿サイト側の許諾の範囲に含まれますので、許諾手続きは必要ありません。“
 つまり、非商用の個人のホームページでYouTubeの歌曲にリンクを張るだけの場合は、JASRACとYouTubeの利用許諾契約の範囲内なので、ホームページ運営者は、JASRACに許諾手続きをする必要がないと解釈できる。
 また、「YouTubeにJASRAC管理曲を使用した動画をアップロードする件」というサイトを見ると、次のようなJASRAC ネットワーク課J-TAKT係でからの回答が掲載されている。

YouTubeの許諾範囲について
ユーザーが行う以下の行為においてJASRAC管理楽曲を利用することついては、許諾範囲に含まれます。
・動画をストリーム形式で視聴すること。
・自身が制作した動画をアップロードすること(内国曲に限る)。
・自身のブログ等の非商用サイトに貼り付けること。

 JASRACは、個人のホームページやブログのような非商用サイトであれば、YouTubeにリンクしてJASRAC管理楽曲を流しても、YouTubeの許諾範囲と確認している。
 そうであれば、私のこのホームページで引用している歌曲をYouTubeにリンクして、メロディが流れるようにしても、許諾は不要のはずである。念のため、JASRAC送信部ネットワーク課に電話で問い合わせたところ、問題ないとの回答を得た。YouTubeに限らず、「歌声入りの童謡・唱歌・演歌・歌謡曲・民謡・外国曲」のようにJASRACの許諾マークと番号を付けているサイトにリンクを張っても、同じ扱いである。「歌声入りの童謡・唱歌・演歌・歌謡曲・民謡・外国曲」は、リンクフリーを明記している。かくして、当ホームページでは、歌曲の名前をクリックすれば、メロディが流れる仕組みを再開した。

 JASRACが、YouTubeなどと動画投稿サイトでの音楽著作権の利用許諾契約を結んだことにより、許諾範囲の幅が広がったことは確かである。この状況で、YouTubeは「著作権に関するご参考」を発表している。  YouTubeは、投稿動画について、ユーザーにオリジナルな創作であることを求めており、著作権の侵害に該当するような投稿動画は、削除するとしている。事実、“この動画は削除されました。これは、以下をはじめとする複数の申立人から著作権侵害に関する第三者通報が寄せられたことにより、この動画の YouTube アカウントが停止されたためです:”というコメント付きでリンクできないケースを何度か経験した。一つ疑問に思うのは、YouTubeに掲載されている歌曲は、ほとんどがDVDなどから収録したもので、オリジナルな創作とは思えないのだが、いかがなものだろうか?
 YouTubeにせよ、「歌声入りの童謡・唱歌・演歌・歌謡曲・民謡・外国曲」にせよ、リンクを張るだけであれば、著作権の侵害にならないことが、確認された。このリンクを貼る行為が、著作権侵害にならない根拠として、社団法人著作権情報センター(CRIC=Copyright Research and Information Center)も、“無断でリンクを張ることは著作権侵害となるでしょうか”という質問に次のように回答している。

”リンクとはホームページをほかのホームページに結び付ける機能をいい、ホームページに飛び先を書き込んで、それをクリックするだけで目指すホームページにジャンプできるようにすることを「リンクを張る」という言い方をします。リンクを張ることにより、他人のホームページにある著作物に容易にアクセスすることができるだけに著作権侵害とはならないかが問題となります。
結論を先にいえば、リンクを張ることは、単に別のホームページに行けること、そしてそのホームページの中にある情報にたどり着けることを指示するに止まり、その情報をみずから複製したり送信したりするわけではないので、著作権侵害とはならないというべきでしょう。”
*CRICとは、NHK、民放連、JASRAC、一般社団法人日本レコード協会の4団体による著作権資料研究所として発足したもので、著作権等に関する多様な事業を展開している。

 
   































































戸籍上の廣澤

私の名字「広沢」の旧字体は「廣澤」で、戸籍や戸籍に基づいて発行される自動車免許書あるいは銀行口座の名義などは旧字体が使われている。ただし、戸籍や免許証に載っている「廣澤」の「ヒロ」の字体は、常用漢字表の「廣」ではなく廣の俗字。である。廣の俗字。は、戸籍に許容される俗字/異字体/略字、誤字の類の由。ワープロの登録文字も「廣」だけで、戸籍に記載されている俗字の廣の俗字。は、ワープロでは出せない。

 15画  廣の俗字。  
 



江戸っ子と戸籍
 下町生まれで三代続きがちゃきちゃきの江戸っ子の条件だそうだが、戸籍面を見る限り、私も江戸っ子のはしくれである。
 私の祖父の戸籍謄本によると、祖父の本籍は、東京市日本橋区通弐丁目弐拾壱番地で、祖母は、東京市京橋区本港町拾番地で生まれたとある。この謄本には、私も含めて、私の兄弟五人の名前も載っている。それによれば、私の父は祖父の本籍地で出生、私自身は東京市下谷区新坂下町六十三番地に於いて出生とある。(母は石川県の生まれ)
 この謄本は、明治拾六年拾弐月拾参日(1883年12月13日)付けで始まっているが、よく見ると”大正拾弐年九月壱日焼失に付昭和弐年七月拾壱日再製”という文言が記載されている。大正12 (1923)年9月1日の関東大震災で焼失されたものを昭和2(1927)年7月11日付けで復元したようである。
 下に掲げたのが、その骨董品的戸籍謄本である。

  
   









 



























 











印象派
  
     
   上に掲げる2枚の絵は、ゴッホの「糸杉」とモネの「ひなげしの野」であるが、よく見ると実物でなく、模写であることがわかる。それも、私がクレヨンで描いたものだ。
 私は、歌は人並み以下だが、絵の方はまあまあである。私の兄は、日美展の水彩画部門で入選したことがあるので、血のつながりかもしれない。
 印象派の絵は、確かにインプレッションがある。初めて、「糸杉」を見たときの印象は強烈だった。その時もクレヨンで模写した。定年になって、何かしようと思い、模写したのが、上の絵である。
 ゴッホ、モネ、ルノワール、セザンヌが私の好みである。








































 
20年ぶりの深圳
 先日(2007年6月24日より28日)、顧問をしている会社の会長に同行、広州白雲空港着発便を利用して深圳に出張した。
 私は1987年12月に香港経由広州に出張した際、深圳を通過しているので、ほぼ20年ぶりの訪問だった。
 深圳については、第2次大戦勃発時、英領であった香港への日本軍の攻略は、日中事変で占領していた深圳から始まったという戦記を読んでおり、又、深圳が国境の川を挟んで香港と接し、香港と広州を出入りする人は、国境の川に架かる橋を徒歩で渡るという話を聞いていたので、一度は行って見たいと思っていた。
 20年前の香港から広州までの往路は飛行機便だったが、帰りは広州から深圳まで車で走り、国境に架かる橋を渡って出入国、九龍行きの電車で香港に戻った。
 20年前の深圳は、高層ビルのかけらもないまったくの田舎でどんな街だったか覚えていないが、国境の川というのは山と山の間の谷川のような感じで、そこに架かる橋もせいぜい50メートルくらいの長さだったと記憶している。だからこそ今回見た高層ビルが林立し広い通りが走る近代的大都会の深圳には驚嘆した。
 なお、残念ながら、深圳に何度も来ている会長のお供の身では、現在の国境がどんなに変わったか確かめたいという個人的希望は表明できなかった。その代わり、4泊のうちの後半2泊は、深圳郊外にあって、216ホールのゴルフ場ということでギネスブックにも載っているミッション・ヒルズ・リゾート・ホテルに泊まらせてもらった。










































 

紹興酒と灘の生一本                    
                        
20085月3日
 私の弟はアパレル会社のOBで、染色の専門家として、この数年間、上海に常駐していた。先日、彼の清里の別荘で飲み明かし、上海土産の上海老酒と私が持参した大吟醸を空にした。
 彼は、「上海の居酒屋では紹興酒と言っても通じない。日本で紹興酒という名で知られている醸造酒は、黄酒(ホアンチュウ)である。この上海老酒(ラオチュウ)も、長期熟成した黄酒(ホアンチュウ)である。黄酒は米を原料とする醸造酒だが、高梁、小麦、豆類、とうもろこしなどの穀物を原料とした蒸留酒が白酒(パイチュウ)で、茅台酒(マオタイシュ)は代表的な白酒(パイチュウ)である。」と蘊蓄を傾けて力説した。
 私は、年に1度は、蘇州の合弁会社に出張する。合弁会社の中国人総経理から「紹興酒」と記された瓶酒を土産にもらう。「紹興酒」と記された瓶酒は、日本のスーパーでも売られている。
 多くの日本人は、紹興酒の産地が浙江省紹興であることを知っている。中国政府は、紹興を産地とする黄酒でなければ、「紹興酒」の名を冠することを禁じている。
 一方、台湾産の紹興酒の謂われもよく知られている。国共内戦時、蒋介石とともに台湾に逃れた紹興出身者が作ったもので、台湾産の紹興酒により、紹興酒の名前が日本で知られるようになったと言っても過言でない。
 紹興酒が実際に存在しているにもかかわらず、上海では紹興酒という名前では流通していないという弟の強弁に、紹興酒とは「灘の生一本」と同じで、紹興を産地とする醸造酒の総称であると反論した。私は「灘の生一本」は、兵庫県灘を産地とする銘酒の総称で「灘の生一本」というブランドの酒はないはずと言うのに対し、弟は「灘の生一本」はブランドだという。
 清里から帰り、Wikipediaなどで調べたところ、灘五郷は酒造りに適した上質の米“山田錦”と上質のミネラル水“宮水”が取れ、製品の水上輸送に便利な港があったことから、日本酒の名産地として栄えたとあり、生一本とは、まじりっ気のない酒を意味し、「灘酒」が生一本の代名詞になった、とある。つまり、「灘の生一本」は私が思っていた通り、灘の銘酒を指し、ブランド名でないことが明らかになった。
 紹興酒も、瓶酒のラベルに記されている「紹興酒」に目を取られて、ブランドを見過ごしてしまうが、ブランド名も明記されており、台湾産の紹興酒は別として、紹興を産地とする黄酒(ホアンチュウ)の総称であることが分かる。